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毎日note「大切なのは自分へのツッコミ」ーー書くだけでは満たされない時はツッコミが足りていない

*タイトル更新しました3/3*

仕事の中で誰かの話を聞いている人は、どこかで自分の話を聞いてもらわないと、心のバランスが取れなくなると思う。話を聞いてもらう代わりにnoteを書いている人もいるのではないか。私がそうだった、今もそうだ。

誰かに話したいこと、聞いてもらいたいことを文章として書きだすことで、気持ちがスッキリする人はいい。そういう人は、書きながら考えて、自分なりの結論に辿り着いているんだと思う。私はそのために書く時もある。
自分の考えや思いを、言葉にして並べていくことで、客観的に観察することができるようになる。自分の外に出す=アウトプットだ。
モヤモヤと悩んでいたが、いざ、書いたものを眺めてみると、大したことない、なんだか笑えてくる、少しずつ進んでるじゃん、そんな風に思うことがある。

だから、私は人に話を聞いてもらうことが難しい時には、書くようにしている。できるだけ毎日書きたいと思っている。

一方で、書くだけよりも、直接人と話た方がいいなって思うことがある。
友人ではない、知人の話、ここだけの話しだと思って読んで忘れてほしい。
頻繁に投稿される内容にツッコミどころが満載なのだ。
書いてスッキリする人は、書きながら自分で自分にツッコミを入れて、自己完結するのだと思う。ところが、文章の最後までモヤモヤが残るその知人の文章には、他人へのツッコミは満載なのだが、書いている自分へのツッコミが無い。
そのアウトプットの意味を考えてみると、文章の中でツッコミを入れられている本人、また本人たちが読む可能性がない形でのアウトプットであるため、書き手は、本人へ書いた内容を伝えたいわけではないのだ。
結局、文章の中でツッコミを入れている相手に抱く、自分の気持ちに共感を求めている。よくやっている、頑張っている、と誰かに認めてもらいたい、承認欲求もあると思う。それは全く悪くない。文章を書くという行為を通して、外部に「ヘルプ」を求めることができている。家族関係、仕事がしんどくて仕方ない時には、私もそんな感じで、ただただ書き散らかしていた。
でも、そんな時には、やっぱり誰かに合いの手を入れてもらいたい。
「それで?」「何が?」
自分とは違った切り口でツッコミを入れてもらう。
まるで餅つき途中に、おもちを臼から剥がすように…頑なに臼にこびりつこうとする餅を濡れた手でペロンと剥がしてもらう。
書いてる対象に一方的にツッコミを入れまくることで終わらずに、自分にもツッコミを入れてみてほしい。いつもそう思いながらnoteではないSNSの投稿を読んでいる。時折り、親しい人が勇気を出した枕詞をつけながらツッコミを入れる様子を目にする。でも遠慮がちなツッコミは、簡単に跳ね返されてしまう。

そして私もこれを書いてる自分にツッコむ。
そういう自分はどうだ?
しんどい時、大変な時はツッコミよりも前に、よく頑張ってるね、大変だね、と受容してほしい。いきなりツッコまれたらヘソ曲げてしまうだろう。
すごい人だからこそ、その人は孤独なのではないか。
公開文章で弱音は吐くけれど、一番身近な人の前で弱音が吐けないのではないか。

(*更新追記)
このnoteを書いて風呂に入っていたら、自分にツッコミが降りてきた。
一番身近な人に弱音が吐けないとき…それはその一番身近な人のことで悩んでいる時だ。家族、夫婦、子ども…
夫婦関係で悩みの渦中にいるとき、noteに書いて客観的に眺めてみても、スッキリできなかった。というより、赤裸々に書き出すことができなかった。一番聞いてほしいことがアウトプットできない苦しさがある。人に聞いてほしいから、アウトプットしているはずなのに、肝心なところはオブラートに包んで書く。
だから消化不良に終わる。自分のことだから他の人はわからないが私はそうだった。*

私では相手にならないかもしれないが、話を聞きたい。
何も言えることはないけれど、ただ話を聞きたい。
そう思う。

タイトルから着地点がズレてしまったけれど、人の話をいっぱい聞く仕事している人は、自分の話も聞いてもらわないとバランスとれないよね〜と話している中で、
思ったことを書いた。
これは私の放談です。

読んでいただきありがとうございます。 noteで出会えた奇跡に感謝します✨ サポートいただけましたら楽しい寄り道に使います。