「自明な正しさ」を分解し、再構築する 生命式 / 村田沙耶香


作品のあらすじ

 舞台は、人口減少が深刻化し、性行為の機能から「性愛」や「快楽」が排除され、「生殖」のみに重きを置かれるようになった世界。
 そこでは、故人の肉を食べて男女が交尾をする新たな葬式「生命式」がスタンダードになっていた。
 主人公の池谷は、人肉食が「人間の本能」によってタブー視されていた時代をよく覚えているが故に、人肉食の慣習に違和感を持っていた。しかし、その違和感を共有する相手だった同僚の山本が亡くなり、その葬儀を執り行う過程で、池谷はこの世界の「正常」を受容し始める。

はじめに

 「生命式」は、「人肉食に対する生理的嫌悪」や「家族制度」が持つ「自明な正しさ」を分解し、再構築した結果に生まれた世界を描いている。本稿では、それらの再解釈のプロセスを追い、その妥当性を検討していく。

 (なお、本稿は十分な文系大学教育を受けていない理系学生が執筆しているために、批評として成立していない箇所がおそらく多数存在する。
 そもそもこういう類の文章を書くのは今回が初めてであるし、誰かに向けて書いているというよりも一人で壁打ちをしている側面が強い文章である。もしかするとただ本の内容をまとめ直した感想文に過ぎないかもしれない。読んでくださる方には申し訳ない限りだが、どうかあたたかい目で読んでほしい。)

性行為が持つ機能の再構築

 従来の家族社会では、生殖に至る経緯は性行為が持つ「性愛」の機能によって複雑化・非効率化していた。

 「生殖」とは一般に夫婦が成熟した「性愛」を育んできた結果として用意されており、逆に成熟した「性愛」を伴わない「生殖」は「正しくない」とされてきた。
  故に、たとえば単なる「快楽」目的だったり「性愛」の発達段階において行われる「セックス」では、避妊具を着用することが「正しい」。「性愛」を育んでいる相手がいるのにも拘らず、他の人間と性行為をすることは、既存の「性愛」を破壊し、それに伴って「家族関係」を破壊することになるので「正しくない」。

 以上の「正しさ」は、「『生殖』した結果産まれてきた子供は、夫婦で育てなければならない」といった「家族制度」が持つ社会規範によって担保されていた。「性愛」が十分でないカップルは、子供に対して正常な家族関係を提供できない恐れがある。不貞行為は子供を育てるための家族関係を破壊し得る。故に、以上の行為は「正しくない」のである。

 ところが、急激な人口減少によって性行為における生殖機能が最重要視された結果、その「正しさ」は大きく揺らぎ始める。「生殖」の前に立ちはだかる「性愛」の遠大な育成プロセスと、その背景にある家族制度は、もはや人口減少を悪化させる要因でしかなかったのである。

 以上の背景から、人類は「性行為」の目的を「生殖」ただ一点に捉え直し、生殖の効率化を図った。その結果、「生命式」という文化が誕生するに至ったのである。次項では、「生命式」が誕生するに至ったプロセスについてさらに詳細に考察していく。

葬儀が持つ機能の再構築

 「生命式」は、作中の三十年前の世界、つまり、私たちが現在住む世界の価値観に照らし合わせて考えれば、「発狂」そのものである。生命式が「発狂」たる所以は、主に「人肉食」と「新たな生命を作る機会としての機能」の二つの点に絞られる。
 これらは、いずれも葬儀が持つ機能を分解して再構築した結果に生まれた文化であると考察する。 

人肉食文化と葬儀の機能の再構築

 前者の「人肉食」は、葬儀が元来持っていた「故人の肉体を処分する機能」ならびに「故人の存在をこの世界に調和させる機能」を再解釈した結果生まれた文化である。

 ここでの「故人の存在をこの世界に調和させる機能」とは、たとえば、「遺体を大地に埋めたり猛禽類に食べさせることで自然と調和させること」だったり、「生者が故人の成仏を願うことによって生者が持つ『あの世』表象へ調和させること」など、故人の個人としての存在を曖昧にさせる行為全般を指す。

 生命式の登場人物は、故人の肉体を複数人の参列者で食し、新たな生命を作るためのエネルギーとして消費することで、故人の調和を実現している。

「本当にいい風習だね。命を食べて、命を作る……」
 おじいさんの言葉に、中尾さんの妻がハンカチで目を押さえた。
「そうですね。主人も喜びます」

村田沙耶香「生命式」19頁

 以上のように、葬儀の機能を再解釈した結果、葬儀に人肉食文化を取り入れる余地は存在すると言える。
 では、人肉食文化そのものはどのようにして再構築され、葬儀のプロセスの一つとして取り入れられるまでに至ったのだろうか。

 幼稚園のころ、お迎えのバスの中で、しりとりに飽きた私たちは、食べたいものをあげていくゲームをはじめた。
(中略)
 順番がまわってきた私は、「じゃあ、人間」と何の気なしに言った。
 おサルさんと言った女の子に合わせた軽い冗談のつもりだったのだ。
 けれど、私の回答に、バスの中は騒然となった。
「えーっ」
「怖ーい……!」

村田沙耶香「生命式」12~13頁

 かつては、人肉食の文化は話題に出すことさえタブー視されていた(あくまで日本という狭い文化圏においての話だが)。タブー視されるようになった背景は、実際には様々な要因があるのだろうが、ここでは、作中の描写通り、人間に元来備わった「本能」が忌避しているからだとする。では、何故本能で忌避されるはずの人肉食が、受容されるようになったのだろうか?
 作中では、そもそも「本能」はその世界によって与えられているものに過ぎず、その世界によって変容し得るものだと説明されている。

