見出し画像

喜劇の日々を生きること――星野源「喜劇」と日常/野上貴裕


歌詞と音

星野源の歌詞はすごい。筆者は普段、楽曲の歌詞について考えることがほとんどない。音楽は音こそが重要なのであり、歌詞についても大事なのは言葉の響きであってその意味ではないと思い込んでいる。なのでしばしば適当に歌詞を変え、元の歌とは似ても似つかない歌を歌っていることがある。かつてガストン・バシュラールという哲学者がフランス語で「戸棚」を意味する « armoire »という語のもつ響きの優美さについて熱弁をふるっていた[註1]が、その気持ちがよく分かる。 « armoire »が戸棚を意味するということより、口にされたその音が備える音楽性のようなものの方に興味がある、と言えばいいだろうか。だから、意味ではなく音のつながりを重視するダジャレが飛び出す瞬間を今か今かと待っているのだ(もちろんダジャレが成立するためには意味を無視することはできないが)。

そんな筆者であっても、星野の曲を何度も聴き、カラオケで歌うことを試みたりするなかで、彼の歌詞の意味を気にするようになってしまった。彼の歌詞には一読してすぐに理解できないものも多い。もはや音は消してしまってじっくり歌詞に向き合うと、その複雑さに眩暈がするほどである。そしてそこからさまざまなイメージや思考が生まれてくるのだ。この記事では、私の想念が星野の楽曲「喜劇」(2022)からその歌詞の余白へと引き出したいくつかのサブテクストを、断片的ながらも示してみたい。

「喜劇」を聴いたことのない方はぜひ一度聴いてみて下さい。

「日常」というテーマ

星野源は明らかに「日常」をテーマとした歌詞を書き続けている。その日常というモチーフは「日々」や「生活」、「暮らし」、「営み」などいくつかのバリエーションとして現われながら繰り返し歌われる。彼が2009年に初めて出版したエッセイ集のタイトルも『そして生活はつづく』であった。そのまま直球に「日常」(2011)と題された曲も存在する。ドラマ『逃げるは恥だが役に立つ』の主題歌「恋」(2016)に登場する「意味なんか ないさ暮らしがあるだけ」という歌詞に惹きつけられた者も多いだろう。

「喜劇」でも日常は大きなテーマとなっている。この曲が特異なのは、そこで日常の生成が語られているという点だ。星野のこれまでの曲も日常についてさまざまな視点から歌ってきていたが、「喜劇」はそのように多様な相をもつ日常そのものが生まれ出る契機を歌っている。その理由の一つには、この曲がアニメ『SPY×FAMILY』(2022)のEDとして書かれたことが挙げられるかもしれない。『SPY×FAMILY』は見知らぬ三人が互いの身分を偽ったまま「家族」として生活を共にするという筋になっているからだ。とはいえ、作品の出自を言ったところでその作品を語ったことにはならない。私たちはあくまでも「喜劇」という曲それ自体の歌詞がもつ潜勢力を取り出したいのである。

あらかじめ確認しておきたいことは、「喜劇」の歌詞は曲を通して〈私〉のモノローグとして語られているように見えるということだ。本稿ではこの〈私〉の語りとして歌詞を読み解いていくことになる。しかし、ここでの〈私〉は何らかの意味で同定された――「普通のひと」とか「劣った奴」などといった仕方で同定された――私を意味しない。ただ発話の出どころとして仮に置かれている地点としての〈私〉に過ぎない。じっさい歌詞のなかに「私」という言葉が出てくるのは1番のAメロ後半「私の居場所は作るものだった」まで待たなくてはならない。むしろ「あなた」が先に出てくる。「私」以前に「あなた」がいるのだ。


居場所を作ること

争いあって 壊れかかった
このお茶目な星で
生まれ落ちた日から よそ者
涙枯れ果てた
帰りゆく場所は夢の中

星野源「喜劇」(2022)

1番Aメロ前半では私の所在なさ、自らの居場所のなさが歌われる。私は「生まれ落ちた日から よそ者」であると感じ続けてきた。自らが世界にとって他なる者、異邦人、あるいは異物であるという意識。それはこの世界が絶え間なき「争い」によって「壊れかかった」、「お茶目な星」であるからだ。競争に参加する者はしばしば全力を出すことを求められる。己の存在や未来を賭けて、それらを勝ち取るために全力で戦わなくてはならない。そこでは何もしないことは許されない。何もしなければただ負けるだけであり、負ければ落伍者として勝者に道を譲らねばならない。各人にとっての〈私〉はただ勝者か敗者であるに過ぎず、それ以外ではあり得ないのである。何もしないという中途半端は許されないのだ。私はそんなあり方をする世界にどうも馴染めない。

