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冬の一日の散歩

 或る、冬の一日。私は恒例になりつつある長距離散歩をする為に出かけようそう思い立ったのである。
 眠りから覚める時には二種類の感覚がある。まず一つ目は朝を恨むことがある。自らが起床せざるを得なくなる事実について一生眠りの世界に入って居たく思いそれ故朝を恨む。もう一つは朝を喜ぶという事である。何かが起きそうな1日には我が身を覚醒してくれた朝というものが大変に有難く感じる。こんにちは後者であった。
 バッグの中に本やらカメラやらを詰め込んでポケットには地図を入れた。東京方眼図である。私はこの頃この明治時代に作成された地図をお供に散歩に出かける事が多いのである。

 いつにも増して肌寒い街が冬の訪れを告げている。私は通い慣れた路地を足早に駅の方へと向かう。私の頭上に永遠と続く海原に似た大空は雲一つ浮かんでは居ない。その為今日は雲が出ている日よりもあらゆるものが澄み渡って見える事であろう。向こうに見える山々はもう冬だというのにまだ紅葉している。そして葉が落ちるのにはまだ時間がかかりそうである。
 今日の我が視界は非常に良好である。眼鏡を新調したばかりである為遠くの細かな景色も良く見えるのである。
 電車に乗り込むと今日も変わらず人がいる。私は一番端の席へと座り電車が発車するまで外の景色を見ている。かなり高い位置に線路敷いてある為生まれ育った変わらない街の全貌を拝むことができる。山間の町ではあるがこの様に眺望すると変わらぬ街に安心感を覚える。如何にしてもこの街に帰ってきてしまう理由が分かる。
 電車は発車した。私はバッグの中から本を一冊出した。ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)によって記された『日本の面影』である。江戸が終わって間もない頃の日本を異人たるラフカディオ・ハーンが見た景色や伝統、風俗を卓越した文章で書いている。私は昔の取分け日本の文化が真の意味で楽しまれて居た時代を好んでいる。しかしタイムマシーンがない限りその時代に戻って経験することは不可能である為少しでも知ろうとこういった類の書物を懸命に読んでいるわけである。日本の真の姿や伝統を紐解いてこそ日本人である真の我が姿が見つかると思っているからである。
 電車は都心に向かうにつれて混雑してきた。私は読書に集中しながらも目の前で起こっている押し合いへし合いを確認してどうして日本には余裕というものが殆ど存在しないのであろうかと考えた。しかしその考えは文字を追って行くと共に中断してしまった。
 荻窪を過ぎたところで本から目を挙げ外界の様子を確認した。先ほどまでは雲一つ浮かんでいなかったのに今確認したところ空が真っ白く分厚い雲で覆いかぶされていた。変わり易くは女心と冬の空、であろうか。ビル群は高台から見た町の灯火の様にかすみ揺れて居た。しかし太陽はかすかにその存在を主張している。若しかしたらもう一度晴れになるかもしれない。そんな期待を持ちながら読書を再開させた。
 電車は新宿駅に着いた。私は急いで立ち上がり降車した。その際に幾人かと肩がぶつかった。新宿駅は世界で一番の利用率を誇るとどこかで読んだことがある。果たしてそれれは誇れることなのであろうか。確かに鉄道会社からしたら儲けが潤沢に出るから喜ばしいことであるが毎日利用している利用者からしたら全く誇らしくはないだろう。私はそんな不満を抱きながら駅の南口の改札を出た。空はまだ曇り模様である。私は邪魔にならない様に片隅に移動し持っている東京方眼図を広げた。今は私がどこにいるのか分からない。流石に明治二十四年と令和元年とでは地形が違っている事が必然である。私はとにかく歩みを新宿御苑の方へと進めることにした。


 車は往来は止む事がない。故に酷い騒音である。私はその騒音と共に歩んだ。ふと立ち止まると太陽が顔を出し始めた。そして先ほどまであった分厚い雲が気がつくとどこかに消えて居た。幸運である。私は少し微笑んだ。横断歩道の際立ち止まり後ろを振り返ってみた。ビル群と青い空である。遠くには双頭の建物が存在している。あれは都庁であろう。私はそれを確認すると横断歩道が青に変わっていることに気づき歩みを進めた。目の前には霞んだドコモタワーがそびえ立っている。私は頑是ない幼子の頃あれは国会議事堂であると信じて疑わなかった。
 私は新宿御苑と六義園を自らの庭の様に思っている。故に今日も御苑に入る堂々たる日本庭園を拝もうかと思ったが少しでも遠くに行きたく思い今日は御苑に入らずにそのまま御苑を右手にした進んだ。


