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「楽しさのリスク分散」のすすめ

何かを選ぶときや決定打がなくて選択肢に迷ったとき、「楽しそうか?」を優先すると、割とうまくいくことに気づいた。

この感情こそが、むしろ人生において大切だと個人的には思っている節もある。

だって、楽しくないと一度きりの人生だし、なるべく笑っている回数が多いほうが、きっとしあわせだ。「笑えない、楽しくない日々」って、つらいし、生きている喜びがないという状態は緊急事態では?と思ってしまう。

仕事も家事も育児も人間関係も、全部だ。

無理すると続かない、楽しくできないと苦しい。本当はあまり楽しくなさそうな人を見るのも、一緒にいるのもつらい。

子どもの頃から、わたしな良くも悪くも無意識にまわりの影響を受けやすいようだった。希薄な関係、緊張感が必要な環境、ワクワクを感じない環境にいると、必ず体調を崩した。物事がうまく進まなかった。そして、すぐに飽きたり逃げ出したりしたくなってつらくなっていた。この感覚は、未だにうまく言語化できないし伝えられない。子どもっぽい部分があるのも自覚している。

逆に言えば、未来のことも「楽しそう」ならGOだし、未経験でも楽しかったらその後割とスムーズにいくのだ。うまくいくことが多い。

楽しそうな空間にいるのも好きで、楽しそうな人達をみるのも好きなのだ。

中学生に所属した吹奏楽部、楽器はまったく経験なかったし、楽譜も読めなかったけど先輩方が「楽しそう」だったから、入部した。結果、社会人になっても続いている趣味だ。

会社の飲み会は「楽しそうな人」を見るのが好きだったから参加した。正直、わたし自身はお酒のおいしさは一向に分からないし、口下手で場を盛り上げたりはできないけれど、まわりの人達が「楽しそう」なのを見るのは結構好きだったからだ。

普段まじめな人や厳しめの人、あまり笑わない怖い人がニコニコしているのを見るのが毎回好きだった。

「あ、この人こんなふうに笑うんだ」「こういう話題が好きなのか」って、密かにワクワクする。

そして、気心が知れた人達のなかでは、自分がふざけて冗談を言って人を笑わせるのも好き。親友達のなかでは、決まってわたしは笑わせる役割だった。

今ふりかえると、大人になり、社会人になり、病んだ時は決まって「楽しくなかったとき」「笑う回数が減っていたとき」だ。まわりの人とふざけたことを言い合える人がいなかったときだった。

自分らしくふるまえないとき、笑えないとき、きっと人は病んでしまうし行動が減速するものだと知った。

わたしの場合は常に緊張し「いい子・いい人」でいないといけない環境。フッと笑い合えるひとや、分かり合える人が極端にいないとき。

仕事では、仕方がないかもしれないけれど、ずーっと何年も続くとそれはもうつらい。

そんな自分の特性を理解してから、わたしは何をするにも最終的には「自分が楽しんでいる未来が見えるか?」でなるべく選ぶようにしている。

すると、あまりつらいことは起こらなくなり、楽しいことが増えた。

学生時代、学校がつらかったのは、その環境こそがすべてだと言わんばかりの閉鎖的な空間だと感じていたから。

会社の正社員がつらかったのは、その「社内の環境や仕事に馴染めなかったら先はない、ほかに行っても通用しない」と言わんばかりの圧や空気を当時感じていたからだ。(今思うと職場が合わなかった)

そんな自分がうつ状態を機に、働き方を必死に模索した。

派遣社員になってさまざまな職場に行ったとき、少し生きやすくなった。「世の中に会社はたくさんある、環境も人も選べるし、自分でも作ることが可能なのだ」と気づいた。社内のルールなんて、一歩外に出れば意味を持たない。会社によってカルチャーや正誤がまったく違うからだ。

好まれる人材の傾向も、そうでない人の傾向も全然違う。

なーんだ、私は「ここでは」に合わないだけだったんだ。何かが思うようにいかなくても、そんなに深刻になり過ぎる必要はないのかも知れない、と思えた。

その事実は、わたしを十分に救ってくれた。

さらに今はフリーランスになり、複数の企業や組織を行ったり来たりするのが割と合っていて楽しい。

大変だし、決して楽ではない。向き不向きもある。

けれども、複数の環境に自分が少しでも貢献したり、喜んでくれる人がいるのはうれしいことだった。

同時に、複数の趣味や学びのコミュニティにも参加した。これとまた楽しい。

フリーランスや経営者さんに会うことが増える。なぜ楽しいのだろう?と考えてみるとわきっと「楽しそうにしている人、働いている人に出会う割合が多いからでは?」と気づいた。

私は楽しそうに働いている人見たり、一緒にいたりするのが好きだった。さまざまな経験は学びになり、楽しい。

楽しいことばかりではないし、もちろん大変なこともある。でもそれだけにとらわれずに心が保てているのは、自分なりの「楽しさを分散」させているからなんだと思う。

もちろん、収入のリスク分散っていう理由もあるが、わたしは多分「楽しさのリスク分散」も無意識にしてるんじゃないかと最近思った。

もちろん、そのためには、さまざまな組織や1人に一生懸命、価値提供する。



ちょっとつらい、しんどいなとか思うときは、まず「最近よく笑えているだろうか?」をふりかえるといいかもしれない。

また「1つの環境だけにいるのでは?」を考えるのもいいかもしれない。

もし、1つの場所しかないのであれば、なるべく好きなこと、興味がある分野のコミュニティーや組織してみるのもおすすめだ。

今やネットやオンラインでもさまざまな人と出会えるから本当に便利だ。

楽しさはリスク分散すると良い。

実際、私が新入社員でイジメられた時、気持ちを立て直すためにしたことは「社会人吹奏楽団に所属すること」だった。会社と家の行き帰りから脱却し、別の居場所を作ったのだ。

すると、そこからパッと人生において楽しいことが続いた。「さまざまな人がいるんだなー、楽しいなー。会社や仕事だけではないぞ人生は」と気づき、楽しいことや良いことが続いて今に至る。すると、つらい仕事も、いつの間にか乗り越えて、仕事が少し好きになった。

「楽しさ」を基準にも置いてみる。小さな習慣。

そのほうが、きっと自分の可能性を広がり、より生きるのが楽しくなるのではないかと私は思う。

収入のリスク分散ならぬ、「楽しさ」のリスク分散のすすめだ。

最後までお読みいただき嬉しいです♪ありがとうございます!これからも心を込めて執筆していきます。