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人間・宮本 或いは『扉』についての短い試論

 フィクションとは矢張りどうしてもフィクションという性格を拭いされない定めであるから、それがいかに自叙伝であろうと欺かざる記であろうと、人間は結局、虚構しか拵えられないのは、人間の良いところでもあり悪いところでもあるのは誰でも知っていることに他なるまい。
 だが、時として限りなく作者に近接している虚構が存在しているのもまた事実である。例えばそれは、日記であり私小説であり、先述した自叙伝であるのだ。音楽においてもおいても往々にしてそのような作品が存在する。
 残念ながら、それは商業的には失敗する運命にあった。それは我々大衆は、音楽に実はパーソナルなものを求めていはいないからである。しかし一方で、矢鱈にパーソナルなものに救われてしまうことがあるのは、それは音楽を求めているという一方でその人間が作った人間の思想を強く欲しているからに他ならない。それは、ある意味我々が特定の生産者より物を贖いたい、特定の匠の技で築かれた物を享受したい、とそういう感覚に近接しているやもしれない。
 そういう作品を我々は芸術性が高い、そう了解するのだ。

 エレファントカシマシの『扉』は宮本浩次の思想及びその生活が最も率直に色濃く出ている作品である、と結論しても何ら差し支えはあるまい。この作品のある種の異様さ、ある種の変態さは後にも先にもありはしないのである。
 もちろん、エレファントカシマシ(及びその後のソロ活動も含めて)はその歌詞に注目すると非常に内省的且つ私小説的なものが他の音楽家と比較しても著しく強い事(ただし私を歌うフォークシンガーは除く)は私とて十分に了解しているつもりだ。
 そのような中でなぜ殊更『扉』にそれを感じるのか。

 エレファントカシマシで内省的な歌詞がほとんどを占めるアルバムの筆頭は矢張り『生活』である。成程確かに「遁生」、「偶成」、「月の夜」、「晩秋の一夜」はこれ以上ないほどに内省的且つ私を歌ったかに思える。だがこれらの曲には未だポーズがある。自身の余命を数える、老たる身を夢想する、無職の身を嘲る、そのよう"フィクション"を自ら創造してそれを視聴者に提供している。『生活』というアルバムが名盤なのは宮本浩次の「嘘」が巧みであるからに他ならない。言うなればこの作品にはリアリティーを初めから諦めているのだ。その証拠に、もし仮に宮本が真剣に遁世を決め込むのであれば音楽活動なんぞやめて或いは出家しているからである。彼はそれをしない。それはこのアルバムのシングルが「男は行く」である事から何よりも明らかなのだ。

 『扉』には嘘がない。否、嘘が付けるような状態になかった、そういうべきであろうか。とにかく(くどいようだが)彼の生活の実情、その心の内奥が率直に純粋に出ている。非常に無自覚的に。
 宮本はこの時、(ドキュメンタリー『扉の向こう』でも語られているように)財産を管理させていた某かに全財産を持ち逃げされてしまった。残ったのは三千円と愛車とそして万巻の書。それからかつての(ポニーキャニオン期)成功を投げ打って心機一転、新たなマンションにて製作を始めた。『扉』はそのような背景を以て製作されている。
 信頼していた某に全財産を持ち逃げされた余波は当然拭いされる物ではなく、それが如実に作品に顕現していると言わざるをえない。このアルバムが全く宮本そのものである理由はそのような現実が、彼の創作の理想を見事に凌駕しているからである。
 現実を打開できなかった宮本は「男の生涯」と題した歌で男の理想を語ろうとしたにも関わらず結局それができなかった。だからこそ現実に救いを求めて目下敬愛していた鴎外についての詞を「男の生涯」に上書きせざるを得なかったのだ。

 宮本が『生きている証』にて音源では歌われなかった「俺は今日も負けた/戦わずして」という歌詞がドキュメントには写っている。使われなかっただけに、色々勘繰ってしまう物がないと言えば嘘になる。

 宮本は「全部使い尽くさない方がいいんですよ」と後年述べている。「全部使い尽くせ/おのれの全部使い果たせ」(『パワー・イン・ザ・ワールド』)、「体の全て使い尽くして死にたい」(『地元の朝』)という歌詞をひねり出した当時の自分を、錯乱の中のリアリティを訂正するという意味においてまさしく宮本は今なお成長している。まさに「許せかつての俺よ/俺は今を生きていくぜ」(『yes. i. do』)という事なのだろう。

(了)

2023/06/10 一部修正


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