見出し画像

清洲同盟の現実

2022年2月1日、NHK大河ドラマ『どうする家康』第4話「清須でどうする」が放送されました。

まず、最初にこの話で描かれた内容のほとんどが史料にないフィクションの世界です。

松平元康(演:松本 潤)市(演:北川景子)が幼い時に設定があったかなかったか、そして二人の婚儀、瀬名(演:有村架純)氏真(演:溝端淳平)の慰み者になるくだり、血文字の手紙、全部虚構だと思います。

時代考証担当の平山優先生もこのようにおっしゃっておられます。

前回のエントリーでも書きましたが、今年の大河はストーリーを追うのは止めて、役者の演技と歴史事項についてのおさらいに徹したいと思います。

というわけですので、今回のネタは清須同盟についてお話しします。

清洲同盟

清洲同盟とは、尾張国の織田信長(演:岡田准一)と三河国の松平元康の間で結ばれた軍事同盟です。

この同盟は西暦1561年(永禄四年)頃に結ばれ、信長の死後、小牧・長久手の戦いまで、この同盟関係は続いたと私は考えています。

なぜ、この同盟が成立したか

1560年(永禄三年)の桶狭間の戦いは、元康を松平家の本城である岡崎城に戻し、岡崎を本拠とすることで対織田の最前線という役割を果たす大義名分を与えました。

しかし、元康は今川氏の前衛としてではなく、三河国内に自勢力を養って割拠しようと考えました。

1561年(永禄四年)4月、今川方の牛久保城(愛知県豊川市)を攻撃したことで反今川の姿勢を明確にした元康は、その後、今川方の武将である吉良氏を攻撃し、これを臣従させました。

今川義元の後を継いだ今川家当主・今川氏真はこれに怒り、瀬名、竹千代、亀姫の3名以外の松平家の人質を惨殺します。

ここに松平家と今川家は完全に決裂に至ります。

当時の元康はまだ三河一国を支配下に置いたわけではありませんでした。

西三河は織田に実効支配され、宝飯郡(愛知県蒲郡市)あたりから東は上ノ郷城主・鵜殿長照(大高城で元康に助けられた今川家の武将/演:野間口 徹)の支配下にあり、松平家は極めて中途半端な立ち位置に立っていました。

また、尾張の織田信長は、1556年(弘治二年)に舅であり美濃国主であった斎藤道三が息子・義龍に殺害され、その後に信長弟・信行が信長に反抗して内乱が勃発します。これを鎮圧した直後、桶狭間の合戦が起きたため、信長は尾張国内をいまだに固めきれていませんでした。

このため、尾張国の統一ならびに舅・斎藤道三の仇討ちである美濃征伐が目下の課題であり、正直な話、信長に今川を相手にしている余裕はなかったと考えています。

信長は尾張を統一し、西に軍を進めて美濃を支配下に置きたい。
元康は三河統一を果たして戦国大名として自立したい。
それぞれの目的のそのためには、お互いの背後を脅かさない同盟が必要でした。

両者の思惑は見事に合致していたと考えます。

ポイントゲッター水野信元

この同盟を働きかけたのは水野信元(演:寺島 進)と言われます。
信元はもともと松平家と同盟関係にあり、妹(於大の方/演:松嶋菜々子)松平広忠(元康の父)に嫁がせていることからもそれがわかります。

しかし、織田信秀(信長の父/演:藤岡弘、)が三河に侵攻しようとすると、信秀に味方して知多半島一帯に勢力を伸ばしました。この頃、松平広忠は於大の方と離縁していると思われます。

桶狭間の合戦後、信元と元康は、領土が接している関係から何度も戦闘状態になりました。

ところが翌年1561年(永禄四年)、相模の北条氏康から信元に対し送られた書状に「松平の裏切りは嘆かわしいことだ」と書かれており、この時点で信元は元康の自立を把握したのではないかと考えています。

ここから先はあくまでも推測です。
信長の置かれている状況(尾張の国内と国外に敵を抱えている状態)を好転させるためには、尾張国外における敵、すなわち美濃斎藤氏と駿河今川氏のうち、どちらか一方を減らすことだと信元は考えたのではないでしょうか。

元康が今川家と手切になり、独立したのであれば、織田方である信元は、元康と戦う理由がなくなります。しかも信元と元康は伯父、甥の間柄。信長と同盟を結ばせることで、元康を駿河今川氏の盾にすることができ、信長は駿河今川氏の脅威から解放されます。

