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ドラマの裏に隠れた武蔵国の武士の歴史

2022年2月27日(日)大河ドラマ『鎌倉殿の13人』第8話「いざ、鎌倉」が放送されました。

今回の冒頭は、平家方の具体的な動きが描かれました。

源頼朝(演:大泉洋)がボロ負けした石橋山の合戦は西暦1180年(治承四年)8月23日に勃発したと言われています。

そして大庭景親(演:國村隼)によって「頼朝挙兵」の第一報が平清盛(演:松平健)に届いたのは9月1日と言われます。

そして清盛が追討軍を送ることを決めたのは9月5日だそうです。
総大将には平維盛(演:濱 正悟)が指名されました。
維盛は清盛の嫡男で病死した重盛の嫡男ですので、清盛の嫡孫になります。
ドラマの中で平家の棟梁を務めている宗盛(演:小泉孝太郎)にとっては甥にあたります。

維盛は兵を集めて揃い次第すぐにも出陣するつもりでしたが、侍大将の伊藤忠清が「忌日」を避けることを進言したため、出発が9月22日なってしまいました。

これでは清盛でなくても「遅い!」と言いたくなりますね。

平知康は実は武士

今回出てきた新しいキーパーソンは平知康(たいらのともやす)ですね。

平 知康(演:矢柴俊博)
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平知康は、後白河法皇(演:西田敏行)の側近です。ドラマでは直垂姿(公家装束)で出ていますが、一応武官です。

後に平家が都落ちした際、法皇が院庁である法住寺から脱走をするのですが、その時も法皇の側についていました。どれだけ法皇が知康を重く用いていたかがわかります。

後に信濃源氏の源義仲(木曾義仲/演:青木崇高)が、京都から平家を追い出して制圧しますが、その時、後白河院側の窓口として取次を担当したのが知康です。

その知康が武士であることを示したのが、西暦1184年11月19日に京都で勃発した源義仲VS後白河法皇の戦い、いわゆる「法住寺合戦」です。

知康はこの時、法住寺の西門に攻め寄せる義仲軍に対し、先頭に立って防戦に努めています。

法住寺合戦は法皇の敗北に終わり、知康は官職を没収(解官<げかん>といいます)されますが、1185年の平家滅亡後に復帰。今度は義経(演:菅田将暉)を焚き付けて頼朝と兄弟喧嘩するように工作したのがバレて再び解官されます。

この破天荒な人物を矢柴氏がどのように演じていくのか楽しみであります。

歴史の道標?丹後局

ちゃんとした登場は前回からだと思いますが、もう一人、院の重要人物をここで触れておきます。丹後局(たんごのつぼね)です。

丹後局(高階栄子/演:鈴木京香)
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丹後局は、もともと伊勢平氏の一族である平業房の妻でした。

業房は後白河院の近臣で、鹿ヶ谷の陰謀で捕まったり、治承三年の政変(清盛が後白河法皇を監禁したクーデター)で解官されて伊豆国へ流罪となったり、まぁ、踏んだり蹴ったりの人生でした。

しかもその伊豆国への配流中に脱走して捕縛され、平宗盛によって処刑されたと伝わっています。

未亡人となった丹後局は、幽閉された法皇に仕え、そのままお手がついて寵姫となりました。

高倉上皇が崩御され、後白河法皇が院政復帰した後、丹後局は法皇の権勢を利用して政治に口出しを始めます。

彼女は後々の歴史の分岐点において、極めて重要な行動をとりますので、ドラマでも注意してご覧なったほうがいいと思います。

武蔵国の武士が味方についた

『吾妻鏡』によると1180年(治承四年)10月4日、畠山義忠(演:中川大志)が長井の渡し(現在の東京都台東区橋場あたり)に河越重頼江戸重長を連れて現れ、頼朝に味方するくだりが記録されています。

