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船建造に至るまでの歴史の「おさらい」

2022年11月6日、NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』第42回「夢のゆくえ」が放送されました。

源実朝(演:柿澤勇人)が面会した宋人・陳和卿(演:テイ 龍進)の前世の告白で、宋の医王山に興味を抱いた実朝が、船を作ってそこに行くという「渡宋計画」。

この話を主軸に、実朝が尼御台政子(演:小池栄子)の入れ知恵によって皇族との養子縁組をブチ上げる回でした。

そのあたりの歴史の流れも踏まえてまとめていきます。
まずは和田合戦の後のゴタゴタからです。

とはいえ4年間の動きをサマリー化するので、めっちゃ長くなりますが……

不安定な鎌倉

1213年(建暦三年)5月21日、鎌倉では大地震が起きました。近年、地震で崖崩れが地割れが起きていないのですが、それが起きたため、陰陽師らが「25日以内にまた戦が起こる」と騒いでいました。

そのせいか、この後の『吾妻鏡』は宗教系の記述がちょくちょく見られます。

6月3日 地震災害を防ぐ祈祷
不動明王の護摩法要:隆宣法橋
金剛童子法要:豪信法眼
天地災変祭:安倍泰貞

6月8日 屑星祭:安陪宣賢

さらに6月12日、鎌倉で騒ぎがあり、御家人が武装して御所に集まる騒動が起きています(詳しいことは不明)。

和田合戦の余波は6月に入っても続いていたようです。
幕府の命令で海賊退治に備後(広島)に行っていた広沢実高という御家人が、6月25日に鎌倉に戻ると、和田義盛に鏃を百腰分送ったことで謀反の容疑をかけられていました。

実高が和田義盛に鏃を送ったのは事実ですが、それは義盛が侍所長官の命令として出したので御家人として従ったにすぎず、それは義盛からの手紙からも明白でした。

実高は無罪放免となりましたが、実高を讒言したのは誰かは記録に残っていません。しかし、こういう誰かを排除するために和田つながりを利用することが横行していたのではないかということは推測できます。

また、和田義盛の妻(正室)は、横山党の横山時広の娘で、謀反に連座して囚われになっていました。その領地は幕府に没収される予定でしたが、伊勢神宮の御厨だったことから、伊勢神宮に改めて宛がって、義盛正室をその地頭職に補任しています。それはこの妻の母親が伊勢神宮の神官の娘であったことと無関係ではないでしょう。

一方で、同年閏9月19日、和田合戦で和田一族に味方して捕虜となった土肥維平が斬首されています。土肥維平土肥遠平の子で、土肥実平(演:阿南健治)の孫になります。従って土肥氏の総領でした。

維平が斬首となり、その息子たちは合戦で討死しているので、土肥氏の相模における勢力は滅亡しました。

しかし父・遠平が養子・景平が地頭を務める安芸国沼田荘(広島県三原市)に下向してまだ生きていたため、土肥氏の惣領の地位を景平に継承させています。これが小早川氏の祖になります。

御所の新築

和田合戦で消失した御所は、7月8日に地鎮祭が行われました。また同時に方違(陰陽道などで外出や移転の際などに、直接向かうと方角が悪い場合、別の場所に移動して、再度出直すこと)の相談がなされています。

それを踏まえて、同月23日に仮御所の評議で御所再建計画承認。
8月3日に棟上げ式。8月20日に新御所への引っ越しが行われています。
記録上総勢40名の御家人がこれに供奉しています。

さらに8月26日には実朝が広元の屋敷を訪れていますが、引っ越し後の初外出ということで、この時も先の43人の御家人が供奉しています。なんという物々しさでしょうか……

地震の多さ

1213年5月21日に鎌倉で大きな地震があったことは書きましたが、この前後、集中的に地震が起きているようです。

5月15日:1日に2回地震があった。
5月21日:崖崩れや地割れが起きるほどの地震があった。
7月7日:大地震があった。
8月19日:大地震があった。
8月29日:地震があった。
9月17日:地震があった。
12月11日:大地震があった。
12月12日:地震があった