 新宿にしては狭い路地を進む。少しほの暗い。右手に洋服屋や飲食店がある。私は少し先の歩道の上に何やら謎の物体が置いてある子に気づいた。私はそれを初めは芥かと思い近ず居た。それは鳩であった。鳩が死んでいるのである。恐らく自由に空を待って居た時に目の前に有ったビルに気づかずそのまま突っ込んでしまったのであろう。空を飛ぶというものも気をつけなくてはいけない。私はそう思い鳩が無事に成仏できることを祈った。
 四谷の交差点の前には玉川上水水番跡なるものが存在している。私はその前に立ち止まり立て札看板を読んだ。
 『此上水道に置いて魚を取水をあそびちり芥捨べからず』云々。
 私はそれを一読し。成る程、不届なる者はいつの時代にも変わらずに存在しているのか、と思い人間の愚かさを一笑した。
 新宿通りの交差点である。私はもう一度東京方眼図を広げ現在位置を見つけるべく努めた。すると御苑は当然のことながら記載されている。ならば新宿通りの交差点は更にその先である。私はその様な考えで探して行った。発見したのである。明治時代も新宿通りの交差点は変わらず存在して居た。私はその場所を指で押さえながら歩み始めた。
 私は歩み続けた。時に横道を覗いたりなんぞしてただ歩んだ。すると四谷駅に着いた。四谷駅の周辺というのは突然開ける。遠くまで見晴らせる様になる。私は立ち止まりあたりを見回した。するとビルに大きな広告がぶら下がって居た。
 『フランシスコ教皇ようこそ!日本へ。』
 広告にはその文字とフランシスコ教皇の写真が貼られて居た。成る程、そう云えば今来日されているので有った。今日の私は基督教徒ではない為御仁の偉大さというものをただ周りの丁重なる扱いでしか知り得る事ができないが兎に角、ようこそ日本へである。

 私は鉄道の上に掛けられて橋を渡りそこからの眺望を楽しんだ。ここの線路は堀の水を埋め立てて作ったのであるなと気づき何とももの悲しく感じた。遥かには高いビルを望む事ができる。あれは恐らく青山パークタワーである。


 上智大学を横切ると並木通りである。まだ秋の残り香を感ぜられる綺麗な通りである。
 麹町に入った。この名の由縁は諸説ある。小路が多い、麹を作る家があった等々である。私はそこで空腹感を覚えた。それもそのはずである。もう昼時だ。私は何を食べようかと思案したが結局近くにあったカレー屋に入ることにした。店員は中国人であった。達者な日本語を駆使し私を置くの座席へと案内した。私は普通のカレーを頼んだ。待っている間、店内にいた様々な人間を観察した。サラリーマンが多い様である。その内にカレーが運ばれてきた。私は期待せずそれを食べたがかなりしっかりとしていた。食べ終わると人がたくさん待っていた為店を後にした。その時私は漠然とこんなことを思ったのである。
 店員というのは決まって「有難うございました」という。それは形式的に言う訳である。仕方がないことではあるが忙しき時間に一々誠意を込めて言うことは不可能である。しかしならば一々言う必要もない気もする。「有難う」と言うのは文字通りその現象が発生する事が極めて稀である時に感謝の為に用いる言葉である。言葉というのは大切にしなくてはならない、と私は思う。誠意のない「有難う」は些か失礼にあたるのではないだろうか。そういう形式的に行われてしまっている事柄が日本には非常に多い。伝統や言語も多くは形式的に成り果ててしまっている。私はそれを甚だしく悲しく思う。