河越重頼は、武蔵国入間郡河越荘の荘官(管理者)です。
当時は「武蔵国留守所総検校職」という役職を持ち、武蔵国で最大の軍事力を保持していました。

江戸重長は、武蔵国江戸郷の領主です。
河越重頼とは祖父が同じでした。

そして畠山重忠は、河越氏、江戸氏と同じ秩父平氏の一族であり、この3人は親戚になります(詳しくは後述します)。

ドラマでは鎌倉を目指す頼朝に加勢するという流れになっていますが、これには伏線がありました。

『吾妻鏡』の9月28日の項目がそれです。

治承四年(1180)九月大廿八日丁丑。遣御使。被召江戸太郎重長。依景親之催。遂石橋合戰。雖有其謂。守令旨可奉相從。重能。有重。折節在京。於武藏國。當時汝已爲棟梁。專被恃思食之上者。催具便宜勇士等。可豫參之由云々。

現代語訳:頼朝は江戸重長に使いを出しました。「お前は大庭景親の催促で石橋合戦で私に敵対した。その経緯は理解する。(しかし、今は)以仁王の令旨を守って挙兵した私に従え。畠山重能(重忠の父)と小山田有重(重忠の祖父)は京都にいるのだから、武蔵国では今は、お前が棟梁(統括者)だ。頼りにしているのだから、武士を集めて味方に参加するように

『吾妻鏡』巻之一治承四年庚子

しかし、この時、江戸重長が頼朝の使いに良い返事を返しませんでした。なので頼朝は翌日には「江戸重長を殺せ」葛西清重という武士に命じています(ほんと、短気な人です)。

それを経ての10月4日の畠山重忠、河越重頼、江戸重長が味方に加わると言う流れにつながります。

以前のエントリーでも書きましたが、この3人は三浦義明(義澄<演:佐藤B作>の父/義村<演:山本耕史>の祖父)の衣笠城を攻めて義明を討死させています。

この部分はドラマでは降伏してきた義忠を北条義時(演:小栗旬)が仲介役になって頼朝軍に加わる流れになっています。

和田義盛「わしは断じて許さん!」

北条義時「次郎(重忠)の父上(重能)は京都で平相国(清盛)に仕えています。その縁で渋々大庭の軍に加わっただけのこと」

義盛「知ったこっちゃねぇ、首を刎ねてやる!」

義時「味方になりたいと言ってきた者を斬るわけにはいきません!」

土肥実平「みんな仲良くじゃ!」

義時「叔父上はどう思われます?」

三浦義澄「わしだって憎い、奴は父の仇だ」

義盛「ほら見ろ〜」

義澄「しかし、今は忘れるつもりだ」

義盛「叔父御?!」

義澄「そんなことより!大義のため、畠山重忠という男が欠かせぬかどうかじゃ!違うか!」

安達盛長「三浦殿、よくぞ申された!」

義盛「騙されちゃダメだ!追討軍が来ればまた寝返るに決まってるじゃねぇか。なんでわからねぇんだ?」

『鎌倉殿の13人』第8話「いざ鎌倉」9:40あたりから

このドラマを見ていた方々は、

「和田義盛、ぜんぶお前のせいだ」

と思われると思います。

ええ、その通りです。重忠は三浦と戦う気がなかったのに、それを騙し討ちにしかけたのは他ならぬ義盛ですから。

ただ、あの時は小競り合いで終わり、重忠は一旦引き上げ、あらためて大庭景親の命を受けて三浦の衣笠城を攻めてますので、全部が全部義盛のせいというのは、ちょっと違うのかもしれません。

そしてドラマでは上総広常(演:佐藤浩市)の意見により、頼朝に決裁が委ねられました。

ちなみにこのくだり、『吾妻鏡』ではこうなっています。

治承四年(1180)十月小四日癸未。畠山次郎重忠。參會長井渡。河越太郎重頼。江戸太郎重長又參上。此輩討三浦介義明者也。而義澄以下子息門葉多以候御共勵武功。重長等者。雖奉射源家。不被抽賞有勢之輩者。縡難成歟。存忠直者更不可貽憤之旨。兼以被仰含于三浦一黨。彼等申無異心之趣。仍各相互合眼列座者也。

