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第1話 トゥカリアの跡目争い(3) ~星の記憶~

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 このごろグレンの様子がおかしい。彼らしくもなく、どこか常に気を張りつめているらしいのが分かる。何か問題でも起こったかと聞いてみたが本人は何もないと言い張って埒があかない。どうやらティエレとその仲間のところに入り浸っているらしいが、どこかちぐはぐである。
 それを除けば、日々は平穏に過ぎていた。メナとエトヴィスが国境線で戦闘中らしいが、ケルナに一歩入ればそうした戦闘の色はぬぐい去られる。無論、噂として、情報として、そうした話は入ってくるものの、だからといって争いがケルナの中でも続行されるわけではない。
 騒ぎは、ちょうどエリファスたちが軍略の講義を受けている時に持ち上がった。急に外があわただしくなり、人が飛び込んで来、告げた。トゥカリア第六公子ファルムが殺された、と。
 知らせは、あっという間にケルナ中を駆けめぐった。
 政治的中立地帯であるケルナにおいてあって未だかつてあったことのない、そして未来永劫あってはならない事態である。
 明るい光の溢れる中庭で、ファルムの亡骸が赤い色に服を染めて横たわっていた。その脇で女性が一人、朱に染まるナイフを手に狂ったように笑っている。ケルナの教師達が慌てて場を収集しようとした時、少し遅れてついた第二公子バラートがやって来た。女性がくるり、バラートを見、いっそう高笑いをする。
「約束は守ってもらうよ!」
「何の話だ」
むっとしてバラートが返す。約束なぞ知らぬ、と。
「守らないってならアンタも殺すまでだ」
女性は言うと、朱に染まったナイフを振り上げた。慌てて周囲が制止する。バラートは顔を真っ赤にして怒鳴った。
「お前なぞ知らぬ!弟を返せ!」
「しらじらしい」
脇でルチェが小さくつぶやくように言った。返して欲しいような弟でもなかっただろうに。
 疑いの眼差しがバラートに投げかけられる中、エリファスは少しばかり引っかかりを感じていた。確かに第二公子バラートが緻密の反対というのか、少々荒っぽくまた強引なのはつとに知られていることである。が、いくらバラートとはいえ、実際に手を下すようなことをするだろうか?それもケルナの中で?あまりにも非常識にすぎる。いくら競争相手を消したからといって、それで自分も自滅してしまえば意味がない。トゥカリアの王位継承候補者は何もファルムとバラートの二人だけではないのである。
 けれども。
 噂の勢いは止まらなかった。生活が非常に派手だったファルム。あの女性はその被害者だという話もあれば、逆恨み説、思いこみ説も流れる中、日頃の行動と相まって、やはり裏にいたのはバラートらしいとそんな噂がまことしやかにささやかれ広がって行った。
 絶対に弟の敵は私が討つ、そう公言するバラートを多くの者が冷ややかな疑惑の目をもって見ている。
----冗談ではない、私ではないぞ----
バラートは苛立ったが、いかんともしがたい。
「そうとも限らないだろう。あまりに手口が稚拙すぎる」
ルチェは、同期仲間相手にそんなことを言った。噂をいかに議論しても、所詮噂の域を出ない。それは分かっていても、やはり寄ると触ると話は暗殺事件に傾いてしまう。
「私がバラート公子の立場なら、絶対にそれだけはやらない」
「そりゃ、私でもしないが、しかし・・・」
「大体、何もあんな衆目の中殺す必要もないだろう。病に見せるなり、行方不明にするなり、もう少しましな手はいくらでもある」
「あの女が暴走した可能性もある」
「刺客を使うならもっと有能な者を使うと思いますね」
「まあ、女の単独犯行という可能性も十分あるか」
云々、云々。皆が思い思いに意見を述べる。そんな中、つぶやくようにエリファスが言った。
「第一、継嗣候補は第二公子だけではない・・・」
はっとした皆が、一斉にエリファスを見る。声が出ていたことに気づかなかったエリファスは、しまった、といった表情になった。
「エリファス、それは・・・」
 もっといい考えがある。第六公子を殺し、第二公子を陥れたなら----
 一瞬皆の心にそんなアイディアが浮かぶ。
 得をするのは誰か。
 誰かが不自然に死ねば、まず大抵人はそれを考える。得をするのは、一体誰なのか。
 あまりにもまずい言葉だった。エリファスは思ったがもはや後の祭りである。物静かで、他の二人に比べ「優しい」と評判のある第一公子は、ほとんど無意識のうちに皆の「容疑者リスト」から外されていた感がある。それを、掘り返してしまった。到底、そういうことをする人物だとは思えない。思えないが、けれども、あるいは、ひょっとしたら?そんな思いが皆の胸を去来する。重苦しくなった空気の中、やがて皆は各々思いをめぐらせつつ、散って行った。