 麹町の横丁を眺めると東京というのは起伏が多く坂道が多いことに気づかされる。歩いているだけではわからないがふと立ち止まり見てみるとかなりの急勾配に驚く事が度々にある。私は今日もそんな事を思った。東京の坂道というものは意外なところに恩恵を与えている。いつの間にか日本の文化の一つになったアイドルである。乃木坂は乃木希典陸軍大将が明治天皇崩御により殉死された際に幽霊坂から改められた名前である。場所は乃木坂駅ほど近くの坂である。欅坂は六本木ヒルズ、森タワーに隣接する坂である。森タワーにはけやき坂口なる駐車場が存在している。残りる日向坂というのは中々トリッキーな命名である。私はこの日向坂を長くひゅうがざかと呼んでいた。港区にある日向坂というのはひゅうがざかと読む為である。何故にこの坂道アイドルだけ読み方を本来と違う読みにさせたのかは謎である。
 半蔵門駅を過ぎ目の前には皇居である。皇居の堀の向こうには官庁街である。伝統的なる場所から見る新たなるビル群という対比はなんとも非現実的なものであるといつも思う。
 私は官庁街の方へと歩みを進めた。時々堀の水を除くと私の影が映っていることに気づく。私はそれを実に綺麗な自然現象として認めている。歩んでいると一つ木が伐採されれていることに気づいた。その残された木の幹に張り紙があった。次の様に書いてある。
 『景観を損ねてご迷惑をおかけ致しております』云々。
 私はそれを呼んで何を今更と呆れてしまった。
 桜田門の方へと歩くと柳がたなびいていた。私は柳が好きである。かの有名な皇帝ナポレオン・ボナパルトも柳の下に埋葬されている。そして江戸の文筆家である上田秋成の作品『雨月物語』の『菊花の約』にも柳の記載がある。
 柳と堀と桜田門、そして日比谷の街並み。なんともカオスな景観である。

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 桜田門を過ぎ皇居外苑を行くと何やら人だかりができていた。私は何事かと思いその人だかりの元に急いだ。すると今日は大嘗宮の一般公開が行われているということを知った。折角で此処に来たのであるから少し見学しようと思い立ち人の列に並んだ。矢張りかなり厳重なる警戒を施している。荷物チェックの際、持っているカメラで一枚写真を取らされた。カメラが爆弾という可能性を考えているという訳である。私は持っていなかったが水を持っている人間は警備員の前で一口飲まなくてはいけない様である。液体が爆弾になるというかのせいも考慮した上であろう。厳重なる荷物チェックが終わり私は坂下門から皇居内に入った。両陛下の住まわれる宮殿や宮内庁をも見ることが出来るという非常に貴重なる体験である。私は宮内庁を見て岡本喜八監督の『日本のいちばん長い日』を思い出した。日本の降伏を決定した御前会議から玉音放送が放送される正午までを描いた映画である。私は原爆を落としたアメリカと敗戦を中々受け入れなかった日本とその混沌とした時代を非常に強く恨んでいる訳である。
 私はそんな事を考えながら宮内庁を見ていた。すると観光者の老夫婦と宮内庁職員が小さな声で話している事柄を偶然耳にしてしまった。老父婦と職員はどうやら長年の知り合いである。職員によれば大嘗祭宮殿はあらゆる方向からの圧力により早めの撤去を余儀なくされた様であった。あらゆる圧力とはどこからなのか具体的に知りたく思いながらもその場を後にした。
 富士見櫓が石垣の上にそびえ立っていた。かつて此処は江戸城であった事をその時思い出した。富士見と呼ぶほどであるから富士が見えるのであろうか。私は是非とも見てみたいと思ったが当然の如くそこの見学は許可されていないのであった。
 かなりの急な坂を登っていくと大きな広場に出た。そこに大嘗宮が佇んでいた。観光客はお宮の写真を撮ろうと必死である。私も静かに近くより写真を幾枚か撮影した。非常に立派なお宮であるが私はそれぞれどんな意味を成しているのかは知識不足であり分からない。然し、素人たる私の目から見ても立派であるという事には変わりない。
 私は大嘗宮を後にした時頭にある言葉が過った。
 『などてすめらぎはひとになりたまひし』
 三島由紀夫による『英霊の聲』の一節である。何故に天皇は人間になったのか、という意味である。日本人とはなんたるものかを考える上で天皇の存在というものは切っても切れない関係にある。昭和天皇の人間宣言以前と以後では日本人というものが大きく変化していると私は思う。現人神か人間か。この違いというのは大きな差がある。日本の伝統文化としての象徴が現人神であった頃の天皇。そして日本人という人間の象徴が現在の天皇である。それらは似て非なる意味である。日本の神という歴史観から天皇が解放される事によりそれまでの島国国家ではなく国際国家になり行く事を意味するのではないだだろうか。兎にも角にも私が天皇論を語るには持っている知識が些か微量すぎる。私は自分の知識不足を嘆きながら北桔橋門を通って皇居を後にした。
 竹橋を渡り左へ曲がった。清水濠が西日を反射している。そして私の頭上には高速道路が屋根として何時迄も続いている。少し歩くと濠の向こうに改修工事中の日本武道館の青い屋根が見える。
 九段下駅に到着し私は再度東京方眼図を広げこの次にどこへ向かおうか考えた。礫川公園も良いのであるが此処は矢張り私の愛する上野の山の程近く、不忍池へと向かおうそう思った。折角であるから神保町に寄って古本や浮世絵を見て行こう。そうして私の足取りは神保町の方へと向かっていった。
 様々な古本屋と浮世絵屋を巡っては見たものの些か持ち合わせが少なく何を買うにも渋ってしまい遂には何も買えずに千代田通りと靖国通りが交差する三省堂書店前まで来てしまった。太陽はもうそろそろ沈む時間である。その時近くの少年が空を見上げ何かがおかしい、と言った。私も空を仰ぎ見たが羊雲が流れているだけであった。然し子供の目というものは大人とは比べ物にならない程異常を察知する事に長けている。何かがおかしいと少年が言うならば何かがおかしいのであろう。私は細心の注意を払って御茶ノ水駅の方へと歩む事にした。


