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「意識高い系を気取るのは脳みそが退屈してるだけ」意識高い系の心理を解説。

昨日は、ムスメズが幼稚園をサボり、私はたんまりお昼寝。

新月だもんね〜。

家で1日中寝てる私は、「意識高い系」で賑わうTwitterの人々から見たら「意識低い人」です。

夜は、箕輪編集室 キャリアデザインチームのミーティング。

始まりの新月に相応しい内容でしたよん!

私が投げたイベントネタに乗っかってくれたみんなで。

そうそう、私はいつも、アイデアを出して、

イメージを伝えるだけの人。笑

「アイデアを出したら、完了まで自分でやる」という常識的な在り方は私はできないのでしないです。

できないくせに、やるのは無責任だし、

そもそも、できない人間が努力してる間に熱量が冷めて企画そのものがバラシになるので、できる人にお願いするのが一番。

人はみんな生まれ持った素質があるからね。

それ以外のことをやろうとするから、

「好きなこと探し」や「好きを仕事に」っていう言葉だけが流れていって、本質をつかめない人間が、同調圧力に負けて流されて、迷走するだけ。

私は、同調圧力すら感じない人なので、これも私の資質であり、かつ、私はそれを全責任を持って言えるので、私は自分の素質を最大限に活かして生きていきたい。

大風呂敷広げて、たたむまでが役割ではないから、私。

得意な人がたたみにかかってる間に次々に、提案する人。

これを世間では無責任というならば、どうぞ。

私に言わせたらできないことまで、やって、ちんたら時間かけてクオリティの低いことをする方が無責任だし、提案した人間が全てやらないとダメなら誰も提案なんてしたくないよ。

自分の素質がMAX活かせるセクションにコミットしたらいいだけです。

ならば、「好きなこと探し」などしない。

この件は、来週 キャリアデザインチームでイベントしまーす!

今日はね、私的に、ちょー面白いと思う企画のミーティングだったんだけど、

「テーマ」について語ってたんだけど、基本、私は喋るし脱線するからまとめてくれる人が必ずいるんだけど、そう、これも私が「脱線する」自覚があるから、軌道修正をしてくれる人が必ずいるんだよね。

で、コミュニティの話から、特にTwitterでの意識高い系ツイートの話になって、

倫久(りんく)がツイートしてくれてます。

倫久は関西チームで日本酒の探求をしてるから興味がある人はアクセスしてね!

リツイが続いてるから、読んでね。

意識高い系を目指したり、気取ってるのは、バレてるよ。

わかるんだよ、わかる人には。

なんなら、わからない人は意識高い系気取ってる人たちだけ。


「自分の肚からの言葉」じゃないもん。


誰かの素晴らしいツイートに感化されて、本質を理解しないまま便乗してるのって、わかるんだよ。

このミーティングには、私がキャリデザチームに入ってすぐから仲良くしてる、やっさんこと安井さんも参加してくれてたんだけど、お互い本当に通じ合ったよ、マジで。

お互い経営をしているんだけど、ハッキリ言って、

意識高い系気取ってる暇がないし、脳にそんな余裕がないのよ。

他に考えることがあるから、意識高い系のツイートを考える「脳の容量」もないの。

「脳の容量」をそこに使いたくない。


脳の容量には限界があるとわかってると、何に思考を使いたいか考えるのよ。

意識高い系のツイートや、意識高い系の言動を考える暇がない。

つまり、

意識高い系気取ってる人は、脳みそが退屈してるだけ。

もっというと、

自分を見ていないから、退屈する。

人って、退屈を本能が拒むから、無意識に、

体にも頭にも刺激を求める。

結果、何が起きるかというと、

「意識高い系のツイートした私、俺」に泥酔して、悦に入って気持ちよくなる。

気持ち良さという刺激に走る。


本人は、そりゃあさぞかし気持ちいいから、

全く何も見てないのよ。

空気を感じる。ということも出来ないほどに、気持ち良くなっちゃってるから。

人を相手に気持ち良くなるという、コミュニケーションを取る人、多過ぎ!!

