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頼朝が書き綴った勝手に任官した24人の悪口(笑)

西暦1185年(元暦二年)4月15日の『吾妻鏡』によると、関東の御家人が頼朝の推挙も受けずに勝手に朝廷の官職を頂いたとあります。

それを受けて頼朝は1枚の命令書を書いたとあります。
その命令書を訳したのが下記です。

頼朝の命令書

関東の侍(御家人)のうち、朝廷より任官した者どもへ

お前たちの関東への帰還を停止するので、それぞれ京に住み、貰った官職の任務に勤めよ。

なお、同封する名簿の手紙を一通副える。

今回のように(勝手に)任官するような行為は、京で働いて生計を立て、自らの私費で朝廷のために尽くし、その結果、朝廷から官職を貰うことである。

しかし、今回は関東の侍供が、わざと荘園の年貢を忘れたふりをして納めなかったり、国衙へ治めるべき物も掠め取り、成功(猟官)もせずに、勝手に任官を受けている。

これは官職の権威が落ちていることの証明に他ならず。この任官を止めなければ、官職の意味もなくなってしまう。

先の官位であろうと、今度の職位であろうと、任官を受けた連中は、永遠に関東への哀愁を断ち切り、京都に住んで官職に従事すればよい。すでに朝廷の家臣として列に連なっているのだから、なぜ関東へ閉じ篭る必要があるのか(いや、ない)。

もし、私(頼朝)の命令を聞かずに墨俣川から東へ下ろうという者がいれば、本領を取上げて、首切りの刑に命じるから心得ておくように。

『吾妻鏡』元暦二年乙巳

現代風に入れば「頼朝ブチギレ」とでも言いましょうか。
これだけでも結構なインパクトですが、ここに書いてある「副状」が任官者の名簿になっていて、これに一言コメントを書き綴っています。

どんだけの執念でしょうか。
『吾妻鏡』の記述を1つ1つ拾っていきます。

なお、それぞれの任官した官職はそれぞれ下記の通り

兵衛尉(ひょうえのじょう)
京都を守護する兵衛府の四等官のうち、上から3番目の役職です。

馬允(うまのじょう)
京における馬の管理と飼育を司る馬寮の四等官のうち、上から3番目の役職です。上から3番目の役職です。

刑部丞(ぎょうぶのじょう)
重大事件の裁判および罪人の管理を司る刑部省の四等官のうち、上から3番目の役職です。

左衛門尉/右衛門尉(さえもんのじょう/うえもんのじょう)
都の門の警備を司る衛門府の四等官のうち、上から3番目の役職です。

それではいきます。

兵衛尉義廉

どこの誰なのか今をもって確定ができておりません。

私(頼朝)を「主人としては悪主」、「木曽義仲は良主」と言い、父を始め親戚、親しい友達を引き連れて、木曽義仲の軍勢に参加しようと誘った。「鎌倉殿に仕えたならば、終いには落人となって処罰されるだろう」と云って事を忘れたのか?こいつこそとんでもない悪兵衛尉だ。

『吾妻鏡』元暦二年乙巳

兵衛尉忠信(佐藤忠信)

義経の郎党です。兵衛尉に任官しました。

藤原秀衡の郎党がなぜ官位を拝領できるのか。私はこの前例を知らない。陪臣は陪臣らしくおとなしく控えていろ。

『吾妻鏡』元暦二年乙巳

兵衛尉重経(師岡重経)

義経の妻・郷御前の父・河越重頼の弟です。兵衛尉に任官しました。

勘当が許されたばかりだから、領地を返してあげようと思っていたところなのに、今となっては本領を返すわけには行かないな。

『吾妻鏡』元暦二年乙巳

馬允重助(渋谷重助)

佐々木四兄弟の義祖父・渋谷重国の四男です。馬允に任官しました。

お前の父・渋谷重国は地元(相模)にいて軽々に動かなかった。それなのにお前は平家に付いて転戦し、木曽義仲が大軍で京都へ攻め入った時には、いつのまにか平家を裏切って義仲軍に従って京都に残った。

かと思ったら、今度は源義経の入京の際に義経の味方となり、その後度々の合戦に軍功を挙げたので、これまでの不義理を許して仕えさせていたら、勝手に任官して首を切られる羽目になるとはな。さぞ上手に用意をしてくれる鍛冶屋へ言いつけて首に厚く金具を巻いておけよ。

『吾妻鏡』元暦二年乙巳

小河馬允(小河祐義?)

