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老子53:小道を避け大道を歩む

老子第五十三章

原文

使我介然有知,行於大道,唯施是畏。 大道甚夷,而民好径。 朝甚除,田甚芜,仓甚虚,服文綵,带利剑,厌饮食,财货有馀,是谓盗夸。 非道也哉!

老子

現代語訳

もし私がほんの少しの知恵を持っていたならば、私は大道を歩むことができるだろう。しかし、人々は大道を避け、まがり道を好む。
大道は平坦で歩きやすい道であるのに、人々はなぜか険しい小道を選ぶ。
宮殿は華美に飾られ、農地は荒れ果て、倉庫は空っぽである。人々は華やかな衣服を身にまとい、鋭い剣を帯び、飲食に飽き、財宝は余っている。このような状態は盗賊の誇りと何ら変わらない。
これはまさに道(タオ)ではない!

解説

第五十三章では、老子は「大道」と「民好径(小道)」の対比を通じて、道(タオ)から外れた社会の状態を批判しています。「大道」とは、自然で無為の道、すなわち老子が理想とする生き方や社会のあり方を示します。これに対して、「民好径(小道)」は人々が自然から離れ、自ら困難な道を選び取っている状況を指しています。

大道の「夷(イ)」と「径(ケイ)」の違い

老子は「大道甚夷」と言っていますが、これは大道が平坦で、誰にでも歩みやすい道であることを示しています。老子の哲学における「夷」は、自然で調和した状態、無理のない生き方を意味します。対照的に、「径(小道)」は意図的な選択や人工的な努力を指し、これが結果的に困難や苦痛を招くことを暗示しています。

社会の堕落と盗賊の誇り

老子が批判するのは、当時の支配者層や富裕層の振る舞いです。「朝甚除、田甚芜、仓甚虚」という表現は、政治や権力が華やかに飾られている一方で、農地が荒廃し、食糧が不足している現状を描写しています。老子は、これらの贅沢や無駄遣いが、道(タオ)から大きく逸脱していると述べています。

「服文綵、带利剑、厌饮食、财货有馀」は、物質的な豊かさを追求し、無駄な装飾や武力、贅沢を誇る人々を批判する表現です。老子はこうした人々を「盗夸」と称し、彼らをまるで盗賊のようだと非難します。これは、彼らの行動が本質的には社会を蝕み、他者から奪う行為であることを示唆しています。

現代への教訓

現代社会においても、老子のこの教えは重要な意味を持ちます。私たちはしばしば、より自然で調和した生き方を犠牲にしてまで、物質的な豊かさや名声、権力を追い求めがちです。しかし、老子はそのような生き方が真の幸福をもたらすことはないと警告しています。むしろ、私たちは「大道」を歩むべきであり、自然で無理のない生き方、つまり「無為自然」の道を選ぶべきだと説いているのです。

この章は、現代に生きる私たちにも、生活のシンプルさ、謙虚さ、そして自然との調和を重視する重要性を再認識させてくれます。経済的な成功や物質的な豊かさだけでなく、心の豊かさや精神的な平穏を追求することが、老子が説く「道」に通じると言えるでしょう。


衣服や食事にお金をかけ、立派な家に住んでいても、幸せには程遠い生活を送っている方が多くおられます。反対に着物は洗い替え意外を持たず、玄米と味噌汁と戴いた魚や作った野菜などを食しつつ、粗末な小屋に住んでいても、毎日が楽しくてたまらないという方もおられます。

必要最小限の衣食住で暮らすことにチャレンジすると毎日が楽しくて仕方ないという声を聞きました。モノは少ないほうが心は豊かになるという道理です。これは信じられないと思われるかもしれませんが、論より証拠、あるミニマリストが信じられないくらい元気で陽気で幸せなのです。

奪われるものがない。失って悲しむものがない。こういう生活を望んで生きることも新しい生き方。富や名声を求めて得られるものに大したことはありません。常に崩壊の危険性と隣合わせだからです。株価の暴落、事業の衰退、災害や病気・怪我など人生何が起こっても不思議ではありません。

大道に生きるとは、自然に生きることです。断って、捨てて、離れてみれば執着していたことがアホみたいに思えてきます。いずれこの命が終わり、この身を捨てて、この世と離れるお互いであります。険しく曲がりくねった細い道を走るより、ゆっくりと大きな道を歩みたいものです。

ご覧いただき有難うございます。
念水庵


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