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人をジャッジすること

またまた、私の自戒シリーズである。

一般常識だと思い込んでいる「良いこと」「悪いこと」は、実は「好き嫌い」で決めているということ、皆さんはないだろうか。

私は恥ずかしながら、めちゃくちゃある。

たとえば、「人からの連絡はすぐ返す」「休みの日は予定が詰まっているほうがいい」「言われたことはその日のうちに」「家族よりもまずはお客さま」

これらは、私の中の「善」だ。

私の中で、スピードこそ人に対する誠意であり、正義だから。

こういうことは、わざわざ人に話さないし、確認もしない。

「ねえねえ、私にとって既読スルーは私のこと軽んじてるってのと同意なんだけど、あなたはどう?」

なんて確認も、家族でもなきゃしない。ただ静かに、「この人そういう人なんだな」というジャッジを頭の中でするだけだった。

これはただの一例で、子供のころから人に対して「合う」「合わない」「いい人」「そうでもない人」「関わりたくない人」のジャッジを繰り返してコミュニティをつくってきた。

私と似たような方もいるかもしれない。

子供のころから換算すると、かなりのジャッジ数である。

これを繰り返すとどうなるかというと、周りにいるのが

いわゆる「感覚が似てる人」ばかりになるのである。

私の学生時代からの友人たちを個性学で調べたら、チーターと黒ひょう、猿が大部分をしめていた。

いわゆる、「パッ」とひらめいて「ピッ」と行動する人たち。物言いもちゃっちゃっとしていて、あとにひかない。

ここまでは、ぜんぜんOK。居心地のいい相手と一緒にいるのは楽しいし楽だもの。

良くないのは、似た者同士が集まって、

自分たちとは違うタイプをジャッジすることだ。

私たちの例でいうと、

A「普通さー、人から言われた仕事って自分のことより先にするよねー」
B「わかるー!◯◯さんがいつまでも手をつけないからむかついちゃって、もういい、って取り返しちゃった」
C「◯◯さん、社会人としてダメだよねー」

みたいに、「自分の価値観」を「社会の常識」と信じて疑わなくなるのだ。これが「似た者同士」の落とし穴だと思う。

PTAなどでも「その行事には反対ってみんな言ってますよ~」などと会議で発言されて、

実際に全体アンケートを取り直したら、実際は反対意見は発言者の周りの二、三人だった・・・ということもあった。

三人ほどの「似た者同士」の同意だけでも、「世間全体」と思わせるだけの共感力があるということだろう。


友人と私の会話に話を戻す。

私たちが単に「物事の優先順位をつけるのが得意」で「スピードが早い」だけで、それが一般的な「仕事ができる」ではない。

ひとつの仕事に対して手順を考え、できるだけミスのないように組み立て並列化して仕事を進め、全てを同時にキレイに終わらせる人もいる。

人から回ってきた仕事とか、自分の仕事とかの余計な要素は抜きに、時系列で仕事を淡々と公平に進める人もいる。

スピードがいくら早くても、ミスがあればそれは良くないし、
見た目は遅くても、完璧にやった人のほうが結果的には早いことだって多かっただろう。

でも、「私のほうが仕事ができる」と思い込んでいれば、あら不思議。

その事実は脳が拾わない。


そして脳が拾った事象=自分の価値観に沿った事象だけが認知され、自分の認識となっていくのだ。


個性に「優劣」「善悪」は存在しない。

自分が好きなやり方か、否か、の違いだけである。

職場でいうと、上司が好きなやり方か否か。

このように、わたしは自分の「好き嫌い」を一般化して「善悪」と結びつけていた時間が多かったことに、改めてぞっとした。


子育てに関しても、

「休みの日は人と遊ぶのが良い」

「友人は多くなければ」

「運動神経がよくなければ」

「スポーツをやっていなければ」

などと、自分のなかの価値観にしばられっばなしで、「これに添わないうちの子はダメだ」とさえ思っていた時代があった。

まったく、何様なんだよお前、である。

今でも、「普通さ~、こうじゃん?」と人に話しそうになることがある。そのためにイカンイカン、と自らを戒める。

自分の普通は、相手の普通ではない場合が多いからだ。

誤解しないでいただきたいのだが、「似た者同士」が悪いわけではない。むしろこの広い世界で、あまたの難関を乗り越えて集った精鋭たちである。一生大事にしたい友人たちだ。

だが、そればかりに終始してしまうと片寄った思考になってしまう、ということだ。

これからもいろんなタイプの人たちに揉まれ、磨かれていきたいと思う。


みんなちがって、みんな正解。

なんだよね。





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