この人もはっきりしたことはわかっていません。馬允に任官しました。

ようやく勘当を許して、その才能を惜しんでいたところであったが、不吉なことよ。何のために任官なのか。

『吾妻鏡』元暦二年乙巳

兵衛尉基清(後藤基清)

藤原秀郷流、佐藤義清(西行)の兄弟・佐藤仲清の子、後藤実基の養子。
兵衛尉に任官しました。

目がねずみのようなお前が、ただおとなしく仕えていればいいものを。任官を受けるなんてとんでもない。

『吾妻鏡』元暦二年乙巳

馬允有常(波多野有常)

相模波多野氏の一族。馬允に任官しました。

木曽義仲を滅ぼしたこともあって許してやった、大したことのない小者のくせにただ従って居ればよいものを、五位の馬允の任命を受けるなんて、あり得ないことよ。

『吾妻鏡』元暦二年乙巳

刑部丞朝景(梶原朝景)

梶原景時の弟です。刑部丞に任官しました。

声はしわがれていて、頭の後ろは薄く、刑部のガラじゃないだろう。

『吾妻鏡』元暦二年乙巳

兵衛尉景貞(梶原景貞)

梶原朝景の子です。兵衛尉に任官しました。

合戦の時に軍功をあげたと聞いている。それなので有能だと思っていた所、勝手に任官するとはとんでもない。

『吾妻鏡』元暦二年乙巳

兵衛尉景高(梶原景高)

梶原景時次男。兵衛尉に任官しました。

人相が悪くて、元々おかしな奴と思って見ていた。任官など誠に見苦しい。

『吾妻鏡』元暦二年乙巳

馬允時経(中村時経)

武蔵国七党の1つ丹党の者。馬允に任官しました。

大言(大嘘)を吐くのが大好きが似つかわしくない官職好みか。揖斐庄の云われも知らず、ちょっと立ち寄る程度の仕事しかできない人間では、悪い馬でも育てるのが限界なのでは。

『吾妻鏡』元暦二年乙巳

兵衛尉季綱(海老名季綱)

詳細不明。兵衛尉に任官しました。

本来は勘当すべきところをせっかく許して上げたのに、無意味な任官だったな

『吾妻鏡』元暦二年乙巳

馬允義忠(本間義忠)

相模海老名氏の一族で、武蔵七党の1つ横山党の武士。馬允に任官しました。

海老名と同じ

『吾妻鏡』元暦二年乙巳

兵衛尉義幹(豊田義幹)

常陸大掾氏の一族。兵衛尉に任官しました。

色白で、顔は不気味な奴なので、おとなしく従っていれば良いものを、勝手の任官なんてとんでもないことだ。こいつの父は下総国の者で、何度か呼びつけが参上せず、関東を平定してからやって来た。親子そろって出来損ないだ。

『吾妻鏡』元暦二年乙巳

兵衛尉政綱

誰かわからない上に頼朝からのコメントがない(笑)

兵衛尉忠綱

この人も誰のことかわからない。

本領を返してあげようとしていたのに、勝手に任官するとはな。今となっては叶わない事になった。ああ、残念なことだ。

『吾妻鏡』元暦二年乙巳

馬允有長

これも誰のことかわからない上に、兵衛尉政綱と同じでノーコメント(笑)

右衛門尉季重(平山季重)

武蔵国七党の1つ西党の武将。右衛門尉に任官しました。

久日源三郎(注:意味不明)。顔はふわふわとしていて、そんなやつが勝手に任官か。

『吾妻鏡』元暦二年乙巳

左衛門尉景季(梶原景季)

梶原景時の嫡男。左衛門尉に任官しました。頼朝のコメントなし。

縫殿助(山内首藤重俊)

山内首藤経俊の子。縫殿助に任官しました。頼朝のコメントなし。

宮内丞舒国

誰だかわからない。

大井の渡しに来た時(おそらく富士川の合戦の前)には、私の前で声を出すのもビクついていたくせに、そんな奴が任官とは。見苦しいことこの上ない

『吾妻鏡』元暦二年乙巳

刑部丞経俊(山内首藤経俊)

ドラマでは山口馬木也さんが演じてました。大庭景親斬首の時に許されてそれからドラマには出てませんけど。刑部丞に任官しました。

お前は官職好みだったからな、そのくせに使い道のない奴だから、つくづく無益なことだ

『吾妻鏡』元暦二年乙巳

ここで一旦頼朝の悪口は終わります。

この他にも、何人か任官した奴がいるらしいが、何の官職を受けたか、はっきりと分かる必要もない(知りたくもない?)ので、詳しく書き出していない。しかし、ここに名前のない輩も、関東に帰りたい欲求は永遠に捨てるべきだろう。

『吾妻鏡』元暦二年乙巳

と思ったら、書き忘れてたのに気づいたのか、下記2名を追記しています

右衛門尉友家(八田知家?)

兵衛尉朝政(小山朝政)

この二人は、九州へ下った際に京都で官職を任官している。まるで駄馬が道草を食っているかのように。お前らも前の連中と同様に関東へ帰ってくることを許さない。

『吾妻鏡』元暦二年乙巳

いやはや……頼朝の執念というか嫉妬というか、この文書に滲み出ていますね。しかしここに義経の名前はありません。これを頼朝の計算とみる説もありますが、私はこの命令書と名簿自体が嘘くさいんじゃないかと思ってます。

なぜなら、御家人は頼朝に忠誠を誓う存在です。ですから関東への帰還を第一に考えています。であれば、本当に腹立たしいのであれば、京に足止めさせることなく、このまま関東に帰還させて、斬首でも晒し首でもなんでもすればいいと思うのです。

ここで任官の怒りを爆発させても、頼朝にメリットはほぼないと思うんですよね。


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