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舞姫、エリスを求めて

 森鴎外(本名・森林太郎)というのは言わずと知れた日本を代表する大文豪である。『舞姫』は鴎外の作品で最も知名度がある作品と言って良いだろう。
 この作品の優れた点は浪漫的で優れた文学表現というだけではなく書かれた時期も非常に早いという点である。鴎外はこの物語を明治二十二年から書き始め翌年、明治二十三年の一月三日に発表した。二十一世紀今日の日本で物語る手段としての「小説」は明治時代に生まれたと言われている。二葉亭四迷の『浮雲』と森鴎外の『舞姫』が所謂「小説」の出発点とされているのだ。それ故、内容だけでなく歴史的価値観という点から見ても非常に優れているのである。
 『舞姫』というのは鴎外初のオリジナル作品であり自身の経験が全編に渡って色濃く反映されている。あらすじは次の通りである。

 「時は十九世紀の末。秀才・太田豊太郎は上官に留学を命じられた。そして留学先のドイツ・ベルリンで貧しい踊り子エリスに出会い恋に落ちる。その事が周囲に知られ今まで培って来た信頼と功績を失ってしまう。一時は立身出世を諦めた豊太郎を友人・相沢謙吉が大臣を連れ来訪する。相沢の計らいにより国家の信頼を取り戻した豊太郎はエリスとエリスとの間の子供を捨て日本に帰国する。」

 この作品を読んだ殆どの読者が豊太郎の行動を非難する。
 先述した通りこの作品は鴎外自身が経験した事が作品内に色濃く反映している。いわば豊太郎と鴎外は殆ど同一人物であると言っても良い。
 明治十七年六月、陸軍軍医であった鴎外は海外の帝国衛生制度を調べるべくドイツ帝国へと旅立った。明治二十一年、ドイツを発つわけであるがその道中で上司の石黒直悳にドイツ人女性の事を語る。同年九月十二日ドイツからエリーゼ・ヴィーゲルトと云う女性が単身森鴎外を訪ねるべくやって来る。その際、女性は築地精養軒ホテルに滞在。一ヶ月後の十月十七日エリーゼが帰国。その際鴎外等は横浜に一泊し出国を見送った。
 ドイツ人女性エリーゼ・ヴィーゲルトは周囲からエリスと呼ばれていた。鴎外は彼女のことを周囲に多くは語らなかったが少なくとも『舞姫』の中ではエリスは主人公の恋人であった。
 『舞姫』は鴎外の処女作といっても良いだろう。その本文の中では度々鴎外の当時の心境などが読み取れる。
『所動的、器械的人物になりて自ら悟らざりしが、』
 つまり、自分がいかに自らの意見を持たず器械的な生活を送ってきたのか、と嘆いている。鴎外も豊太郎も幼少の頃から親や周囲の言いつけを敬虔に守り期待に答えてきた。しかしそれは自ら意図するものではなく対外的な影響により自らを持たないで今まで生きてきたと云うことに気づきこの一文を書いたのだろう。そして『舞姫』を発表することにより自らが独り立ちする事を周りに宣言しようとしたのだろう。
 鴎外は実にプライドの高い男である。若年の頃から勉強づけの日々を送り現東京大学医学に十二歳で合格する。若かりし頃はその博識さ故に何人たりとも近付かせず何か鴎外に対して不平や不満を言う者には年輩者であろうと若輩者であろうと容赦なく論争を吹っ掛け論破した。そして自らの名を興すべく海軍中将兼議定官男爵・赤松則良の長女、登志子と政略結婚をする。しかしわずか二年で破局離婚をする。
 その後様々な名作を世に送り出すわけであるが鴎外のようにプライド高き者がなぜに『舞姫』で豊太郎の正当性を殊更に強調しなかったのであろうか。鴎外の力量ならばそんな事造作もないはずであるのに豊太郎を読者の批判の対象にした。私はそこにこそ大きな意味があると考えた。
 私が思うに鴎外はエリスを愛していたのだろう。エリスが鴎外に送った刺繍用のRMのモノグラムをいつまでも大切に保管していたと言う。鴎外とエリスは本気で結婚しようとしていたのだろう。然し時代は江戸幕府が倒幕してまだ二十年余りしか経っていない封建国家である。国際結婚などアブノーマルである。森鴎外というエリートが異人と結婚することは許されず結局諦めざるを得なくなってしまう。遠路はるばる鴎外を信じてやってきたエリスも結局何もできずに祖国ドイツに帰ってしまう。鴎外はドイツで恋をしてしまった結果訪れた悲劇を小説にしてその主人公を批判の対象とすることでエリスへの愛を告白し自らの罪を告白せしめんとしたのではないだろうか。読者の批判にさらされることにより贖罪をする。その為にこの作品をわずか1ヶ月で書き上げたのではないだろうか。 
 彼の作品で明治四十三年書かれた『普請中』という短編小説がある。渡辺参事官と云う主人公が築地の精養軒ホテルで、ある女性と久方ぶりに再開すると云う話である。その女性は名前こそ出てこないが来日したドイツ人である。ここにもエリスの面影を垣間見る事ができる。
 そして主人公、渡辺参事官は作中でこう言っている。
 「それが好い。ロシアの次はアメリカが好かろう。日本はまだそんなに進んでいないからな。日本はまだ普請中だ」
 普請中、つまり建築している真最中であると云うのだ。もう少し日本が進んでいればエリスと生涯を共に出来たのかもしれない、そんな儚い鴎外の思いがこの短編を通じて感ずる事ができる。
 鴎外は長く冷酷な天才と評され世間から疎まれると云う面があった。名誉を追い求め小説家としても軍医としても若くして頂点を極めた彼だが挫折や痛み友人の死や時代の変化を通して人間・森林太郎として成長していった。    
 『余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス』
 これは鴎外の遺言である。最後はこれまで執拗に追い求めたどり着くことのできた地位と名誉を捨てて一人の男として死んでいった。
 森林太郎、享年六十歳。彼は晩年『山椒大夫』や『渋江抽斎』等に見られる絆をテーマにした作品やドイツの大文豪であるゲーテ『ファウスト』の翻訳を世に送り出した。ドイツへの愛そして人を、エリスを思う気持ちは死するその時まで彼のそばにあったのだろう。
                  
参考文献 
岩浪文庫   舞姫 うたかたの記
岩波文庫   渋江抽斎
ちくま文庫  現代語訳 舞姫
新潮文庫   山椒大夫 高瀬舟
                             


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