 明治大学の前を通る夕刻時であるから帰宅する学生が非常に多く細い道は少し混み合っていた。御茶ノ水駅というのは神田駿河台にあるため少し標高が高くなっている。私は自らが歩んだ坂を振り返りその眺望を確認した。一通り満足すると茗渓通りを進んだ。
 本郷通りに出た。私は左に曲がり聖橋を渡り中程で立ち止まった。ビル群の向こうに東京スカイツリーが見えたのである。写真を一枚撮る。そして此処は東京復活大聖堂通称のニコライ堂の近くである事を思い出しその建物の方に顔を受けた。ビルに隠れて全貌は拝めなかったが丸い緑色の屋根が見えた。私はそうして聖橋を渡った。
 東京医科歯科大学を横切り交差点を渡ると右手に宮本公園が見えてくる。その交差点を渡ると清水坂と呼ばれる坂道が現れる。私はそこの坂を登り頂上まで来た。するとそこからの眺望は実に綺麗であった。長い坂道がそして道がどこまでも続いているのである。
 今度は三組坂を歩こうとした時、何やら人の声で大変に騒がしくなった。私はその騒ぎの方に目をやった。小学生が何人かではしゃいでいたのである。彼等彼女等は毎日この辺りで眠り起床し生活をしているだろう。私には上野の山が近いこの辺りに住んだイルことが大変に羨ましく感じるのである。彼等彼女等は私の嫉妬には気づかず過ぎ去ってしまった。人間というものは貴重なる毎日を当たり前として過ごしている。然しそれを当然を望むものがいるという事を忘れてはならない、そう思ったのである。
 建物の工事をしていた。突然建物から大きな音がするものだから私は一瞬飛び上がりそうになる程驚いた。振り返ってみるに矢張り只の工事のようで安堵した。作業員は通行人に危険が及ばないように丁重に誘導してくれた。無言なる誘導であったが昼の形式的なる「有難う」以上に誠意いと敬意を感じた。
 その道の突き当たりには神社が存在している。有名な湯島天神である。私は宵に近い湯島天神へと入って行き小銭を入れ丁重に参拝した事を告げた。
 私は心城院のある方の鳥居を抜けた。非常に急な階段である。私は転ぶことのないようにゆっくりと降りた。


 狭い路地である。然し様々な種の店がひしめき合って賑わいがある。そして銘々が楽しそうに談笑しながら美しい路地裏の風景を肴に酒を飲んでいた。大変に羨ましく私もその中に紛れたく思ったが生憎ながら未だ未成年である。現代の厳しい束縛から逃れることのできない臆病な私はそんな自分に苦しみながら大通りに出た。
 ビルの灯りが五月蝿くなる頃である。私は足早に不忍池へと歩みを進めた。交差点の横断歩道を渡る時、前から恋人と思われる男女がこちらに向かって歩んでいた。年のは十五、六であろう。私は歩み寄ってくる女の方に目を向けた。髪を結んでおらず人形のように小さな顔であった。目は大きく鼻は高かった。未熟なる少女ではあったが実に美しい。私の散歩の目的として確かに存在している人には言い難い目的というものをここで告白しよう。美しい女亦は美しい男と邂逅し拝むことである。恐らく出会った美しい人々というのは今先二度ともう会うことはないだろう。それで良いのである。美しいものというのは記憶に長く残る。一瞬の永遠を見つけるために私は美しい人々を探しているのである。
 遂に不忍池に着いたのである。不忍池というのは春夏秋冬、朝昼晩で全く違う様相を我に与えてくれる。冬の宵の不忍池も実に綺麗である歌川広重や川瀬巴水等の名だたる浮世絵画家が不忍池を舞台に絵を描いた。それ程美しいのである。不忍池の柳の奥には弁天島が更にその奥には精養軒と上野の山をみることができる。江戸、明治、大正、昭和初期と上野の山は長く芸術の中心地であった。私はセントラルパークよりグリフィスパークより上野恩賜公園を好むのである。
 不忍池の名前の所以は諸説あるが私が一番好きな説として男女が忍んで逢っていたということから来たという説である。なんとも浪漫的である。十五世紀頃には既に不忍池と呼ばれていた。
 私は名残惜しく不忍池を後にして不忍池通りを根津駅の方へと歩みを進んだ。道路沿いには高層マンションが乱立している。日はもう沈みビルの灯りは煌々と輝いている。エントランスに家族が仲睦まじく話している姿を見た。私は夜毎朝毎に不忍池と上野の山を拝むことができたらどれだけ仕合わせものであろうか、そう思いながら横山大観記念館の門戸を横切った。 