「わかるー。人肉を食べたいと思うのって、人間の本能だなあって思うー」
 おまえら、ちょっと前まで違うことを本能って言ってただろ、と言いたくなる。本能なんてこの世には無いんだ。倫理だって無い。変容し続けている世界から与えられた、偽りの感覚なんだ。

村田沙耶香「生命式」24~25頁

「真面目な話さあ。世界ってだな。常識とか、本能とか、倫理とか、確固たるものみたいにみんな言うけどさ。実際には変容していくもんだと思うよ。池谷みたいにここ最近いきなりの話じゃなくてさ。ずっと昔から、変容し続けてきたんだよ」

村田沙耶香「生命式」26頁

 つまり、人肉食に対する忌避感といった「本能」も、環境次第では別に「本能」に置き換わってしまうのである。

 しかし、このような人肉食に対する「本能」「正しさ」の変遷はどのような過程で発生したのだろうか? 単に人口が急激に減少しただけでは、人肉食が定着することはないはずである。人口減少が起こった三十年の間で、人肉食に対するパラダイムシフトが起こる出来事があったのだろうか?

 その点については、おそらくあえて暈されている。食糧危機など、人肉食が必要にせまられる出来事でもあったのだろうかと推測したが、奇妙にも、作中の登場人物は、揃いも揃って人肉食がタブー扱いされていた時代を忘れてしまったような描写がされており、それ以上の深掘りはなされない。

 人肉食をタブー視する我々の世界における「正しさ」は、宗教的要因や、疫病など、様々な観点から説明されている。それらを一つ一つ取っ払って人肉食が成立する過程を描くには短編小説の尺では収まりきらないし、そもそも作者が描きたいことではないのかもしれない。

 あくまで、「『正しさ』とは何か?」「人間の『本能』とは何か?」という問いを読者に投げかけるための手段として、人肉食が一つの「正しさ」として成立している社会を描いたのだと推察する。

生殖の効率化と家族制度の崩壊

 人口が減らないようにするにはどうすれば良いか。人が死ぬたびに新たに子供を産めば良いのである。
 生命式の原初はおそらくこの発想にある。人々は葬儀のたびに集まって、交尾の相手を探し、新たな生命を作ることを第一目的とした「受精」に励む。「受精」した末に、見事子供を産むことが出来たら、従来のように家族の一員として育てるか、「センター」に預けて代わりに子供を育ててもらう。

 受精で妊娠した子供は、もちろん昔ながらの形式で家族として育てる人が多いが、最近では誰の子供かわからないケースも多い。特に生命式が続くと、そういう妊娠が増える。
 産んで増えるということがとても大切なことなので、そういうケースでも子供はとても喜ばれる。
 このセンターは、仕事をしながらでもどんどん産めるように、産んだ子をそのまま預けられる仕組みになっている。センター内の病院で産んでそのままセンターに預け、母親だけ帰ってくる場合もあれば、一旦は子供を持ち帰ってそれから自分でセンターに預けてもいい。家族を作って自分で子供を育てる場合と、産むだけ産んでセンターに届ける場合と、半々程度の割合になりつつあると聞いた。

村田沙耶香「生命式」22頁

 以上の一連の「生殖」プロセスでは、「性愛」を育む工程がスキップされている。さらに、生命式のたびに「受精」する相手を探すというシステムの都合上、不特定多数の人間と性行為をすることが推奨されており、「『生殖』は『性愛』を育んだパートナーと行うべきである」という正しさが排除されている。そしてその正しさを担保していたはずの家族制度も、「センター」によって「子供を産み育てる」機能が奪われ、大きく弱体化している。

 このようにして、人類は「家族」や「性愛」にとらわれずに「受精」を行う「正しさ」を構築し、「生殖」の効率が大幅に向上させた。

 気がかりなのは、今後の家族制度の行末である。このまま「センター」に預けられる子供が大半になり、家族制度は崩壊の一途を辿るのだろうか。家族制度には、子供を産む以外にも、パートナーと共同で生活することで孤独を和らげるなどの機能も存在するはずだが、それらの機能も再解釈され、変容し得るものなのだろうか?

 そもそも「センター」は全ての子どもに十分な教育を提供できるのだろうか? 肝心の「センター」の仕組みがブラックボックスなので、このあたりの考察は困難である。

 ひょっとしたら私たちは危険な方向へ変化しているかもしれない。だがやってみなければどうなるかわからない、というのが私たちが漠然と出した結論のようだ。

村田沙耶香「生命式」23頁

あとがき

 「生命式」は「自明な正しさ」を分解し再構築した世界を描いた作品としては間違いなく傑作だと思う。村田沙耶香先生は、こういった「正しさ」の再構築を得意とする作家なのだろうか。だとしたらかなり嬉しい。何故今まで手を出してこなかったのだろう。

 村田沙耶香先生は、「生命式」を書いた後に「消滅世界」という長編小説も執筆している。こちらも、読んでみたら「生命式」以上の衝撃を受けたので、作者の思考のプロセスを追ったりなどすることで、文章化してまとめていきたい所存である。

 はじめに保険をかけていた通り、何だか一人で壁打ちをしているような文章になってしまったが、ここまで読んでくれた方には感謝しかない。

 久しぶりに面白い小説が読めて良かった。それではさようなら。

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