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赦されて生きる

いつも読んでいただき
ありがとうございます。
管理人のさおりんです。


今回は赦されて生きるをテーマで
遥か古代のストーリーを
ご紹介していきます。


重荷を負うものは、
だれでもわたしのもとに来なさい。
休ませてあげよう。
マタイによる福音書11章28節


イエス・キリストがお生まれになった時
ユダヤのイスラエルの民は、
ローマ帝国の圧政の下で厳しい生活を
強いられていました。


とくにイエスが青年期までを
過ごされたユダの町(ベツレヘム)は
いまでも、樹林の生えない石だらけの
荒涼たる土地です。


そこで過酷な労働に励み、
命がけで生きていくのだから、
その苦しみははかりしれないです。


人々は貧困、病気にあえぎながら、
やがて政治的権力者が現れ、自分たち
を解放してくれると信じていました。


これがイスラエルの民が求め続けた
救い主の姿でした。


イエスはユダの町で石工の子として
生まれ、石工として働いた後、30歳から
イスラエル北部のガリラヤ湖畔の町々を
中心として人々に福音を述べ
伝えていきました。


しかしそれは人々が期待したような生活
がラクになるとか環境が豊かになると
いったことではなかったのです。


福音とは喜びの訪れです。


自分を取り巻く環境が
どれだけ厳しいものであっても、
苦しみを共に担ってくださる神が
常に一緒にいてくださることを感じ、
心の中が豊かで喜びに溢れていれば
苦しみを乗り越えるチカラ、
幸せをつかみ取るチカラが生まれます。


そのチカラで心の中に豊かさを育て
他の人と手を携えながら
幸せに生きていくことができます。


イエスはそれを愛ということばで
表現されました。
福音とは、言い換えると愛の知らせです。


人間は生きている限り、苦しいこと、
辛いことが絶え間なく襲ってきます。


たとえ1つの苦しみがなくなったと
喜んでも、すぐに次の苦しみが現れます。
慾望がエスカレートすればするほど
現実とのギャップが大きくなり、
やがてそれが苦しみに変わっていきます。


生活がラクになることも病気が治ること
も確かに大切だけれども、それ以上に
大切なことがあることをイエスは福音を
通して告げ知らせ、身を以てそのことを
示していかれます。


冒頭の聖句、マタイによる福音書の言葉
は伝道をスタートしたガリラヤの湖畔で
説かれたものです。


そこは不毛の荒野であるユダと違って
大変豊かな土地でした。
羊の群れが草を食む丘があり、湖のすぐ
そばのユーカリの木々を爽やかな風が
吹き抜けます。


湖の向こうには漁師の舟が
浮かんでいます。
イエスはこの美しい土地を
とても愛されていました。


しかし、そこに住む人々の生活は
あまりにも悲惨でした。
湖畔には、ひしめき合うように
バラックの家が立ち並び、
老人や手足の不自由な人たち、
ハンセン病の患者の苦しいうめき声が
美しい風景を切ってあふれ出てくる
場所でした。


するとどこからか多くの人々が現れて、
イエスに少しでも近づこうと
集まってきました。


しかしそれは福音を聞きたいわけでは
なく、イエスが病人に手を触れて癒す
など奇跡を起こすことを知って、
少しでもラクになりたいという一心で
イエスに近づきました。


当時、ユダヤの国を仕切っていたのは
政治家やユダヤ教の戒律を説く律法学者
と呼ばれている人たちでした。


彼らは律法によって人々を縛り付け
自分たちの権威を保とうとしていました。


律法とは本来、人を助け、生かすために
あるはずのものです。


それゆえ、イエスが説く愛の福音は
彼らにとっては異端であり、
イエスは最後に十字架の死を遂げること
になります。


いずれにせよ、
イエスのもとに集まってきたのは、
社会的権力を持つ政治家や律法学者の
ような知的階級、慾望を欲しいままに
ラクな生活をしている人では
なかったのです。


集まっていた人の多くは、
権力者たちから虫けらのように
思われていた名もない漁夫、農民、
羊飼い、社会的に蔑まれた娼婦や取税人
でした。


苦しさのあまり現世的利益を求めて
近寄ってくる人たちをイエスは決して
咎めることもなく、皆に優しい眼差し
を向けられました。


30歳になるまで貧しい石工として
働いていたイエスは、
虐げられた人々の苦しみを痛いほど
熟知していたのでしょう。


ある時、2人の盲目の青年が
イエスに近づきました。
何をしてほしいのか
マタイによる福音書20章32節
というイエスの質問に、2人は
主よ、目を開けていただきたいのです
マタイによる福音書20章33節
と頼みます。