そんな「お茶目な星」に耐えきれない私は、目を閉じて「夢の中」へと帰るしかない。そこは別の世界であるが、私にとっては密かに抱えた安心できる世界でもある。こうした内奥の空間は現実の世界になんの影響も及ぼさないように思える。世界はただ自分にはどうしようもない諸力の相互作用によって動いているようにしか見えず、自分の夢とかあるいは意識などといったものは世界にとって単なる余剰であるにすぎない。

零れ落ちた 先で出会った
ただ秘密を抱え
普通のふりをした あなたと
探し諦めた
私の居場所は作るものだった

星野源「喜劇」(2022)

しかし、世界から弾かれ、「零れ落ち」てしまった先で出会った「あなた」は、私と同じように「秘密を抱え」ていた。あなたは「普通のふり」をしているが、その普通さとは別に、奥行きある内奥の、秘密の空間を抱えている。その出会いは、つねにすでに意味で満たされた息苦しい世界において奇跡のような出来事である。私以外にも世界には陥没があるという奇跡。

私はあなたとともに「居場所」を探す。しかし探しても探しても自らが住まうべき場所は見つからない。そして一度は諦めてしまった。世界中のどこを見て回っても、私のためにあらかじめ設えられたぴったりの場所などない。しかしそこで気づく。居場所とは見つけるものではなく、自らの手で作るものだったのだと。ここでようやく「私」が出てくる。居場所を作るということにおいて「私」というものは生まれてくるのだ。

あの日交わした
血に勝るもの
心たちの契約を

星野源「喜劇」(2022)

ではどのように作るのか。それは「契約」によってである。ふつうに言われる意味での家族は、成員が家族のメンバーであることを「血」によって正当化している。血縁とは家族という居場所を社会的に正当化するための装置である。しかしここで結ばれる私とあなたとの「契約」は「血に勝る」ものである。それは社会的に認められた正統性の秩序には回収されない、一つの跳躍であると言える。誰にどう言われようと、それが正当であるかどうかなどすべて措いておいて、私たちは私たちの手で契約を結ぶのである。それは単なる子供じみた約束事にすぎないかもしれない。しかしそれでも、二人でジャンプすることによって、居場所というものは立ち上がる。


日常と居場所

この居場所があるからこそ日常を送ることができる。居場所とは帰ることのできる場所であり、そのためには居場所というのは同じ場所でなくてはならない。そして同じである場所を作るためには繰り返しが必要になる。繰り返される家事や会話を通じて、同じ場所を同じ場所として作り直し続けなくてはならないのである。そうした営みこそが日常であろう。生活を営むことによって居場所は作られ、その居場所があるからこそ日常は続いていくのだ。

手を繋ぎ帰ろうか
今日は何食べようか
「こんなことがあった」って
君と話したかったんだ

星野源「喜劇」(2022)

「あなた」は「君」となって、私とともに帰る。「きょう何食べよ?」とか「今日こんなことあったんよ」、とか言いながら「居場所」へと帰る。自分について開示したり、これから共に行うものごとについて相談したりするコミュニケーションは、互いが互いに対して間違いなく存在しているという確信を強めるという効果をもっている。こうしたコミュニケーションを繰り返し行うことで、居場所というのは何度も新たに創造され、維持されていく。(ここで「創造」(2021)という曲を思い出してもいいかもしれない。)


私の本質と私の光

サビの後半は一度飛ばして、2番のAメロについて見ておきたい。以下のような節である。

劣ってると 言われ育った
このいかれた星で
普通のふりをして 気づいた
誰が決めつけた
私の光はただ此処にあった

星野源「喜劇」(2022)

私は誰か――親かもしれないし、同級生や教師かもしれない――から「劣ってる」と繰り返し言われながら育ってきた。しかし何とか「普通のふり」を試みることで生きようとした。ここで気づくのである。みんな実は「ふり」をして生きているのではないか、と。多かれ少なかれ他人の発言や、社会の中で気づいたらそこに置かれていた場所のもたらす評価などに順応し、そこに相応しい人間たるよう装って生きているのではないか。その装いは、「~である」というかたちを取った限定として私の本質を規定してくる、そのような型に自らを押し込める営みである。「部長である」、「男である」、「劣等生である」、「天才である」。しかし、そんなものは「誰が決めつけた」のか。もちろん社会のなかで装いをやめることはできないが、それでもどんな装いをするのかぐらいは自ら決めたっていいのだ。そう「気づいた」。