『吾妻鏡』

8ヶ月の間に8回。そのうち3つは大きな地震です。
地震研究も科学もない時代ではかなり不安だったことでしょう。
ちなみに8月29日は大江広元の娘さんが亡くなっていますが、これが地震の影響かどうかはわかりません。

しかし、1215年はもっとおかしな状況になっています。

8月19日:地震
8月21日:地震
9月6日:大地震
9月8日:大地震
9月11日:大地震
9月14日:地震
9月16日:地震
9月17日:地震

『吾妻鏡』

1ヶ月の間に8回の地震。そのうち3回は大地震。
これはもはやノイローゼになるレベルではないでしょうか?

さすがの幕府も陰陽師・安陪親職ならびに安陪宣賢が天変地異を防ぐ祭祀や、地鎮祭を執り行っています。

重慶阿闍梨謀反事件

1213年(建暦三年)9月19日、ちょっとした事件が起きました。

日光山二荒山神社(栃木県日光市)の別当である法眼弁覚が、鎌倉に使者を送ってきました。使者によれば

「故・畠山重忠の末子である大夫阿闍梨重慶が、日光山の麓に隠れ住んでいて、流浪者を呼び集めております。又、祈祷を懸命にやっていることから、これは謀反の計画を考えていることに間違いありません。」

『吾妻鏡』建暦三年九月十九日

とのことでした。

仲兼(源仲兼?)が弁覚の使いの言葉を、将軍実朝様の前で申しあげました。

その場に長沼宗政(演:清水伸)が居たので、実朝は宗政に重慶を捕まえてくるように命じました。

宗政は家へ帰りもせず、家来1人、下人8人を連れて、御所から直接、下野国(栃木県)へ出発しました。この話を聞いて、家来たちがあわてて、宗政の後を追ったので、鎌倉中が騒がしくなり、人々は訝しんだようです。

9月26日夜、宗政は下野(栃木県)から鎌倉に帰着しました。
宗政は

「重慶の首を斬って持ってきました」

『吾妻鏡』建暦三年九月二十六日

と報告し、源仲兼はそれを実朝に申し上げました。
すると実朝は

「畠山重忠は元々過ちがないのに誅殺された。その末っ子が陰謀を企んだとしてもなんてことはない。よって命令通りに捕虜にして連れてきて、その上で審議すべきだった。それなのに勝手に殺してしまうとは。お前の軽はずみな行為は罪業の因縁によるものかもな」

『吾妻鏡』建暦三年九月二十六日

と溜息混じりに言ったそうで、それを仲兼が宗政に伝えると、宗政は怒り立って

「あの僧が謀反を企てていたことは疑いありません。また、捕縛するのは簡単ですが、鎌倉殿の前に連れてくれば、御所女官や尼御台所許すように言いだされるのではないかと推測しました。そのため、鎌倉に連れてくる前に殺しておいたのです。

これを嘆かれるようでは、今後、誰が鎌倉殿に忠義を尽くすでしょうか。これは、鎌倉殿の誤りです。

(中略)

今の鎌倉殿は蹴鞠を特技とし、武芸はおろそかになされて、女官を手本となされているので、周りに勇士の姿がありません。また、謀反等で没収した領地を勲功ある御家人ではなく、女官に与えられています。例えば、榛谷重朝(稲毛入道に加担した罪で殺害)の領地は五条局に、中山重政(渋谷一族)の跡地を下総局にお与えになったではありませんか」

『吾妻鏡』建暦三年九月二十六日

などと悪口雑言を並べたてたそうですが、仲兼は(聞くにたえなくなったのか)途中で席を立ち、宗政も怒ったまま御所を退出しました。

これより宗政は出仕を止められたようで、閏9月16日、兄の小山朝政のとりなしで許されています。

将軍の命令は「生捕にせよ」でしたので、宗政がそれに反する行動をとったことは間違いありません。

しかし宗政としては、横槍を入れる女官どもによって謀反の罪が許されることは鎌倉のためにならないと判断したのだと理解します。

それだけ、実朝は、女官や尼御台によって判断がグラつく存在だと御家人からみられていたのではないかと推測します。また、数々の謀反の結果、没収された土地を実朝が女官に与えていたことは記録にも残っており、宗政の言動にはそういう御家人の不満を代弁するものもあったのではないかと思います。

