短編小説「頽れし花々」

不眠は改善の余地が見られない。浅い夢では悪夢を見るから、俺は。正直な所眠りたくはない。精神病がだいぶ進行した患者は夜が来るのを極度に恐れるそうだ。錯乱した精神が見せる悪夢。果たしてどんなものか。未だ、辛うじて発狂してはいない俺も、それの情景を想像するだけで不安の気持ちに駆られる。携帯に手を伸ばし、時刻は四時をわずかに過ぎた頃。この場合、それを朝と言おうが夜と言おうがいづれも適切ではないだろう。未だ太陽が見えぬと言う意味に於いては「夜」ではあるが、東側の空が白々としており太陽が〝じきに〟昇るという意味に於いて「朝」である。

 俺は隣の女に憚りなく布団から抜け出でた。寝返りを打つその姿に気象の予感がし僅かに心中落胆したが幸いにもその予感は予感に他ならず再び深い眠りに入っていった。兎に角、下着だけでも着よう、とベッドに散乱した俺と女の下着の中からシャツはすぐ見つかったが、丸まった俺のパンツの発見に手こずった、がそれもじきに見つけた。俺はベランダに出てタバコを吸う。

―――タバコ吸わないでよ。

 冷静に諭す女の声が耳奥で再生された。俺がこの女に初めて腹立った日。この部屋でタバコを吸おうとした時の事だ。勿論、女の家に勝手に寄生して手前勝手に振る舞うのは悪いとは我ながらわかっている。だが、何か女の語気には俺に対して禁煙以外のメッセージが含まれている気がしてならなかった。それは、思い込みに違いないのであるがそう思った。

 タバコに火を点ける。ショートピースを常用しているが昨日切らした。近くのコンビニにはロングしかないが仕方がないのでそれを女の買い物かごに紛れ込ませて買わせた。

―――ねぇ、また。

 女は会計時に俺の顔を見て静かに言った。シャイだから他人(店員)の前で大きな声を出せないのは知っている。

―――いいじゃない、一箱ぐらい。

 俺がそう言うと女は問答しても意味がない事も又心得ているので渋々エコバックの中にそれを入れた。

―――吸うなら、ベランダにしてよね。

 三本程吸う頃には闇に沈む街が霞立ちこむそれに変貌していった。まるで夜の怪しさが徐々に解けるようだ。ゆくりなく吹く風が花々の匂いを運んで来、もう長いこと忘れていた一文が意識の閾から現れた。


春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山際、少し明かりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる。


 中学校の頃、まだ辛うじて真面目に投稿していた折、国語の時間に覚えさせられた『枕草子』。別段、苦痛ではなかった。どちらかというとスラスラ口に出すことの出来るそれは幼心ながら銘文と思えた程だった。次いでまたかつての音が口から漏れた。


 月日は百代の過客にして、行きふ年も又旅人也。舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらえへて老をむかふるものは、日々旅にして旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり。予もいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂白のおもひやまず、海浜にさすらへて、去年の秋江上の破屋に蜘蛛の古巣をはらひて、やゝ年も暮、春立る霞の空に、白川の関こえむと、そぞろがみの物につきてこゝろをくるはせ、道祖神のまねきにあひて、取もの手につかず。云々


それ以来、旅に出たかった。たどり着いた先はどこでも無い、ここだった。

下高井戸の駅からは十分程のアパート。やや高いので眺望もそれなり。石神井公園の樹林なぞ見えるから一週間ほど前は桜が綺麗に咲いていた。まもなく散ったが。矢張り、このほどの高さから見ると「月のいるべき峰もなし」と古人が歌ったような武蔵野台地が実景として映る。俺も、往昔の歌人の様に何の憚りもなく、ただポツリポツリと自分の呟きを風に乗せて生きていたい。消えゆくことが俺の、本に願望なのだろう。

 四本目のタバコが終わる頃、女が目覚めた。内心、気落ちした。女が悪いわけではない、朝は、俺は一人でいたい。白々とする空だけが俺に優しさを投げてくれている。

―――おはよ、またタバコ?

