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【429球目】三陽工業・創世期②

創世期②ですが、まだまだ始まりの段階です。昨日は省に招集通知が届いた所まででした。今日はそこからの続きです。


招集通知

大阪市此花区の鉄工所でとても楽しく仕事をしていた、溶接を覚えていた省に招集通知が届きました。

あの時代ですから、仕方がありません。徳島県の部隊に配置が決まり、大阪出発の時にはその当時の社長が餞別として100円くれました。当時の日給の200倍ですから、日給1万円なら200万円相当になります。本当にありがたいことです。1944年1月10日に徳島に到着し、そこから20日間経過した後に中国の南京へ移動。桂林、重慶、広東などを転々とし、戦時中を過ごしています。1945年8月15日に戦争が終わり、その後1年近くは中国での道路工事に携わりました。その期間、1年ほどです。1947年に日本に帰る事が決まり、船で鹿児島港へ到着、そこから大三島へと戻ります。

多くの犠牲を生んだ太平洋戦争。こればかりは運が良かったと言うしかありません。生かされていることに感謝です。


戦後

戦争が終わり、省は大三島へ帰って来ました。

戦後の混乱期、農家だったおかげで食べるものには困りませんでしたが、仕事がありません。色んなことをやりながらも、そのうちに隣の村のAさんの弟さんから因島の造船会社で溶接の仕事があるという紹介を受け、そこで働き始めます。隣の村のAさんは極めて重要人物であり、感謝すべき人物であることが分かります。そして、それから1年ほど経ったころ、この隣の村のAさんがさらに重要人物である出来事が起こります。隣の村のAさんの奥さんの妹と省のお見合いの話が浮上します。お見合いを経て、二人は結婚することになります。省が27才の時です。

Σ(・□・;)

隣の村のAさんがいなければ、私はここに存在していない( ゚Д゚)これは事実です。隣の村のAさん、ありがとうございます。感謝です。


再び島を・・・・

隣の村の洋子さんと結婚した省は、ここから順風満帆かと思いきや、勤めている会社の給料が遅れ出します。そんな時に長女が生まれ、さらに、元々いた大阪か神戸へと出て行きたいという想いが募って来ます。そんな中で、兵庫県相生での仕事の話があったので、単身赴任でその仕事に向かいます。

1年位でその仕事は終わり、その後に富山県へとこれまた単身で向かいます。富山での仕事を終えた後に、因島へ戻るもそこには既に仕事は存在しておらず、悶々とした日々を過ごします。半年くらい迷ったうちに、今回はなんのツテもなく、神戸へ向かうことを決断しました。仕事も決まっていない状態で妻と子供二人を抱えて、所持金は6万円。長男(前会長)が生まれて間もなくの話なので、1952年頃の話です。省が29才か30才ごろの話になります。2人の子どもがいたのに、仕事もなく神戸へ向かう。仕事がないから神戸に向かったのか?なんにせよ、その行動がそこからの運命を変えてくれます。私はリーマンショック時に30才でした。この時の省も30才くらいです。勝手に、自分と重ね合わせてしまいますね。行動の大切さを感じます。


そして、神戸へ

神戸に来ると仕事が見つかります。

川崎造船の仕事ですが、下請けの下請けの仕事です。そうこうしているうちに、造船不況がやってきて、仕事がなくなります。ここからは色んな所へ行った記載があります。福島県の田子倉ダムへ行ったり、神戸製鋼へ行ったり、神戸発動機へ行ったり、その色んな所への記載の中に、江井島の永井鉄工という記載があります。この場所は三陽工業の現在の魚住ロジスティクスセンターがある場所です。元々、そこは造船工場だったことは聞いていましたが、この手記に記載を見つけた時は、とても驚きました。

そして、川崎造船時代の仕事仲間から川崎航空機で仕事をしないかという依頼を貰い、1966年に省以下5名で、川崎航空機の明石工場(現在の川崎重工明石工場)へとやって来ます。ここでは、社内外注の様な形で仕事をしていましたが、川崎航空機から見ると2次下請けです。直接の取引ではありません。川崎航空機は1964年に目黒製作所を買収して本格的にオートバイ生産に乗り出していますから、この頃はまだオートバイの生産は少しだけだったようです。1日に数十台の生産数しかなかった時代に、となりで働いていた正社員のSさん。このSさんはこれから45年後に三陽工業に入社して頂くことになります。すごい運命を感じます。

その後、オイルショックまでは順調に業容を拡大していきます。ただ、オイルショックが来ると仕事が激減。一気に規模が小さくなっていきます。また、神奈川県藤沢市に出張所を構えていましたが、これも事情があり他社へと譲渡することになりました。オイルショックは1973年、1979年です。私が生まれたのが1977年ですから、私が生まれた時はまだまだ苦しい状況だったのだと想像します。

1970年に修二が入社という記載があります。前会長は、この頃から省と共に仕事を初めています。オイルショックの影響を受けて、川崎重工明石工場の中で15名だけが残った状況で1980年、昭和55年に三陽工業が設立されます。やっと1980年まで来ました。次回からは三陽工業が出来てすぐの話、やっと本題の創世期に入っていきます。

本日もありがとうございました。

明日もよろしくお願いします。


最後まで読んでいただき、ありがとうございました!