人に何かを与える人と、ひたすらに自分が気持ちよくなる人の違いって、

「自分自身への評価を求めているかどうか」

「他者に自己肯定をしてもらおうとしているのか、自己肯定感がそもそも高いのか」

「集団への依存の有無」

「プライドの有無、自信の有無」


自分に自信がない人が、プライドエベレストかますからね。

世界の中心が自分かのような錯覚をするからね。

いや、もちろん中心は自分なのよ。

ただ、中心に自分がいない状態で、仮想世界の中心で何かを叫んだとしても、それはただの自慰行為。

いや、本当はもっと違う言い方をしたいけど、

公共の場では自粛します。笑

しかし、自粛してる言葉が、多くの人にダイレクトに伝わる言葉だという私の葛藤。

去年から、私は悦に入るコミュニケーションを取る人に、本気で嫌気がさして、研究したんだけど、

もはや、そういうコミュニケーションが当たり前になってる人たちの多いこと。

大変薄っぺらい人間関係ですね。

大変薄っぺらい人間関係が、大嫌いだからこそ、大変薄っぺらい人たちが、どれだけ偽っても、わかるんですよ。

大変薄っぺらいことが。


大嫌いの力って素晴らしいし、必要。

「嫌いなものはない、嫌いなものも受け入れることが、コミュニケーション」などという意識高い系気取ってる発言を聞くと、わたしは、

「この人、好きなものがないんだなー。

人に嫌われることに怯えて生きてるんだな〜。

このツイートの本音は、「私を好きになってほしい」だろうが??」

「本音を拗らせて、大変そう」と思う。


やっさんと私の重なった意見として、

「結果疲れるんだから、最初から自分そのものでいたらいいんだよ」

なんだけど、そうなんだよ。

大きく見せても、謙遜しても、ずっとしんどいし長くは続かないからね、これ。


虚しさに襲われるだけよ。

意識高い系を気取るのは、相応にして、

自己肯定感が低いし、「誰かに認められたら価値が上がる」と思ってるけど、上がらないから。

いくら周りに称賛されたとこで、自分自身が自分自身を深く理解してあげてないと、そんな価値めいたもの、誰かの一言で飛ぶからね。


承認欲求だって、向け方なんだよ。

承認欲求が悪いとは私は思わないようになったんだけど、1年前までは全否定してたけど、考えが変わったので。

「人を喜ばせたい!というのが源にある承認欲求は、双方が幸せになる」と知ったから。


わかりやすい例えを出すと、長女が担任の先生に卒園前にクラスみんなでプレゼントするメッセージ集の、メッセージカードを書いていたんだけど、

自分が書きたいことを書いて、いっぱい装飾してる時に、

「◯◯先生は、この色好きかな〜」

「このシール好きかな〜」って、喜んで欲しくて沢山考えてて、仕上がった後に

「嬉しかったか聞いてみよー!」って言ったんだけど、この承認欲求はどちらも幸せだよね。

先生が自分のメッセージカードを喜んでくれた。という承認を得たいから喜んでくれるように、フルスロットルで先生のことを想像して喜ばせようとする。

この形の承認欲求を知ってから、私は、

承認欲求を向けるなら、「認めてよ!」の一方通行じゃなく、まずは先に相手のことを想像してからにして!

と、思うし、この承認欲求は「相手も自分も喜ぶ」という幸せの循環だと思うわけ。

ところが!!

意識高い系は、人の喜びに目を向ける余裕がないんだよ。

意識高い系に脳みそ使ってるから。

そこで、脳のキャパオーバー。

かつ、自分が気持ちよくなって、ベロンベロンに自分に泥酔しちゃってるから、

本質など、全くみてないし、

ズレにも気づかないし、ハイライトするポイントをミステイクするし、だから、リテイクもしない。

「考える前に行動を!」を文字だけ読んで、スケジュールびっしり埋めてみたり、ただ、移動することを行動だと捉えて、全くもって無意味な移動をする。

「考える前に行動を!」と言ってる人の背景や、この言葉の本質を見ない。

だから、何万キロ動いても学びはない。

考えてるからこそ、起こす行動もあるし、

何かをやりたくても、「失敗したら」だの「完了させるには」だのと、ウジウジとやらない理由を考える暇があるなら行動してみた方がいいよってだけで、

無目的に、ただ行動して彷徨うことを指してはいない。

長女が1歳の頃、アンパンマンのスティックパン(6本入りぐらいのやつ)を一口食べては、2本目、一口食べては3本目にいくという謎の行動をしていたんだけど、私の価値観では1本食べきって次にいくからわからなかったわけ。

