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安部公房『砂の女』に学ぶ|罰がなければ、逃げるたのしみもない

安部公房の『砂の女』という小説の冒頭に書かれている有名な一節があります。

罰がなければ、逃げるたのしみもない

『砂の女』安部公房(新潮文庫)

この言葉は小説内のテーマにおいても非常に重要な言葉ですが、小説とは関係のない自分の生活の場面でも時々思い出してしまう、本質的な言葉のように思えます。

先日、久しぶりに休日にゆっくり休めたので外出をしてのんびりと街中を散策していたのですが、気候も暖かくなってきたこともあり、素直に「明日からまた働きたくないなぁ」と思いました。

これは「無職(もしくは大富豪)になって年中休日の悠々自適な生活をずっとしてみたい」という妄想的な願望です。

この願望に対して安部公房の「罰がなければ、逃げるたのしみもない」という言葉を当てはめて考えてみると、「辛い仕事をしていなければ、休むたのしみもない」のではないかと考えさせられるのです。

要は、これからもずっと休日が続いても飽きちゃうよ、ということです。

以前、定年退職後に京都へ移住して悠々自適生活をしていた人が、2年ほどでその生活に飽きてしまい塾講師のアルバイトを始めたという話を聞きました。

きっとその2年間は、今までの仕事の忙しさやプレッシャーなどから解放された感覚がまだ強く残っており、悠々自適な生活をする時に快感を伴って楽しむことができていたのだと思います。その期限がその方の場合は2年だったのでしょう。

寒さに凍えているからこそ、暖かい部屋の有難みを感じることができますし、お腹が減っているからこそ、食事の美味しさを感じることができます。

僕は今仕事をすることができていますが、過去に病気をきっかけに1年間ほど無職の生活をしていたことがあります。

その時には責任を感じることのない自由さは感じていたものの、社会に属せていない辛い感情に日々悩んでいました。自分に対して価値を見出すことが難しかったのです。

この経験があったからこそ、今は仕事が忙しくても何とか頑張れているのかもしれません。「無職を経験していなければ、働く価値を認識することはできない」といったところでしょうか。

のんびり過ごすことへの願望は未だに時々沸き起こりますが、「罰がなければ、逃げるたのしみもない」ことを肝に銘じたうえで、悠々自適な生活に思いを巡らせることとします。

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