 と、女。憤りを覚える。毎朝のルーティン。良い加減訪ねるな、慣れろ。俺の生活の様式だから。だが、言葉を飲み込んだ。

 終わったよ、と俺は言い女が誕生日に買った不恰好な灰皿の上にそれを落とす。手を広げてやると女は俺の胸元に飛び込んでくる。俺は女を抱き上げ、そのままベッドに押し倒し朝の目合いを始める。


―――ブサイクだから。

 と女は俺の腹上で動いている時に言った。初めて体を交わした夜の事である。そのセリフを吐いたのはこの女が初めてではなかった。今まで三人が同様のセリフを吐き、そしてエクスタシーを感じて俺の方へと倒れ込んだ。その時もだった。抱きしめて洗い呼吸を左耳に感じ、右耳に囁く。可愛いよ、と言いながら尚も動きを止めない。女の喘ぎが徐々に大きく成り行き、やがて俺もその中で果てる。互いの荒い息だけが限りない果てを持つかの様に思える暗闇の中に響いた。長い髪を撫で続けている内に、女は寝息を立てて眠ってしまった。萎えたペニスがだらしなく膣から抜け出し下半身には気だるい疲労感だけが残っていた。


 セックスの後、少々寝転んで考え事。大した事ではない。いつか君は女の人に殺されるよ、などと違う女に言われたのを思い出す。あれはいつだったか。中学生の時であったかもしれない。その女の言葉によって俺の運命は決まってしまったのかも知れない。その女は今、どこにいるのだろうか。果たしてこの世に止まっているのか。あるいはそうだろう。だが、それを確証するものは皆無である。

女の肉体を、懐かしむことが度々ある。人間の外部より内部の方が不思議な構造をしているに違いない。どの様な女を抱くにしてもその行為は「セックス」と命名されそれ以上でも以下でもないのに変わりはないが、その内実というのか本質というのかはまるで違う。よく女なんぞヤレれば良い、と吐く男がいる。或いは事実なのかも知れない。だが、それは結局のところ「セックス」という名のオナニーをしているだけに過ぎないのではあるまいか。様々な女がいて様々な内部があることを知った時、肉体的につながるだけが如何に虚しいか、彼らは知らぬのではあるまいか。

俺は再びベランダに出でタバコを吸う。背後では女が支度をする気配。

―――じゃあ、私行ってくるから。お夕飯要らないなら連絡してね。

 んー、とだけ返事をし、マンションの鉄の重い扉が閉まる音が響いた。ベランダの下をすぎる女。立ち止まりこちらを見上げ手を振る。振り返す。少し進み再び同じ事。路地を曲り姿は見えなくなった。丁度、一本吸い終わり灰皿へ。誰も居なくなった室内に戻り、読み止しの本を開き文字を追う。


 旅の世にまた旅寝して草枕夢のなかにも夢を見るかな


 千載和歌集の慈圓の歌である。それは非道く俺の目を捉えて止まなかった。まず四度程、文字を目で追う。次いで三度程口に出してみる。

―――旅の世にまた旅寝して草枕、か。

 そして本を閉じ寝転がる。昼時近い日の光はフローリングに反射し白い天井を明るく照らしていた。

―――夢の中にも夢を見る、か。

 儚い浮草のごとき日々の中生きている、俺は一体何者なのだろうか。天井に手を伸ばし、視界に腕と拳が写っている。淡い微睡だけが身に重たくのしかかっていた。寿命というものは、或いはこの様なものなのかも知れないな。微睡に支配され瞳を閉じ、俺が俺ではなくなる。たとえば事故死はどうなのか。一瞬にして生が剥奪されるその現象において微睡瞬間は、あの緩やかな快感は与えられるのだろうか。

 この世は旅。女たちは、どうにでもなる風景に過ぎないのか。俺にとって。

 

 そのまま眠ってしまったらしい。時計は真昼より前である。四月も中旬になると、暑いほどの日も増えてくる。額に汗こそ滲まないが、窓から指す陽の温気は決して心地よいものとは言えず、体内から体を侵して来るものだ。意識の微睡もようやく減退し俺は飛び起きる。窓辺に置かれた植物の鉢に水をくれる。何か知らないが。女が嬉々として買ってきた。それ育てるの、俺が、というと満面の笑みで頷いた。その可愛さに抗えず興味もないが毎日、できる限り毎日欠かさず水をやっている。

 やるべき仕事も終え、後は日が暮れるのを待つ身となった。ベランダに出、タバコを吸う。簡易の椅子に腰掛ければ、意識は自ずと外界へと広がり、先ほどには聞こえていなかった電車の音、遠くの街道を走る車の音が俺の内に染み込んでくる。

 

 一日の長さを思えば、却って一日が短く思える。

 苦痛の最中にいればそれは出来ない。ただ静寂に身を任せて、風の音なぞを聞くと、見えぬものの中に一日という時が立ち現れて来る。時は変わらず。千年も万年も前から、人の一日は太陽と月に付随し終え、そして始まる。