「此処にあった」と言われる「私の光」は、決して「君」ではない。光とはあるものをそれとして見えるようにしてくれるものであるが、光源とか太陽とか神とか起源としての光はその起点との距離によってものごとのあいだに階層を作ってしまう。光に近いものほど光は強くなり、光から遠いものほど弱々しい力しか持つことができない。例え世界一愛している「君」を光にしたところで、それはただ「君」という別の権力が新たに現れるだけで、そこにある救いは偽りの救いである。だからここで歌われているのはむしろ私自身が光であるということだ。私と光を重ねてよいのだ、私こそが光なのだと「気づく」場面なのだ。私は光として、私の光によって、ものごとを照らす。そこに後日改めて他者の視点を導入することは必要かもしれないが、とにもかくにも私は私の視点からものごとや世界を眺めてよいのだと気づくこと。これが「淡い呪い」を解く手立てであった。

ではどうして気づけたのか。それは「喜劇」のお陰である。「君」と「喜劇」としての日々を送ること、そのことによって私はまさに私自身となるのだ。


喜劇と笑いと自由

この曲のタイトルともなっている「喜劇」について、少し補足的に書いておきたい。

一般に、喜劇(comédie)は悲劇(tragédie)と対比されるものである。悲劇は主に英雄の物語を扱う演劇であり、運命や死などのテーマの下、中心人物である英雄の特異的な出来事が物語られる。英雄は一切の妥協を許さず、ひたすらに突き進んでいく。その結果生まれてしまう悲劇的な結末に観客はカタルシスを見るのである。一方で喜劇は英雄というよりは大衆の、特異なというよりは匿名の、一回きりというよりは何度も繰り返される、そうした出来事を扱う。あらゆる出来事は本来一回的なものなのだが、喜劇はしばしば類型化された人びとの行動を舞台上で再現、反復することで笑いを誘う。いわゆる「あるある」を用いて、その滑稽さを笑いに変えるのが喜劇である。喜劇は一回的なものを繰り返されるものにすることを旨とする演劇だ。[註2]

哲学者のアンリ・ベルクソンの言うように、私たちはしばしば「硬直」した者の動きに可笑しみを感じる(もちろんそれが笑いの全てだと言いたいわけではない)。それは、例えば道を大急ぎで歩いていた男が突然すっ転んでしまうような場合である。その男が地面に寝そべろうとする動作の果てに、転んだのと同じ姿勢になったとしても可笑しくはないだろう。しかし、何かの目的に向かって歩いていた男が、自らの意志に関係なく不器用にも転んでしまった様が可笑しいのだ。その男の身体は「歩く」という反復的行為に集中しすぎ、凝り固まってしまったため、路上のちょっとした引っ掛かりに適応できず転んでしまった。こうした硬直は周囲の環境や文脈と齟齬をきたす。そのズレこそが笑いを引き起こすのだとベルクソンは言うのだ。類型、ステレオタイプもまた同様である。私たちは、ステレオタイプに忠実な行動をした結果周囲とズレてしまった者を見て笑うのだ。[註3]

ベルクソンは笑いのもつ、社会からズレた行動をした者をむりやり元の規範へと引き戻すという攻撃的な側面を強調している。つまり、「お前の行動はおかしい」と指摘するという機能だ。それでも、笑いにはやはり解放的な側面がある。笑いは、それがたとえ一瞬だとしても、さまざまな決まり事や義務から私たちを自由にしてくれる。硬直し切った生のあり様を笑うことで、ものごとが生き生きとテンポよく繋がっていく自由な生の可能性が開かれるのだ。とりわけ、自分自身について笑うことには大きな意味がある。つらい過去の記憶や、今日やってしまった目も当てられぬ失敗などを笑うことは、その記憶や過去によってがっちりと固められてしまった今の自分をいくらか解きほぐしてくれるだろう。笑いはひとを自由にしうる。

星野源は、先に挙げたエッセイ集『そして生活はつづく』のなかで、落語家・桂枝雀の以下のような発言を引いている。

なんといいますか、同じようなことを楽しいと思い合うっていうんですかね。
そんな風なことが落語をやっていく上で大事なんではないかと思うんです。
気持ちが「いけいけ」になるんですね。
あなたも私もないようにね。
それが「笑い合う」っていうことなんですかね。

星野源『そして生活はつづく』(2013)文芸春秋、p.130。

星野はこの「あなたも私もないように」という部分を解釈し、「自分がなくなる」状態だとしている。彼自身が挙げる「自分がなくなる」体験は自由そのものの経験である。

身を守るための不安や欲がなくなり、「次のコードは何だっけ」と考えなくても、スラスラと自然に出てくる。思い付きで演奏を変更しても、なぜかそれがバッチリはまってしまう。普段自分を思う気持ちでがんじがらめになっているものから解放されて、楽しくて仕方がない。