イエスは手を触れて2人の目を開かせて
あげます。するとこの瞬間、
この青年たちは単に肉体の目が開かれた
だけではなく、心の目が開かれたことを
感じます。


この心の目とは、
イエスが伝えようとしている良い知らせ
は愛の知らせとして受け入れることを
見通す目であることを知ることなのです。


多くの人はイエスが見せる奇跡と、
自分たちが癒されることばかりに気持ち
を奪われ、青年たちのように
心の目を開くまでに至らなかったのです。


それでもイエスはそういう人たちの心に
通じる話をして、心の目を開かせて
幸せに導こうとされます。


イエスは行く先で娼婦や病人など
虐げられた人々に目を留められました。
村人が触れると自分も汚れてしまうと
毛嫌いし決して近づこうとはしなかった
人たちです。


しかしイエスは道端に横たわる人々を
支えて立ち上がらせ、
盲目の人が躓きそうになれば
手を差し伸べられました。


イエスの注がれた愛は人々の心に
大きな火を灯しました。
虫けらのように扱われていた人にとって
生きていく苦しみを心から理解し見つめ、
受け入れてくれるただ1人の人、
それがイエスでした。


たとえ自分には奇跡が起きなくても
イエスの傍にいると、
かつて味わったことのない心の平安が
得られ苦しみを忘れることができます。


イエスが立ち止まって話されると、
人々はその周囲に座り込んで
耳を傾けます。


船を漕いだり畑を耕したり羊を追ったり
していた人たちが、
イエスがお見えになったと聞いて、
その手を休めて駆け寄り、
ひと時の心の安らぎを得ました。


聖書にはそういうイエスの憐みや慈しみ
の心が、奇跡のストーリー以上のもの
として貫かれています。


イエスは多くの奇跡や癒しで
虐げられた人々の苦しみを
取り除かれて行かれました。


それ以上に伝えようとされたのは
心の目を開いて
①人間にとって最も大切なことは何かを
はっきり知ること
②人間がお互いに愛し合うと同時に
自分自身もまた大切にすること
③人間はだれ一人として決して
見捨てられることなく、命の与え主である
神から慈しまれている
ということです。


例えば、
村の有力者がイエスを自宅に呼んで
食事会を開いた時のできごとです。
イエスがその屋敷に向かって歩いている
様子をみていた1人の娼婦がいました。


その娼婦は貧しいがために男たちの相手
をして、周囲から白眼視されて
惨めな生活を送っていました。


自分の辛さをただ1人理解してくれる
イエスのもとにどうしても近づきたい
という思いで人目を盗み食事の場に
そっと入り込みました。


その後、彼女がとった行動は
香油の入った石膏の壺を持ってきて、
後ろからイエスの足元に近寄り、
泣きながらその足を涙で濡らし始め
ルカによる福音書7章37~38節
と書かれています。


その地方では
最も貴に人に香油を塗ることが
最高の尊敬の証とされ、
彼女は食卓についたイエスに近寄り、
そっと頭に香油をかけました。


足元にひれ伏してさめざめと
涙を流したのです。


不浄な人間として毛嫌いされた娼婦が、
金持ちの自分たちの家に入り込んだこと
を知って呆然としたでしょう。


しかし彼女は周囲の冷たい視線を
ものともせず、イエスの傍に寄り、
イエスだけを見つめてひれ伏して
涙するのです。


彼女が流す涙を見て長い間の苦悩を
察知したイエスは、その想いを受け止め
あなたの苦しみを私は知っていると
語りかけました。


惨めさと多くの男たちを相手にして
しまった罪の念に苛まれていたであろう
彼女は自分の全存在が赦されていること
を感じるのです。
イエスは次のことばを添えられます。


この人が多くの罪を赦されたことは、
わたしに示した愛の大きさで分かります。
ルカによる福音書7章48節



悲しみの心に光と温かさをもたらした
イエスの眼差しに触れて甦った1人の女性
のストーリーです。


絶望の中で自分は生きていくだけの価値
がある。赦されて生きているのだ。
という人間としての存在を認められた
喜びが強く伝わってきますね。


ここまで読んでいただき
ありがとうございました。
管理人のさおりんでした。


今回ご紹介したのは、
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