考えてもわからないし、私は乳幼児心理学を読む趣味はないので、とりあえずやってみた。

一口食べて、次、一口食べて次と。

「考えてもわからないことは、やってみる」の本質ってここだよ。

バカ親は「ダメよ、1本食べきってから」と躾るけど、お前マジでバカだなと思う。

自分の価値観と我が子の価値観の相違に興味ないのかよ!と思う。

やってみた結果、わかったのは、

まず、目の前に沢山あると、もしかして違う味かも?と興味を抱くこと、一口目にしかないあの端っこの食感が好きなのかも?ってこと、だからこの子は柔らかい食べ物が苦手なんだ!ってこと、一口食べて次にいってもトータルしたら1本以上食べてるから、何の問題もなく、私がヤキモキする必要はなかったことが確認できたから、結果として、以後、どうぞ好きに食べてーー!

と、ムスメズの食を尊重できるようになった。

今はそんな食べ方はしないけど、残そうと私は一切口を出さない。

からの、子どもは自分の必要な栄養素を本能でわかってるから、私が考えるより確実ってことも確信したし、そもそも幼稚園で素晴らしい給食を食べて、実家でも素晴らしいご飯を食べてるから、

私も、自分の食欲には繊細に丁寧に向き合っていくきっかけになった。

という、山ほどの気づきがあるから、

考える前に行動する意味があるのであって、

スケジュールびっしり埋めて動き回ることが、非常にダサいということもわかる。


恋は盲目だけど、

意識高い系気取りも、盲目です。

恋は盲目は幸せ溢れるけど、

意識高い系気取りの盲目は、疲労困憊が溢れるし、ダサさも溢れる。

脳疲労に、心身疲労。


根底には、「なにもない私を受け容れてほしい」があるだけなんだけどね。

そして、まずは、それを自分に願ってるんだけどね。

ここに向き合ってないから、

脳が退屈するんだよ!!!

モチベーション探しも同じ。

後付けのモチベーションがないとやれないことなら、やるなよ。と思う。

探さなくても、モチベーションが上がることは、すでにやってるし、そのきっかけになることを人生で経験してるからね。

私が「命の尊重」にこだわるのも、

意味不明に意識高い系気取りが、不潔な「命への冒涜」に感じるのも、悦に入るコミュニケーションに吐き気がするねも、生死を彷徨った経験からくるもの。

あの経験があったから、「命」の美しさを私は誰より知ってると思っている。

けれど、あの経験をしてなかったらどうか?なんてことは、私は経験してないからわからない。

死にかけた経験のない人生を歩んでないからわからない。

だから、経験してきたことを発信している。

もちろん、綺麗に話そうだの、綺麗事でまとめようだの、「SAORIは素敵」風にまとめるつもりもない。

私が自分で私を素敵だと思っているから、人に「素敵」と言われることを求める必要がない。


意識低くていいし、なんなら、意識高い系気取りよりは、確実に「生きることへの意識」も人生に対する「美意識」も高いから。

前々から言ってるけど、美意識低い人が、高尚なことを言っても説得力はないです。

心の美意識が低い人の自論は、まさに意識高い系気取りなだけ。

自分の体型も管理できないデブな女の自論はことごとく、自分に真摯に向き合ってないことがピーアールされているだけ。


つまり、自分の本音にいかに忠実に正直にいられるかだけ。

いちいち、自分の感想や想いに理由付けして、

意味不明なことを言い出して、それに気づかないのも意識高い系気取りの特徴。

意識高い系は、総じて意識が低いです。

自分に対する意識が、非常に低い。

知能低い系です、ハッキリ言いますけど。

知識低い系でもある。


意識高い系と、意識高い人の区別がわからない時点で、知能低い系だし、

そもそも、本来、意識を高く持っていれば、

「意識高い系気取り」はしないし、する必要がないし、ダサいとわかりますからね。

自分を苦しめるだけだとわかりますからね。

zoomではここまで話さないから、私の意識高い系に関する観察結果をまとめました。

研究はまだまだ続く。

あ、何のミーティングだったかは、またお知らせしまーす❣️

全て繋がってるこの宇宙。

私は、拡大していくのが好きだと、昨日のミーティングで改めて思った。

対極にあるものも、全て繋がっている。





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