[註4]同上、p.129。

こうした自由の経験が星野の書く「笑う」という歌詞にも込められているのではないか。1番サビの後半部の歌詞はこうなっている。

いつの日も 君となら喜劇よ
踊る軋むベッドで
笑い転げたままで
ふざけた生活はつづくさ

星野源「喜劇」(2022)

私は「君」と喜劇としての日々を送る。それはつまり、社会のなかで「普通のふり」をして生きていかざるをえない私や「君」のあり方を笑いに変えるということである。私と「君」は、他人を笑うというよりは自分たち自身のことについて笑い合っているように見える。そしてこの「笑い」は、「あなたも私もない」ような状態に私を置き入れる、つまり私をある本質をもつ「私」として規定する視線から私を自由にする。ここで注意すべきは、「あなたも私もない」は、私と「君」とが合一したり融合してしまう経験ではないということだ。むしろ私と「君」とのそれぞれがそれぞれ自身として自由になれるという経験こそが「自分をなくす」ことである。日々を喜劇として送り、笑い転げる生活は、自由で軽やかで解放的な日常のあり様なのである。そしてなにより「君」とであればそのような生活を送ることができるのだ。それはとても幸せなことのように思える。


永遠を探すこと

とはいえ、このような日常を簡単に手に入れることはできない。ラストのサビには驚くべき歌詞が記されている。

永遠を探そうか
できるだけ暮らそうか

星野源「喜劇」(2022)

「探し諦めた」あとに「居場所は作るものだった」と気づいた、にもかかわらず最後に「永遠を探す」のである。もちろんこれは、どこかにある永遠の時間を探すということでは当然ない。この永遠とはむしろ意志のことである。つまり、しっちゃかめっちゃかでどうしようもない「いかれた星」で、それでも今この時を日常として、つまり反復として繰り返すのだという強い意志のことである。日常はあらかじめ反復として出来上がっているのではない。与えられた日常など、そんないつ壊れるか分かったものではないもの、到底安心して生きられるものではない。私とそして「君」とが、意志をもって、一回きりの出来事を繰り返される日々として生き続けること。これこそが「永遠」であり、「探そうか」という呼びかけはこの「永遠」を共にやり抜こうという熱い呼びかけなのである。

いつまでも
君となら喜劇よ
分かち合えた日々に
笑い転げた先に
ふざけた生活はつづくさ

星野源「喜劇」(2022)

この意志においてこそ私と「君」は日々を「分かち合」うことができる。その先にのみ、「ふざけた生活はつづく」のだ。「喜劇」とはこのような歌である。


ポピュラー音楽と日常

最後に少しだけ視点を移して考えてみたいことがある。それは「喜劇」を含めた星野源の最近の楽曲がポピュラー音楽足り得ているという点である。これは筆者も含めた、能動的であるにせよ受動的であるにせよ、ポップスを聴いている私たち自身の日常を思考するうえでとても重要なことであると思う。

当たり前のことだが、ポピュラー音楽とはポピュラーな音楽のことである。言い換えれば、ポピュラー音楽がポピュラー音楽たるために必要なのは楽曲それ自体に備わる性質などではなく、当の楽曲をポピュラーなものとしようと動くさまざまな意志や、そうした方向へと向かう力学といった外在的な力である。もちろん世に出るのに最低限度の音楽的クオリティは必要であるにせよ、ある年に流行った曲それ自体が必ずしも音楽的(音楽史的?)に優れているというわけではないのだろう。私にそれを判断する力はないが、音楽について専門的な知識をもっている人々がさまざまな場所で侃侃諤諤の議論を繰り広げている通りである。

音楽についてはずぶの素人である筆者のような人間にとって、この「何度も耳に入る」ということ、そしてそれによって何となく歌詞を憶えてしまうということは極めて重要な意味をもつ。最初に歌詞を目にしたときには「この歌詞はどういう意味なんだろう」などと考えることがあったとしても、聴き慣れたり歌い慣れたりしてくると、意味などどこかへいってしまってただ音の響きだけが記憶されているという状態になる。ふとしたときに自然と口ずさんでしまう曲はそういう状態にまでなった曲である。どんなに突飛なメロディーラインの含まれた曲でも、何度も聴いているうちに馴染んでしまうものだ。