政村元服

1213年(建保元年/11月6日改元)12月13日、北条義時(演:小栗旬)の五男が、三浦義村(演:山本耕史)を烏帽子親として御所で元服しました。当時の義時の正室(伊賀の方/のえ<演:菊地凛子>)の長男です。「四郎政村」と名付けられました。

政村は、後に鎌倉幕府七代執権となり、その前後に連署を2回経験した唯一の人物となります。

栄西と茶

1214年(建保二年)2月1日、実朝は伊豆山神社にお参りし、3日に鎌倉に戻ってきました。その際、安達景盛(演:新名基浩)が酒宴の支度をして、実朝はもとよりそのお供までベロベロになるまで飲み明かしたそうです。

2月4日、実朝は二日酔いになっていました。そこに栄西(寿福寺の住職)がやってきて「これは良い薬です」と茶を一杯と茶の効能についての書物を献上したとあります。

日本には奈良時代に種と苗木がもたらせており、平安時代の宮廷においても茶を嗜んでいた記述が残っています。しかし、現在までに伝わる茶の飲み方や茶を薬としての用法は、栄西が渡宋時に得たものであると言われています。

時房、昇叙を実朝にねだる

1214年(建保二年)4月27日、トキューサ(時房<演:瀬戸康史>)は実朝に「三位の位階」を無心したとあります。

この時の時房の位階は「従五位下 武蔵守」です。
仮に望んだのが従三位だとしても、トキューサの位階からでは

従五位上→正五位下→正五位上→従四位下→従四位上→正四位下→正四位上→従三位

8位も上です。そもそも兄の義時ですら正五位下です。
何を突然そんなことを言い出したのでしょうか?謎です。

園城寺、炎上

1214年(建保二年)4月23日、比叡山の武者僧たちが、園城寺を襲撃して金堂、上下仏閣、僧坊などを焼失させたという知らせが鎌倉に届きました。

原因は日吉神社(滋賀県大津市)の祭りの際の供物の量でした。
供物の量が少ないと因縁をつけられ、地元の武者が収税係の役人対して矢を射かけました。それが原因で三井寺の武者僧が出動し、それに呼応するかのように比叡山の武者僧を出動して喧嘩になって火をかけたそうです。

5月7日、御所の評議で園城寺の唐院、堂舎、僧坊などを幕府の手で再建することを決定しました。園城寺は八幡太郎義家以来、源氏とゆかりの深い寺であり、頼朝も荘園を寄進したり、鎌倉の寺の僧侶の指導を園城寺の公顕、公胤に依頼していたためです。

当時の天文観測能力

1214年(建保二年)2月15日、戌の刻に月食(月蝕)が起きたと『吾妻鏡』に記録が残っています。70%程度欠けていたそうです。

また同年5月15日には、寅の刻に月が金星の軌道を犯した(侵害した?)ともあります。

さらに8月15日にも月食の記録があります。

天体望遠鏡もない時代にどのような観測をしていたのでしょうか?
また日食や月食をどのように認識していたのでしょうか。

1215年に入ると、金星だけでなく木星の軌道に関する記述もあり、星回りの異常を実朝に報告する事態になっています(1215年12月16日)。

当時どのような観測を行っていたのか、非常に興味深いです

日照り→雨乞い→年貢減らし

日本は日照りが続き、1214年(建保二年)6月3日、栄西を筆頭に雨乞いの祈祷が続けられました。その甲斐あってか15日に雨が降りました。これを鑑み、実朝は自分の領地(幕府の公領)の年貢を2/3に減らし、毎年1ヶ所ずつ順番に宛てがうことを決めます。