 平日の昼過ぎの電車が昔から好きだった。乗客もまばらで、それぞれ敵対心を抱くべくもなく皆各々それぞれの無為と束の間の戯れをしている。無為が虚無に流れ込むとふと、死を感じる。元来、生くべき心地のしない俺は、なぜ永らえているのか。これもまた時があるから問うのである。この世は旅と、旅の世と思えども、ならばなぜ辛きを感じるべきか。

 忘れられない囁きがあった。

――それでも、人生は生きるに値する。辛い事も耐え抜くに値するものだと、私はそうやって信じてる。

 その女は、関根透子といった。行きずりの女であったからその仔細に関しては一切知るところでは無い。仮に人間が言葉に依って、それに基づいて生きる動物であるとしたら彼女のその言葉は肉体以上に実態として、過去以上の現在としてその言葉を思い出す旅に近くにいる。その身に、何が起こればその様な強い言葉を吐く事ができるのだろうか。六年も前。いまだに鮮やかな名残惜しさを覚えている。

 

 慈円が生まれたのは平安末期で入寂したのは鎌倉初期。西暦で表せば一一五五〜一二二五年である。武士が台頭してきた彼が人生は、それに呼応するが如く波乱の一生であった。天台宗の僧侶として生涯四度天台座主に上り詰め、波乱の現代を道理で観じる歴史書『愚管抄』をものにした。詠歌も甚だしく速詠と評され、「新古今和歌集」には西行の九四首に次ぐ九二首が収められている。彼が歌は先に出会った「旅の世」の如き寂しさを纏ったものも多い。


  思ふことなどとふ人のなかるらんあふげば空に月ぞさやけき

  いる月よかくれなはてそ世の中をいとふ心はありあけの月

  世の中をすてはてぬこそかなしけれ思しれるも思しらぬも

  思ふべし夢かうつゝかいかにしていかにふけぬるわがよなるらむ


 この様に。


 しかし、後鳥羽上皇が並び称すべきものとした西行と慈円の間には、かなりの開きがあるように思われる。例えば『新古今和歌集』から、

   思ふ事などとふ人のなかるらんあふげば空に月ぞさやけき    (巻十八)

   何ゆゑに此のよをふかく厭ふぞと人のとへかしやすくこたへん  (巻十八)

という慈円の歌と、西行の

   さびしさにたへたる人の又もあれな庵ならべん冬の山ざと    (巻六)

よを厭ふなをだにもさは留めおきて数ならぬ身の思ひいでにせん (巻十八)

という歌をとりあげてくらべてみればどうであろうか。西行は孤独に徹して、世を捨てはてようとすることの緊張そのものに詩的形象を与えた。世を捨てはてようとするところに、清冽な自然も浮かび上がってきたのである。それに対して慈円は西行のような孤独に徹することはできなかった。慈円には自分の心を問うてくれる人を求める歌が非常に多い。『愚管抄』の中でも、思いのたけを語りあうに足る相手のいないことを嘆く独白は、諸所に見出されるのであるが、慈円の孤独は、西行の様に「心なき身」となることを目指す孤独なのではなく、つねに問われることを待つ「心ある人」の孤独だったのである。

大隈和雄『愚管抄を読む: 中世日本の歴史観』頁八五―八六


 俺が図書館で手に取った本には慈円とそして彼が憧れた西行を比してかくの如く書かれているのが目に留まった。彼が西行の様に出家遁世できなかった事、問われるのを待ち続けたのは俺の心情と重なる。かつて、旅に出てこの世から遊離するはずであったのに、皆俺を留めさせる。そしてそれは、結局のところ己が心がそうしているに過ぎないのではあるが、それに打ち勝てぬのが憎い。死ぬべき定めにあるにはあるがどの道を行けば寂寞の中を歩めるのだろうか。

 図書館から出る頃、夕日は武蔵野の家屋の向こうへ姿を隠しつつあった。紅の閃光は万物を哀れんでなど居はしなかった。

 ただ募るのは悲しみだけ。誘われる様に、武蔵野の木々の籠る公園に辿り着く。


 院々の鐘の聲は心の底にこたふ。むかしよりこの山に入て世を忘たる人の、おほくは詩にのがれ、歌にかくる。いでや唐土の廬山といはむもまたむべならずや。


 どこやらから響く晩鐘は芭蕉の『野ざらし紀行』の一節を喚起させた。

 「山林に自由存す」、俺にあるのは不自由か。

 ただ、悲しいだけ。どうにでもなる風景の中で、どうにでもなる悲しみがあるだけだった。


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