しかしそれで歌詞の「意味する力」は失われてしまうわけではない。記憶され、ほとんど身体化してしまった歌詞は、生活のある場面に突然合致する。たとえば、毎日しなくてはならない洗濯や皿洗い、繰り返しを要求してくる研究活動、などなどにうんざりして「こんなことに何の意味があるんだ!」と叫びたくなるとき、あの箇所が流れ出すのだ。「意味なんか ないさ暮らしがあるだけ~」(「恋」)。ポピュラー音楽の潜勢力がほんとうに発揮されるのはまさにこうした場面なのではないか。

この記事をどう書こうか悩み続けていたあいだに、「喜劇」は筆者の身体へと浸透していった。繰り返し聴いて、繰り返しつぶやく。その中でも続いていく生活のなかで、とつぜん歌詞の言っている「意味」が閃く。その閃き、あるいは煌めきには、あらかじめだいじな意味を担っていますよという顔をしてやってくる、難しい音楽にはない軽やかさがある(もちろんここで「難しい音楽」を否定するつもりは毛頭ない)。「ポピュラー音楽」に含まれるポップという言葉のもつ軽さ――多かれ少なかれポップコーンのイメージがそこには入り込んでいる——もともなって、突如として弾けるのである。何かにつけて非難される繰り返しであるが、ステレオタイプも悪いものではない。それは突然弾ける潜勢力を備えつつ、日常の中に安心を創り出す。たまにそれを笑って、完全に固まってしまうのを防いでいれさえいればよい。

ここまで読んで下さった方々、たいへんありがとうございます。「喜劇」から湧出したあなたの感想もぜひ聞かせて下さい。そして(いい意味で)笑い合えたらなと思います。



[註1]「戸棚armoireという単語に共鳴をおぼえぬことばの夢想家がいるだろうか。armoire、これはフランス語のもっとも偉大な単語の一つであり、荘厳でもあり、また美しくもある。なんと美しく大きな気息! 一番目の綴りのaで気息がながれはじめるさま、そして終わりの綴りではなんと優しくゆったりと気息をとじることか。ひとがことばに詩的存在をあたえるときには、けっしていそがない。そしてarmoireのeは無声であり、どんな詩人もこれを響かせようとはしない。」(ガストン・バシュラール『空間の詩学』(2002)岩村行雄訳、筑摩書房、pp.154-155。)

[註2」哲学者のブリュス・ベグも『日常的なものの発見』(2005)のなかで日常を悲劇ではなく喜劇の方に関連づけている。「したがって、慣れ親しんだものとそうでないものとの出会いは決して悲劇的なものではない。その出会いは、結局のところ和解へと落ち着く。当人にとっては深刻な問題かもしれないが、だからといってそれが劇的であるとはいえない。それは、断念か死かでしか終われないような、張り詰め昂った場面をなすことはない。悲劇は日常的な世界に似つかわしくない。日常世界は和やかさや穏やかさに重きをおいていて、それは悲劇的ではないのだ。喜劇には争いを収めるという機能があり、悲劇よりも親しみがもてる。確かに喜劇においても対立や危機、悲嘆などはあるが、最後はきまって気のめいる日常世界に戻ってくる。日常は滑稽であることを恐れない。そして、たえずその滑稽さを用いて危機や疑念を武装解除するのだ。」(Bruce Bégout, La découverte du quotidien, Allia, 2005, p.54.)

[註3]詳しくは以下の書籍を参照。アンリ・ベルクソン『笑い』(2016)合田正人/平賀裕貴訳、筑摩書房。ここでベルクソンは目の前でこうした場面に遭遇するのと、演劇においてこれを見るのとをあまり区別していないように思える。しかし、目の前で突然転ぶひとを笑うというのは決して万人に共通した反応とは言えないだろう。心配したり、びっくりしつつもそのまま過ぎ去ったりしてしまうかもしれない。演劇という枠の存在はこうした笑いに何かを付け足しているだろう。


※トップの画像について少しだけ補足を。星野源は生活や日常を「湯気の中にあるもの」としてイメージしているように思える。たとえば「湯気」(2011)は「湯気の中は 日々の中」と歌い始めているし、「アイデア」(2018)でも「湯気には生活のメロディ」と言っている。「喜劇」に出てくる「命繋ぐキッチンで」というフレーズも、煮立ったスープや音を立てて沸くやかんなどのイメージと繋がっているかもしれない。「未来」(2011)をはじめとしたいくつかの楽曲に「風呂」のイメージも出てくる。湯気はものごとの輪郭をあいまいにし、その中にいる者を包み込む、一種の環境あるいは雰囲気(ambiance)のようなものである。そういう湯気のようなあいまいさのなかにこそ生活はあるのだ、という星野の直観に私は共感する。

野上貴裕(哲学・思想史)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?