これがドラマの劇中のOP明け直後のことかと思われます。

実朝「今年は日照りが続いた。将軍家領だけでも、秋から年貢を去年の1/3にしたい」

『鎌倉殿の13人』第42回「夢のゆくえ」10:50あたり

ドラマではこの事を不満に思った長岡七郎なる人物が訴えを起こしていますが、この施策に反発があったという記述を『吾妻鏡』から見つけることができませんでした。

実義元服

1214年10月3日、義時の六男が御所で元服しました。
理髪役は大内惟義(平賀朝雅の兄/河内源氏義光流)で、烏帽子親の実朝と惟義から一字ずつ拝領し「五郎実義」を名乗ります。

実義は後に諱を「実泰」に改名します。
彼の息子が金沢文庫を創設した北条実時です。つまり実義は金沢流北条氏の祖となります。

実朝の政務実績

1215年(建保三年)4月18日 在京御家人で宮中警護をサボっている者について、働き次第で賞罰を与えることを、源(大江)親広に命じました。
以前も似たようなことがあったと思うのですが、いまだに鎌倉が軽んじられているのではないでしょうか。

同年7月15日、鎌倉での出入り商人の数を決めて商売をさせるように、結城朝光(演:高橋 侃)に命じました。いわゆる組合みたいなものを作らせたのでしょうか。

広元、大江姓へ戻る

ドラマの劇中では大江広元(演:栗原英雄)で統一されていますが、広元はもともと中原姓を名乗っていました。ドラマで出てきた中原親能(演:川島潤哉)とは兄弟だったと言われています。

一説によれば、広元の父は大江惟光で、中原広季に養育されたため、中原姓を名乗っていたようです。

中原の姓を継ぐものは多かれど、しかし大江の姓を継ぐ者が少ない、自分のの家運が衰退していくのを見ていくのは忍びず、大江氏への改姓を決意したとのこと。

広元がこれを実朝に言上したのが1216年(建保四年)4月7日でした。実朝はこの申し出を4月17日に裁決しています。
そして6月11日、天皇は広元が大江姓に戻ることを許しました。

ここに初めて「大江広元」が誕生することになります。

実朝の昇叙と源氏断絶宣言

1216年(建保四年)6月20日、実朝は権中納言に任官しました。
また同年7月22日、さらに左近衛中将を兼任しました。

この2ヶ月後の9月18日、『吾妻鏡』は義時と広元の二人だけのコソコソ話を記載しています。義時は広元を呼んで、話をしました。

「鎌倉殿は、(近衛)大将に任命されることを願っているようです。かつて頼朝様は官位の内定があるたびに辞退されてきました。それは良い運を子孫に残すためでした。それなのに今の鎌倉殿は、まだお若いのに、壮年に達してからの昇進を今からのぞむなんて、気の早いことだと思います。御家人達も、京都朝廷に仕える訳でもないのに、それぞれ勝手に重職の官職をもらっています。まったくもって分不相応。ため息の出ることです。私の浅はかな考えで諫言しても私の真意が伝わるかどうか。できれば貴殿よりそれとなくお伝えいただけないだろうか」

『吾妻鏡』建保四年九月十八日

これに対し、広元は

「私もそのことを思い悩んでおりました。頼朝様の時は、どんなことでも尋ねられて私の意見を聞いてこられました。今はそれもありませんので、一人何も言えない状態でした。今、あなたから相談を受けて、安堵しました。昔からの教えでは、家来は自分の力量に応じた職に就くべきだと謂われますから」

『吾妻鏡』建保四年九月十八日

これを受けた義時は

「今の鎌倉殿は、父親の威光を継いでいるだけで、ご自身が何か手柄を立てたわけではありません。それなのに将軍として諸国を統括するだけでは物足らず、中納言や中将に昇進しています。摂関家の子供でもなければ、一般の人にはこんな昇進はあり得ませんよ。災いを重ねた家は、その報いが子孫に反映することから逃れられません。どうか実朝様に使者を遣わし、この私の意見を言上してください」