こう考えた信元は、元康に信長との同盟を持ちかけたのではないかと私は考えました。また信元にとっても織田家中での自分のポジショニングを考えた場合、敵を減らすという「功績」を上げることになります。

信秀の三河侵攻の際は、松平家を裏切って織田に味方して自分の勢力を伸ばし、信長の時代になれば、敵を減らして限られた織田家の軍事リソースを尾張統一と美濃斎藤氏のみに注力させる。

水野信元はなかなかのポイントゲッターだと思いました。

清洲同盟後の動き

清洲同盟が締結された後、信長、元康それぞれの動きを簡単に記します。

元康の動き

1562年(永禄五年)2月、元康は今川家の鵜殿長照が城主を務める上ノ郷城を攻撃してこれを落城させました。城主である長照は討死はしましたが、二人の子、鵜殿氏長、氏次は捕らえられました。

石川数正(演:松重豊)は、この長照の遺児と元康の妻子(築山殿、竹千代、亀姫)との人質交換を氏真と交渉しています。長照の正室は今川義元の妹で、氏真にとって長照の二人の遺児は従兄弟にあたります。これを重く見た氏真は人質交換に応じました。

1563年(永禄六年)元康は諱を「家康」に改めます。もともと元康の「元」は今川義元から下された諱であったため、今川氏との決別を名実ともに示す行動だと思われます。

しかし、これが松平家庶流(十八松平)の中の親今川勢力を刺激することになり、三河国内の平定作業の障害にもなりました。

同年3月、家康の嫡男・竹千代と、信長の娘・五徳の婚儀が決定します。

この後、三河一向一揆を経て、1566年(永禄九年)に三河統一を果たすのです。

信長の動き

1561年(永禄四年)、信長は美濃斎藤氏当主・斎藤義龍が急死した隙をついて美濃に侵攻。森部の戦いに勝利して西美濃を支配します。さらに妹・お市の方を近江浅井氏当主・浅井長政に嫁がせて同盟を結び、斎藤氏への圧力を強めました。

1563年(永禄六年)、信長は美濃斎藤氏への攻撃に本腰を入れるため、小牧山に城を築き、本拠を小牧山城へ移します。

一方で、翌年1564年(永禄七年)、信長の従兄弟で反旗を翻した織田信清の犬山城を攻撃してこれを落城させ、尾張国内の統一に成功しました。

この翌年、京都で将軍・足利義輝が三好三人衆に暗殺される永禄の変が勃発。信長が義輝の弟・義昭を支援することになり、信長の京への道が開けるのです。

清洲同盟の効力低下

1561年(永禄十一年)甲斐武田氏当主・武田信玄(演:阿部 寛)が駿河に侵攻。家康は信玄と同盟を結んで遠江国に侵攻し、遠江を支配します。1570年(元亀元年)信玄が駿河を完全に支配すると、家康の敵は駿河今川氏から甲斐武田氏に変わりました。

しかし、当時の信長は甲斐武田氏とも同盟を結んでおり、非常に調整の難しい局面に入りつつありました。

1571年(元亀二年)、信玄は将軍義昭の要請を受けて、京都への進軍を開始。家康の両国である遠江国に侵攻(西上作戦)三方原の戦いが勃発します。ここに信長も援軍を派遣しているので、信長と信玄の同盟はこの段階で完全に破綻しました。

しかし、信玄が急死したことで西上作戦が中止に追い込まれます。信玄によって追い込まれていた家康は勢力を回復し、1575年(天正三年)、信長と家康は協力して長篠で武田軍に壊滅的打撃を与えます(長篠の合戦)

これ以後、信長の勢力と家康の勢力の差は拡大する一方で、名目的には対等同盟ではありますが、実質的には家康は織田家の与力大名レベルになっていました。

1582年(天正十年)、信長と家康は天目山の戦いで甲斐武田氏を滅亡させますが、この時の戦功として信長が家康に駿河一国を宛てがっています。これが両者の力関係を如実に表しているのではないでしょうか。

しかし織田と徳川の清洲同盟は、信長亡き後も続き、羽柴秀吉と織田信雄が対立した際、家康は信雄を支援しています(小牧長久手の戦い)。

この戦いの後、信雄は秀吉に調略されたため、家康は戦う大義名分を失い、清洲同盟は自然消滅してしまうのです。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?