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【441球目】第二次成長期⑫

先日の続きです。生産推進グループ誕生の入口です。


生産推進グループ②

製造業に携わったからこそ、強く感じた違和感。

入社してすぐの2005年頃から薄く感じてはいました。ただし、そんな中でも三陽工業の派遣は自社工場も活用しながら、かつ川崎重工がほとんどでしたので、人と向き合うことは出来ていました。そこからリーマンショックを経て、県外に出ていくと、そこには工場もありませんし、純粋な派遣の感性に染まっていきます。その染まる過程でとても違和感を感じていたのです。

リーマンショック前までは、明石工場への派遣社員は、期間契約での雇用をしていましたが、そのほとんどが自社工場での仕事からスタートしていました。というのも、人を採用してもすぐに就業することができない。であれば、まずは採用して自社で仕事をしてもらい、要請が出た時点で派遣先へ行ってもらう。そんな動きを取っていました。それが、県外へ行くと当然そのような動きを取ることが出来ません。純粋な派遣業者としての思考で動くことも多くなりました。仕事、ビジネスとして割り切りをしながらも、どこかにずっと残っていた違和感。製造業と製造派遣業。名前は似ているし、どちらもお客様は製造メーカー。なのに、考え方が全く異なります。

とある派遣会社の人に言われたことがあります。まずは自社工場で働いてもらって、そこから派遣先に配属する方法の話をした時に、そんな無駄なことしてどうするの?という意見がありました。驚きましたね。それも1つの感性かもしれませんが、とても驚きました。自社工場で仕事をしてもらうと、そこでその人の能力を見ることができます。コミュニケーションも取ることができます。もちろん、新人が入るので、その職場の生産効率が一時的に落ちる場合もありますが、それを無駄と言われたことにとても驚きました。その人からすると教育研修の類は無駄なのでしょう。派遣業を広げていくにつれて、大きくなっていった違和感。どこかで解消したいと思っていましたが、時間だけが過ぎていきます。


生産推進グループ誕生のきっかけ

先日から書いている違和感が1つのきっかけなのは間違いありません。

もう1つ大きなきっかけがあります。2015年のお話です。ある企業との取引を熱望していましたが、なかなか取引開始まで至りませんでした。そんな企業とTikToker森本さんの動きでやっと取引開始することが出来ました。数年かかっての取引開始だったので気合が入ります。気合を入れて採用活動を行います。

当時の考え方は今とは全く異なり、採用力=採用費の額、の様な所がありましたので、関西一円あらゆる媒体、その企業の為の採用活動を開始しました。なかなか苦戦していましたが、3ヶ月ほどで10人くらいが入社してくれました。そして、入ってもすぐ辞めてしまう状況が続きました。気が付けば、10人入社して9人が退社して残っていたのは1人だけ。そして、そこまでえに投下していた採用費は約500万円。500万投下して1人。。。。。。このペースで10人にするには5000万必要。100人にするには5億必要。そんな思考です。なぜ9人辞めたのかにフォーカスしていない所がなかなか派遣ぽいですね。

そして、次の瞬間に考えたことは、当社にとって500万の採用費はとても大きな金額だけれど、大手の派遣会社からすると、500万程度は特に大きな金額ではないはず。そう考えると、採用費勝負をすると到底大手の派遣会社には勝てないのではないか。大手派遣会社と比べるの?その時の三陽工業の売上は20億程度なのに。なぜ、大手派遣会社と比較をしたのか。んーーーーーーー。なぜだろう??これと言った明確な理由は記憶にありません。でも、こんなんしてたら絶対勝たれへんやん!!と思ったのは事実です。なんでそう考えたのか。謎です。。。。このままでは大手派遣会社に絶対に勝てない。この思考が次へと繋がっていったのは確かです。

生産推進グループが誕生するきっかけはもう少し時間がかかるので、今日はこの辺で終わって、明日に続きます。

本日もありがとうございました。

明日もよろしくお願いします。



最後まで読んでいただき、ありがとうございました!