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 自らが今池の端にいるということに気づいた。もうそろそろ帰らねばならない。少しばかり腹も減ってきた。然しもう少し歩みたかった。私は折角の根津駅の手前まで来たのだから向岡まで歩んでみようと思い夜の街を歩んだ。
 先ほどまでのビル街ではなくなり商店街に入っていた。私は前から向かってくる自転車を避けながら歩いた。交差点を右に曲がり少し行くと大きな赤い鳥居が存在していた。根津神社である。私は以前根津神社に来たことがあったがその時は昼であった。夜の根津神社というものは実に暗く少し不気味である。私は鳥居の前で立ち竦み写真を撮った。
 根津神社を過ぎると弥生町である。明治十七年、この街から土器が出土した。それが古き時代を紐解くカギとなりこの街から弥生時代という名前が付けられたのである。


 弥生町を過ぎ向丘にたどり着いた。帰ろうかと思ったがまだ歩き足りない。私は駒込を最終目的地とし歩み始めた。この辺りは千駄木が近い。という事は鴎外の旧宅である観潮楼と漱石旧宅が近くにある。以前、観潮楼に行った時鴎外旧宅の広さに驚いた。昔はそこから東京湾が見えていたそうである。現在は建物が邪魔をして見えなくなってしまった。嘆かわしい事である。
 浄善寺も前を通り過ぎ本郷通りをひたすらにまっすぐ進んだ。夜が深まるとともに北風が非常に強くなって行く。きっと漱石や鴎外もこの道を歩み様々なことを考えていたのだろう。そんなことを考えながら私は歩んだ。
 私は散歩をすると自由を感じる。あらゆる嫌悪から解放され街と自然と一体となれる。様々な事を景色は教えてくれる。実に説明が難しいのだが自由である。自由なる散歩は一瞬を永遠にしてくれる力がある。私は散歩をしている時に考える様々な悩みや憂い、不安や喜びによって幸福感を覚えるのである。
 風に吹かれてひたすら歩く。様々な事を思い出しながらひたすら歩く。
 遂に六義園の入り口まで来てしまった。私は折角であるのなら六義園で自然と戯れようと思ったが生憎、閉園の時間を過ぎてしまっている。仕方がないので私は横断歩道を渡った。
 とうとう最終目的地である駒込駅にたどり着いてしまった。本当はまだ帰りたくない。然しそんな事は言っていられない。旅の始まりというのは終わりの始まりである。散歩も命もいつかは終わる。今日の散歩ももう終いである。今日も実に楽しい散歩であった。過ぎ行く時間の中で公開というものはない。何処の街もそれぞれ様々な美しさがあった。私はもう帰らなくてはいけない。家に帰ればまたいずれ散歩ができるであろう。


 私は少し立ち止まり頭上の大空を見た。夜である。
 夜はもう朝を孕んでいる。もう少しで朝を産み落とすであろう。そして何れ朝も夜を孕み産むであろう。私も明日の私を産まなくてはならない。故に我が寝床へと帰るのである。
 常に明日へと歩み寄る。光はいずれは影を産み、そしていずれは影を消す。夜には夜空を仰ぎ見る。微かに瞬く星がある。
 只々歩いて進み行く。如何に遠くに歩めども何れは帰る場所がある。
 川は海へと帰り行き、海は空へと帰り行く。空は大地に帰り行き、人は自分に帰り行く。
 

是非、ご支援のほどよろしく👍良い記事書きます。