現代語訳:畠山重忠が長井の渡しに参りました。河越重頼、江戸重長も一緒です。この連中は三浦介義明を殺した人たちです。そして義澄以下の三浦一族は多くの武功を上げています。(頼朝は)「重長達は源氏に敵対したが、彼ら(武蔵国の武士)を味方をしないと我らの目的達成は難しい。忠義を重んじるには、その恨み辛みをいつまでも持っていてはいけない」と三浦一族に言い聞かせ、その結果彼らに異論はないというので、お互いに目を合わせただけで同列に並びました。

『吾妻鏡』巻之一治承四年庚子

上記内容はちょっと頼朝がいい人すぎるので、本当かなぁ?と思っています。

畠山氏について

畠山重忠(通称:次郎/演:中川大志)
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畠山重忠は、武蔵国男衾郡畠山郷(埼玉県深谷市畠山)を支配していた武士です。

畠山氏は坂東平氏が大元で、その中で分かれた秩父平氏の流れになります。

坂東平氏は桓武平氏の祖である平高望(高望王)が、京都での出世に希望を見出せなかったので、坂東(東国)に土着してできた勢力ですが、高望の孫の代で

平忠頼(武蔵介)
平忠光(駿河介)


の2系統に大きくわかれます。

上の忠頼の嫡男・忠常が房総平氏(上総氏、千葉氏)の祖。
次男・将恒が秩父平氏の祖になります。
※ちなみに下の忠光の血統が三浦氏、鎌倉氏(大庭氏、梶原氏)につながります。

その秩父平氏の3代目棟梁に秩父重綱という人がいて、この人が武蔵国(現在の東京都と埼玉県、神奈川県の一部)の支配を確実なものにしたと記録されています。

重綱には

長男・重弘
次男・重隆
三男・重遠(別家・高山氏を興す)
四男・重継(別家・江戸氏を興す)


の四人の子供がいたのですが、家督(棟梁の地位)は次男・重隆が継ぎました。長男であった重弘の嫡男・重能は埼玉県男衾郡畠山郷を割譲され、畠山重能を名乗りましたが

「なんで嫡流の俺が庶流扱いされなければならんのか」

と秩父氏の家督継承に強い不満を持っていたため、叔父・甥の間で対立がおきます。

一方、当時の京都では、河内源氏の棟梁・源為義(頼朝の祖父)義朝(頼朝の父)が、親子喧嘩の真っ最中でした。

義朝は父の勢力圏内である京都を離れて東国に移り、相模国(神奈川県)を中心に独自の勢力を築いていました。

義朝の東国での勢力が拡大していくことを恐れた為義は

「お前の兄貴をこれ以上調子づかせるな」

と言われたかどうかはわかりませんが、次男・義賢(義朝の異母弟/木曾義仲の父)を義朝の勢力が及んでいない上野国(群馬県)に派遣します。

上野国に拠点を築いた義賢は、自分の勢力を武蔵国に勢力を広げるため、武蔵国を手中に治めていた秩父重隆の娘を娶りました。これで義賢は上野、武蔵の2国に勢力を広げます。

一方、秩父氏の家督を失った秩父重弘と畠山重能は義朝に味方します。

西暦1155年(久寿二年)8月16日、源義朝(頼朝父)の子・義平(頼朝の兄)が、義賢の本拠である大蔵館(武蔵国比企郡大蔵)を急襲します。

秩父重弘と畠山重能は共に義平に味方してこの襲撃に参加。大蔵館にいた義賢と重隆を見事打ち果たしました。

この時の義平の武勇を讃え、人々が彼を「悪源太義平」と言わせることとなります。

大蔵合戦の後、秩父氏の家督は畠山重能が継承することになります。
しかしながら、武蔵国内の軍事力を司る根拠となる「武蔵国留守所総検校職」には任じられませんでした。

また討たれた重隆の子・能隆は生き残って武蔵国河越(埼玉県川越市上戸)に移り、その土地を開発して河越荘を成立させました。能隆はこの荘園を後白河院に寄進し、河越氏を名乗ります。

