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音楽の前で裸になれる力〜Meeting The Beatles in India〜

これまでカナダの作品を見た経験はサウスパークとモンゴメリ系のドラマシリーズくらいだったと思う。案の定、あまり予算が張られてなかった映画のようで、ビートルズの楽曲もビートルズの映像すらほぼなく、あってもニュース映像や写真、肝心なところは英会話テキストのイラストのようなアニメーションで語られる。

上映館もシネコンではない。限定上映だったとはいえ、大手ディズニーから配信されたゲットバックとは大違いだ。

こういうマイナー系の映画を見ると、ビートルズが生きている欧米の白人の世界も国や人種でヒエラルキーのグラデーションがあるのだな、と凹凸が立体的に浮かび上がってくる。

ジョンはこの映画の主人公の出身地がカナダと知り、植民地だねと笑う。現代のSNSでの発言なら炎上案件だ。アンの息子たちも第一次世界大戦で英国の志願兵としてカナダから出征していた。

映画の中ではディズニーの人々の仕事をする時の横柄な態度に辟易しているさまがチラリと吐露されていた。

アジアに住む私たちは、欧米を先進的で自由な憧れの場所とふんわりイメージしているけれど、あちらにももちろん国や人種で性で差別は根強くもあるし、セクハラや家庭内暴力だって横行している。主人公のサルツマンも、高圧的な父に苦しみ、自分の中にどうしょうもない抑圧と喪失を抱え込む。

そして、キャリアや名声を取っ払ってただ一人の苦しむ青年として、動き出す。

本当の物語が始まる。ボーイ・ミーツ・ワールド。

児童文学、ヤングアダルトのジャンルではビートルズもの、と呼んで良いような、ビートルズをきっかけに人生が開ける物語が量産されているけれど、これは実話で、現実にビートルズに会い、彼らの素顔をカメラに収め、長らくベールに隠されていた姿を残したのだから本当にスゴい。

この映画に出てくる登場人物もただのビートルズを愛する一人の人間として登場していて見てて楽しい。マーク・ルイソンさんも登場するけれど、リシケシュで作曲された曲数について映画の中でザルツマンとケンケンガクガクと自説を主張し合う。本人たちは大真面目のガチ勝負なのだけれど、見ている私はそれを微笑ましく眺めてしまう。だってそれは私たちビートルズファンが例えばSNSのグループなどで繰り広げていることと同じだから。

またビートルズのファンとして子どものように瞳をキラキラと輝かせて語るローゼンタールというお爺さんが登場する。作曲家であり指揮者で、その上品さと語る知識からかなり人生において成功し、恵まれた人だとわかるけれど、驚いたことに彼はビートルズよりもふた回りほど上の世代。リアルタイムどころかその時代には、おそらく彼の同世代は既に中年でビートルズをバッシングする側に回っていたはずなのだ。

彼は軽やかに自宅のピアノでショパンを弾いてみせていたけれど、クラシックにも通じていて、同時に当時の若者達の音楽にも心を踊らせていたのだ。

イエスタディも名曲だけれど、エリナー・リグビーは素晴らしい!と心から叫ぶ彼に、私は大きくうなずいてしまった。

そういえばバーンスタインやカラヤンなどクラシックの大御所たちもビートルズナンバーを絶賛し、時には子どもたちとプライベートで演奏もしていたようだ。

日本でもビートルズの来日に反対運動が巻き起こるなか、某有名政治家は息子にビートルズを聞かせてもらい、年寄たちが言うような不良の音楽ではないではないか、と来日に前向きな態度を示しだす。

本当に素晴らしいひとは、先入観に囚われない。感性が若く、柔軟なのだ。

そういうひとは、年齢や肩書や立場や権威を取っ払って、ひとりの人間として音楽に、愛するひとに向き合うことができるのだろう。

音楽や愛の前で裸になれるのだ。

ビートルズを愛するということはそういうこと。ただの一人の人間として素っ裸になること。そして、愛する人を大切に愛するということ。

ポールがリシケシュでジョンたちに受け入れられたのも、彼が何者でもない、ただひとりの悩める青年としてそこに立っていたからだろう。彼はカナダの中でいくつかの番組を持ち、名を成していた。それを少なくとも映画の中ではビートルズのメンバーには伝えていない。同時期に、ビートルズはラファムという雑誌社の人間も面会していたようだけれど、彼は記者として会っていた。彼にはサルツマンのようなビートルズメンバーたちの素顔をさらけだしたような写真は撮れなかった。

ビートルズの来日武道館公演を可能にしたのは結局は英国勲章だったらしい。権威におもねる輩はわかりやすい権威にたやすく屈する。サルツマンの父親も、ビートルズをバッシングした大人たちも、そういう種類の人たちだったのだろう。

ジョンが心から嫌悪し、のちにヨーコさんと共に戦った相手も。

新しい文化や異文化を知ろうともせず、権威や肩書や年齢だけで必死に上に立とうとし、目に見えない素晴らしいものを暴力によって必死で潰そうとするひとたち。

そんなひとたちに出会ってしまったとき、そいつらと戦う、もしくは一旦引いて力を蓄える力をビートルズはくれる。

ビートルズもそんな輩たちから逃げたかったのだろう。そして自分に向き合い、自分たちの中かから音樂を紡ぎあげていった。

それは若者たちの再生の群像劇。

サルツマンはその後、インドの聡明な女性と出会い、その女性と間の娘さんであるデヴィアニと仲良く語り合っていた。デヴィは父に臆すること無く、友達のように言いたいことをいい、笑いあっていた。彼は支配的な父の呪縛から逃れ、幸せな親子か関係を構築することができたのと一目瞭然だ。

私たちは愛に満ちた素晴らしい人生を享受することができる。妨害してくる醜い輩たちに負けない力がある。ビートルズがそうだったように。ビートルズを愛するサルツマンや他のビートルズファンたちがそうだったように。

地味でささやかな作品ながら、確かな自信と幸せを私にくれた映画だった。



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