『吾妻鏡』建保四年九月十八日

この2日後、広元は実朝の元に行って、義時の申す内容を伝えました。

「子孫の繁栄を望まれるのなら、今の官職を辞退し、征夷大将軍だけの官位を以って武家を統括し、より年を重ねてからに(近衛)大将を兼務するというのは、いかがでしょうか。」

『吾妻鏡』建保四年九月二十日

すると実朝はこう答えたそうです。

「そなたが諫めていることは良くわかる。しかし源氏の血統は私の代で終わってしまうのだ。子孫が継ぐことはできぬ。だから、しかたなく官職に就くことで、源氏の家名を上げておきたいのだ」

『吾妻鏡』建保四年九月二十日

この言葉に広元は黙って御所を出て行ったとあります。

この時、実朝がなぜ自分の血統で終わると断言したのかはよくわかっていません。坂井孝一先生の著書によれば

なんらかの理由で実朝は自分には子供ができない考えていたようである

坂井孝一『承久の乱』(中公新書)P92

とあるので、それが体の欠陥なのか、性的嗜好によるものかは全くわかっていないようです。

船の建造→渡宋計画

念の為に触れますが、実朝が船を作って渡宋計画を立てたのは『吾妻鏡』に記述があります。

陳和卿が鎌倉にやってきたのは、1216年(建保四年)6月8日のことです。6月15日、実朝は陳和卿を召して面会しました。その時に

「私たちは初めて会うわけではございません。前世において実朝様は宋の国、医王山の長老、陳和卿はその門弟でございました」

『鎌倉殿の13人』第42回「夢のゆくえ」10:50あたり

という、周りの凍り付かせるには十分なことを言い出したのです。

さらに陳和卿が言ったことは、1211年(建暦元年)6月3日の丑の刻に見た夢と一致すると言い出したから、さあ大変(苦笑)。

さらに陳和卿は大きな船を作って宋と交易をすることを実朝に提案します。

普通なら「陳和卿はヤベェ奴」となるはずが、夢と一致したと言われると無碍にもできません。

また、坂井孝一先生は著書で当時の「夢」は神仏の教え、未来への予知であると主張されています。

古代・中世の人々にとって、夢は神仏の教え、未来への予知であった。夢の告げ通りのことが起きた時、その夢を見た人は神仏に通じる力を持つ存在と見なされ、畏敬の対象となった。

坂井孝一『承久の乱』(中公新書)P90

これは実朝の鎌倉殿としての威厳を高めるものとなるはずでした。

『吾妻鏡』は、この年の11月23日、実朝は船の建造を陳和卿に命じ、お供の数を60人と決めて結城朝光に人選を任せています。この時、北条義時、大江広元は計画を中止するように諫言していますが、聞き入れられていません。

船は1217年(建保五年)4月17日に完成して、由井浦に浮かべようとしましたが、うまくいきませんでした。奉行は二階堂行光(二階堂行政の子)で、4時間粘りましたが、この浜辺では無理ということで、諦めて帰ったようです。船はそのまま風雪に劣化していくこととなりました。

威厳を高めるはずのものが逆効果になった。
これは実朝でなくても凹みます。

政子の養子縁組後継プログラム

その凹んだ実朝に対し、政子が持ちかけたのが養子縁組後継プログラムでした。朝廷の血筋を持つ方を盛り立てて、源氏の血筋である実朝がそれを後見する。これはこれで理屈は通ります。

しかし、ここで義時は恐ろしいことを言います。

「鎌倉殿は源氏と北条の血を引く者が務めてきました。これからもそうあるべきです」

『鎌倉殿の13人』第42回「夢のゆくえ」37:00あたり

これは完全に義時のエゴです。
おそらく他の御家人がこれを聞いたら

「おいおい、執権殿。何勝手な理屈ほざいてんだよ」

になると思います。源氏の血筋でるあることはともかく、北条の血を引くも引かないも関係ないでしょう。

さらには

「このままではすまさん……」

『鎌倉殿の13人』第42回「夢のゆくえ」38:38あたり

というセリフまで言うようになりました。
もはややってることはヒール(悪役)に他なりません。

さて、この物語、どう終わるんでしょうか?

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