そしてこの能隆の子・河越重頼(前述)が「武蔵国留守所総検校職」に任じられることになります。

源氏の郎党だった秩父平氏は「平治の乱」の後は平家の郎党になってます。
そして畠山重能も(義時が言ってたように)平家の命によって京都で大番役を務めてました。

重能の嫡男である畠山重忠は、当主代行すなわち秩父平氏の棟梁代行として一族を率いねばなりませんでした。となると、平家方である大庭景親に味方せざる得ないのはやむ得ないと考えざる得ません。

ちなみに重忠はこの頃、まだ16歳でした。義時が義忠の1つ年長の17歳です。

そして三浦義村は推定14歳です。どう考えてもタメ口きける相手ではありません(笑)

義時は甲斐には行っていません

ドラマでは、北条時政(演:中村彌十郎)が頼朝の命で、甲斐の武田信義(演:八嶋智人)の使者として向かうものの、途中で油を売っているという設定で、そのケツを叩きに義時も甲斐に向かっています。

この時、義時が甲斐に向かった史実はありません。
ただし、追加の使者として土屋宗遠(土肥実平<演:阿南健治>の弟)が、武田信義の元に向かっています。

今回の義時はこの土屋宗遠の代わりですね。

しかしながら、月夜を眺めながら、信義と義時の会話には今後のドラマの動きを予感させるくだりがありました。

信義「頼朝はどうするつもりだ。追討軍を追い払えばそれで良いのか。それとも……京を目指すのか?」

義時「武田殿はどうされるおつもりですか」

信義「わしの願いは……もちろん京に上って平家を倒すこと」

義時「佐殿は上洛して法皇様をお助けし、清盛が壊した世の中をあるべき姿に戻そうとお考えです」

信義「はっはっはっは…….魂胆は見えておるわ!清盛にとって代わりたいだけであろう。大義などない!」

義時「佐殿は、正しい政治(まつりごと)が行われるような世を作ろうとおされておられます。私欲はございません」

信義「どうだか……」

『鎌倉殿の13人』第8話「いざ鎌倉」18:06あたりから

信義の考えと頼朝の考え、この時点では両者は同じだと思います。が、両者の考えは、この後にくる「富士川の合戦」を境に大きく変わっていくことになります。

それは頼朝の考えが変わったというより、頼朝を支える東国武士の願いと頼朝個人の考えとがぶつかり合った結果、鎌倉幕府のコンセプトとして固まり、それが頼朝の考え(方針)になったとも言えるかと思います。

富士川の合戦の意味するもの

ちなみにこの後にくる「富士川の合戦」は、平家本体の追討軍(官軍)と源頼朝・武田信義の連合軍(反乱軍)の戦いです。

これまでの頼朝の戦いを振り返ると、頼朝が伊豆の目代(代官)・山木兼隆を討った山木館襲撃は、今の世でいうならば、頼朝が行ったテロ行為です。

次に起きた石橋山の戦いは、平家に協力する地方の出先機関が寄せ集めの頼朝軍を数の力で潰した戦いです。

いずれも平家本体の軍勢によるものではありません。
しかし、今、頼朝に向かっている追討軍は平維盛が総大将であることから、平家本体の軍勢であり、なおかつ官軍です。

一方の頼朝・信義軍は国の政治を司る平家を倒そうというのですから、国家転覆を企むテロリスト軍団です。

そしてこの段階でも後白河法皇はまだ幽閉状態にありました。
源氏復権の兆しは東国にはあれど、京・西国にはまだ及んでいませんでした。

当時の天皇は安徳天皇(清盛の娘・建礼門院徳子の子/清盛の孫)
院政を行う上皇は高倉上皇(後白河法皇と清盛の義理の妹・建春門院慈子の子/清盛の甥)

天皇と上皇の両方を支配下に置き、なおかつ後白河法皇を鳥羽殿に幽閉している平家の体制はカンペキとも言えるものでした。

いかに頼朝が何十万という軍勢を整えようと、朝廷、院にはなんの影響も与えられません。ではなぜ平家が滅んだのかそれはすべてがタイミング、すなわち運命の悪戯としか言いようがないのかもしれません。


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