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【87球目】生産推進グループの起源

2016年にスタートした生産推進グループ(⇩コチラの記事参照)。

42年の会社の歴史に対して、まだ5年というとても短い期間しか経過していません。

ただ、偶然にそれが出来た訳ではなく、様々な想いが重なり、それに辿り着いた。いわば必然だと考えています。

製造派遣における違和感がそこへと導いてくれたという内容は、これまでにも書いたことはありますが、今日は、もう少しそこを詳しく書いていきたいと思います。

製造派遣

私が入社をした頃は、お客様である川崎重工に対して期間工と呼ばれる形での対応がメインでした。

8月、9月頃からスタートして翌年の3月で終了する。
ほぼ100%終了していました。

「100%終了する」と、聞こえは悪いですが、それを上手く活用して、4月から7月は自分の好きな海外へと旅に出て、また8月から3月は川重で仕事をし、また翌年違う海外へ行ったり。
それをルーティンにしているような働き方をする人もいました。

そんな状況の中で、3月末の強制終了してしまう人たちの中にも、光っている人達がいました。職場の評価が高かったり、周りの人の応援をすることが出来たり、「もったいないな」と思いながら数年過ごしましたが、本当に良いと思った人には、自社工場で働くことを提案したりもするようになりました。

いま、当社の自社工場で働いている人の多くが、元々川重構内で働いていた、今でいう所の製造派遣で働いていた人たちです。

キャリアアップというカッコいい言い方は当時使っていませんでしたが、光っていた人達を自社工場への現場変更という形で部署変更をしていました。

まずは、この経験が生産推進グループを作る為の1つになっています。

製造業と製造派遣業の垣根

元々、リーマンショックまでは主要顧客は川崎重工のみです。
その中で、当社は今もそうですが、あらゆる種類の仕事をさせて頂いています。

例えば、自社工場がとても忙しい時期に、川重へ派遣で行っている人が土曜休みの場合、希望者を募って自社工場で土曜日の出勤をしてもらったりすることがあります。

製造業と製造派遣業自社工場と派遣先といった垣根がそもそも無かった。川重へ行っていようが、自社工場で働いていようが、三陽工業の社員には違いがありません。

元からそんな想いを無意識に持っていた、それが生産推進グループができた要因の1つでもあります。製造業をやっていたからこその、この生産推進グループという仕組みだと考えています。

役員、部長、課長、一般、派遣、パート、アルバイト、様々な形態での働き方がありますが、その前に私たちは1人の人間です。

役割や責任は違いますが、何も変わらない1人の人間として相手に接することが生産推進グループが出来た理由の1つだと考えています。

失敗もある

リーマンショックの時に、減産で派遣先から引き上げになった1人の社員がいました。私から見て光る部分があったので、自社工場で仕事をしながら様々な経験値を積んでもらいました。もし今も在籍していれば、三陽工業で10年以上のキャリアを積んでいることになります。

製造現場物流現場営業の現場も経験してもらい、その期待度もかなり高かったと思います。

でも、辞めてしまいました
ちょうど子会社のアイコムができた頃の出来事です。

自分自身でも良い経験として捉えています。
10数年前ですから、私が30才前後
今の私であれば、きっと辞めずに済んだかもしれません。
この10年間の経験値は、とても貴重だと感じているのと同時に、もし今彼がそのままいたとしたら・・・・・

未来は話した言葉とちょっとした行動で創られる、です。

最後に

三陽工業に入って人生が良くなった、豊かになった。

そんな社員を増やしたいと考えています。

出来るなら仕事をせずに毎日遊んで暮らしたい。
そんな考えを持つ人もいるかもしれません。
しかしながら、世の中の多くの人が、仕事をしながら人生を過ごしていきます。

生活の為だけに仕事をすることほど、つまらないものはありません。
これも人によって価値観は異なりますから、様々な考えがあって良いとは思いますが。

三陽工業で仕事をすることが、その人の人生にとっての一助になれば、この会社が存在する意味はあるかもしれません。

そして、この会社で人生が豊かになった、良くなったと胸を張って言える人が1人ずつ増えて来ることによって、日本の製造現場が元気になっていくと確信をしています。

まだまだ、この会社は試行錯誤の発展途上です。
1人1人の成長会社の成長にダイレクトに繋がっていきます。

その象徴が生産推進グループです。

そんな生産推進グループと共に、また三陽工業全体として、これからも試行錯誤を繰り返し、日々シンカをしていきます。

最後になりますが、タイトル回収しておきます。

結論、生産推進グループの起源は現在のGT製造部の部長代理であり、淡路島事業所の所長であり、高砂事業所の所長代理であり、スペシャリストです。

彼らの存在が、生産推進グループというものを産み出してくれました。

そして、現在そこに続こうとしている人たちがいますし、より幅広い考え方を持って生産推進グループはシンカをし続けています。

本日もありがとうございました。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました!