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アフォーダンスとは?ーーー"ほぐす学び_2022" session5は、エドワード・S・リード「経験のための戦い」、佐々木正人「アート/表現する体」

"ほぐす学び_2022"に参加しています。先週5回目のsessionを終えました。
今回もメモ書きになります。アフォーダンスについて、分かってないから書けていないです。ここからどんなアフォーダンスをピックするかは私次第、あなた次第です。(アフォーダンスの使い方を試しています・・・)

session5:経験を疑う

session5は、
アフォーダンス
という言葉について、その意味や使い方を学ぶ。アフォーダンスという言葉を、いかにアマチュアの僕たちが実生活に使っていけるか。(みーさん)

チェックインタイムに、3人グループでアフォーダンスについて話す。
公園のベンチに等間隔に並び、缶珈琲を飲むサラリーマンの姿。これは、アフォードされているのではないか。お店のサクラ(おとり)もまた、アフォードしているのではないだろうか、、、アフォードとは?アフォーダンスとは?
環境によって引き起こされる行動ですよね、、、私はそう理解しているつもり。
アフォーダンスについて話すところからsession5が始まった。

「経験のための戦い」

著者:エドワード・S・リード

生態心理学者

生態心理学とは?
心理学におけるアプローチ・領域の一つ。行為主体と環境との相補的な関係がひとつのシステムを作り上げる

アフォーダンスとは?


アフォーダンス(affordance):人間はその情報を識別することでそれらの持つ意味や価値を見出すことができる。
我々は考え込むばかりで自らに閉じこもる精神ではなく、環境へ向かって活動を繰り広げるもの。

直接経験/間接経験

直接経験:自発的に得られた情報を使用している。直接経験は我々に自己の感覚と人生の道ほどについて感覚をもたらす。

間接経験:情報が制限されている。他人が選択した情報を取り入れる。 (例)風景写真、ビデオ

テレビの普及により、間接経験に時間を割くようになり、直接経験を得る機会が少なくなっている。

発表者の問い:経験を共有するとはどういうこと?現代社会においてどのように「経験を共有」できるのか?オンライン(メタバース、SNSなどでの交流)では経験を共有できるできない?

グループ対話)オンライン授業で同じ景色を見ているだけでは経験を共有していることにはならないのでは?双方向のコミュニケーションがあること、そこにWANT(主体性)がないと、経験共有にはならないのでは?
例えば、この”ほぐまなsession”では、オンライン開催のため対話する相手の後ろに回ることはできないが、対話すること自体が目的で、それは達成できているので1次体験なのか1.5次体験と呼べるのではないだろうか。

アーティストのLIVEに参加している人たち、アーティストは「体験を共有している」と言えるのだろうか?その場に生まれる一体感は、体験を共有していると言えるのではないか。
自分にWANTがない時、そこまでファンじゃなかったアーティストのコンサートに誘われてついて行った際、LIVEでのパフォーマンスでそのアーティストの虜になり最後にはファンになっていた。もしくは周囲のファンの熱気に包まれ、ついファングッズを買ってしまう。これはアーティストやその「場」にアフォードされているのではないか。

コロナ禍で流行ったWEB旅行は間接経験。コースや見える景色が制限されている。YouTube動画も、制限された、選びとられた、絞り込まれた、情報を凝縮したものを見ている。逆に直接体験の散歩は、何でもない風景、何も起こらないことの方が多い。間接経験には余白がないのでは?注目を逸らさぬよう、情報が凝縮されているように感じる。 

大地の芸術祭、作品を見に行こうと歩を進めた際、自分が踏んだ落ち葉の音が印象に残った。いつもなら落ち葉くらい気にならないことだったかもしれない。

ジブリパーク、完全なテーマパークではない。余白があるところに、こちらの想像を掻き立てるものがある。

大徳寺の話、歩くたびに、床や建物からギュッ、キュッというような音が聞こえる。これは直接その場で床を踏みしめないと経験することができない。

焚火の話、キャンプに行けないときに焚火が恋しくなる。動画で焚火を見る。炎やパチパチっという音は聞こえる。間接経験にないものは、煙の匂い、温かさ、空気の揺れ。

アート/表現する体

著者:佐々木正人

アートは知覚です。知覚がアートです。
全てが分離していない。アートは分離していない。

インフォメーション =空気中の不均質
環境は「表面/サーフェス」のレイアウトでできている。
私たちは、多様なインフォメーションを「混合」してアフォーダンスしている。
コーディネーション
アフォーダンス

人はいつも、コーディネーションするためにインフォメーションを利用する。
人が使うのは、コーディネーションするためのインフォメーションだけを使う。
知覚と行為のカップリングをしながら、私たちは生きている。
何かを初めて知覚している人の「生」の中心にある知覚・動きは、見てるだけで面白い。

マイクロスリップ

雑談の中に埋もれた台詞が徐々に聞こえるようになる
何度も何度も同じことをする。
3分の1秒、4分の1秒単位でカップリングしている。
身体で覚える。

その場にある肌理きめから、新たな知覚を見出した時、アーティストのリミナリティの知覚に共感して人は感動するのか?


肌理きめ(テクスチャー)がポイント。
アフォーダンスって区切りがない。
波には区切りがない ずっと連続している。
マイクロスリップ 滑る タイミング、の話。
脳が処理してない 手が勝手にアフォーダンスして知覚してやってる。

みーさんのお話し

「人生ってアートだよね?」
赤ちゃんは、
何度も何度も寝返りしようとしては戻る
何度も何度も立ちあがろうとしては座り込む
何度も何度もフラフラと補助なし自転車を漕ごうとしては止まる
何度も何度も同じ動作を繰り返す中で、あるとき突然できる瞬間がやってくる
これはマイクロスリップではないか?

アフォーダンスは説明できたりできなかったりする


滑り台をデザインしたデザイナーの話:
1枚の写真を見る。滑り台と子供が3人。みんな滑り台を滑って遊んではいない。滑り台に捕まって遊ぶ子供の姿は、生き物と環世界との関係を現している。ペンギンとかも同じように遊ぶ。
大人はこんな遊び方はしない。滑り台なんだから滑り台を滑って遊ばなきゃと思い込んでる。
子供は生き物性を発揮している。子供はアフォーダンスを身体で感知する。
大人は頭で感知する。
子供はみな違うアフォーダンスをピックしている。
親が後ろにいるから子供たちが安心して遊んでいられる。
これは社会的アフォーダンスなのでは?この話はまだ、難しい。。。
経験から手に入れた抜け目なさ
社会的アフォーダンス
組織や会社にどんなアフォーダンスが潜んでいるか?(主催者・なおきさん)

みーさんのお話し


発表者の問い:感動の正体について。なぜ感動するのだろう?感動するとき、何を知覚しているのだろう?

映画やオーケストラの生演奏を見て、感動する人しない人。
感動する時、しない時がある。
いろいろな種類の感動がある、LIVE、子供の成長を目の当たりにした時…

人それぞれ知覚するアフォーダンスが違う。
知覚器官が敏感、敏感じゃないの違いがあるのだろうか。
初めての体験に人は感動するのか。

毎日同じことをして生きる。うまくやりたいと思いながらそれを日々繰り返す。
ある瞬間できなかったことができるようになる。ある瞬間、ピタッとハマる感覚。
それが今度は日常になっていく。
これはマイクロスリップの一種なのだろうか?
一人一人の人生もアートと呼べるのではないか。


#ほぐす学び
#本屋アルゼンチン





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