「ですから、私は何も知りません」
躍起になってエリファスが言う。いつぞやの台詞がやはりもれたらしい。エリファスは第二公子バラートの元に呼び出しを食らっていた。
「継嗣候補は私だけではない、そうだな?」
バラートが険しい眼光を宿らせてそう問いつめてくる。
「それは誰もが知っていることです」
「そうだ。だが皆が忘れていることでもある」
バラートは再び第一公子は何を企んでいる、とそう聞いてきた。
「ですから、知りません。第一そのような企みがあるのですか」
「質問に答えろ。聞いているのは私だ」
高圧的にバラートが言う。線の細い、物静かな第一公子とはまた全く異なる性質らしい。
「ですから!知らないものは知らないとしか言いようがないでしょう」
バラートは恐らくエリファスの口から第一公子が今回の事件を企んでいる、という片鱗を引き出そうとしているに違いなかった。嘘でも本当でも、そうだと言え、高圧的な口調の裏にそんなメッセージが伝わってくる。
「そういえば、お前は私が観劇会に招待した時、兄上のところにいたそうだな」
獲物を狙う、蛇が如き目。
「ええ、いちばん早くに招待状を戴いていましたから」
予め用意してあった答えを返す。
「そこで何を話した」
「何をといってたわいもない話です」
「どんな」
「芸術の話や講義の話や・・・」
「それから?」
「それだけです」
「後継争いの話もしたのだろう」
「そのような話は晩餐会にそぐいませんから」
「どうだか。私的なものだという話だったが。私たちがスケジュールを押し込んだと、怨みを述べていたと報告を受けているぞ」
間諜まで放っているものらしい。が、エリファスは折れなかった。
「そんな細かい話まで覚えていませんね」
「シュレムの公子。私がトゥカリアの王になった暁には、君の国の待遇を考え直そうと思っているのだが、どう思う」
今度はそっちから来たか。エリファスは内心苦々しい思いを噛みしめながらそれは私たちがここで話し合う内容ではないはずですが、とそう切り返した。
「現在のトゥカリア公は、お父上であらせられる筈。また、シュレム公も私の父です。二人とも健在なのに、その息子たる私たちが勝手に国の将来を話すのは僭越というものではありませんか」
 余程の間抜けな大馬鹿者か、それとも余程の自信家か。
 決して折れることのなさそうなシュレム公子を前にバラートはそんなことを思っていた。大抵の者は、少しバラートが圧力をかければすぐに折れる。遠回しに損得を話して聞かせればすぐに乗ってくる。
 そう難しいことを要求しているつもりはない。ほんの少し、そういえば第一公子が、と不穏な影をもらしてくれれば、それでいいのである。そう、ほんの少し、些細な、些細なことを。そうするのがお互いの利益となる筈である。
 さて、どう手を打つか。バラートが考える一方で、エリファスは適当に切り上げないとどんな工作を裏でされるとも知れない、と考え始めていた。
「申し訳ありませんが、この後、ルチェと明日の軍略実習のことで話し合う約束をしているのです」
エリファスは出任せにそう言うと、そそくさとバラートのところを辞した。
 バラート一派の占める寮を出、自分の部屋へと向かう。かすかな気配に、誰かがついてくるのが分かった。
 そこまでするか?思ったけれども仕方がない。第二公子バラートはとかく猜疑心が強いと聞いてはいたが、まさかこれほどまでとは。エリファスはルチェがまだ起きていてくれることを祈りながらルチェの部屋へと向かった。
 押さえ気味にノックする。
「どうぞ」
幸いまだ起きていたらしいルチェの声がする。すまない、遅くなった、と中にはいるとルチェはひどく驚いた表情になった。
「エリ・・・」
しーっ、慌ててエリファスが慌てて人差し指を立てる。そして、ことさらに言った。
「もう少し早くくるつもりだったのだが、バラート殿に聞きたいことがあると呼び出されて」
エリファスの一人芝居にルチェが笑いを噛み殺す。察しのいい彼のことである、大体の状態はそれで理解したらしかった。
「それで、明日の軍略実習だが・・・」
部屋の中程へと歩み寄りながら言う。合わせるように、ルチェが言った。
「全くあんまり遅いからもう寝ようかと思っていたよ」
椅子を引いて座る。しばらく打ち合わせらしきことをしているとやがて扉の向こうで人の気配が消えた。
 しばしそれでも警戒して話を続ける。もう大丈夫だろう、という頃になって、ようやく二人は演技を止めた。
「さて、エリファス、大冒険だったようじゃないか」
ルチェが面白がるように言う。
「夜遅くに押しかけてすまない」
「いや、構わないよ。君が入って来た時は驚いたが」
「他に逃げ出す方策もなくて」
「例の発言が第二公子に漏れたな」
「ああ」
言ってエリファスは髪をかきあげた。やっと切り抜けた、という実感が沸いてくる。
「手応えは?」
ルチェはグラスを取り出しながらそう聞いてきた。
「多分、バラートではない」
「そうか」
言いつつ、ガチェ酒の瓶を開ける。
「自信はないが・・・だが、彼はいずれにせよ罪を第一公子ティエレ殿にかぶせたがっている」
「まあ、そうだろうな。全く君のアレは爆弾発言だったよ」
ルチェは言って透明な液体をグラスに注ぐと一つをエリファスに勧め、一つを自分の手元に取った。
「面目ない・・・声に出したつもりはなかったんだ」
「君はソツがないようで肝心のところで一本抜けているな」
私ならあんなへまはしない、ルチェが言う。
「で、どうするつもりだ」
今日のところは逃げ出したとして、第二公子はそれであきらめたりはすまいよ、ルチェに言われ、エリファスは深いため息をついた。
「そうだな・・・」
「君が採用するかどうかは勝手だが、」
ルチェは言って指先でグラスをはじいた。
「私なら、第二公子を切るね。どのみち彼も見込みはない」
というより、あんなのとつるむくらいなら死んだ方がましだ、ルチェは吐き捨てるように言った。大体誰とでもそれなりに合わせてつきあうルチェだが、あの第二公子だけはどうしても好きになれないらしい。
「あいつには美学というものがないんだ。そも、理解するだけの頭もないんじゃないか」
あまりな言いようにエリファスが苦笑する。何もそこまで言わなくとも。
「呼び出しにも招待にも答えないことだ」
ルチェは不意に真顔になりエリファスを見据えた。
「君はもう十分あの馬鹿馬鹿しいお家騒動に首を突っ込んでいる。それ以上踏み込めば、首が絞まるぞ」
忠告、感謝する。エリファスはそう礼を述べるとそろそろ帰ろう、と立ち上がった。

 さて一方、ケルナ評議会の方は未だかつてない事態に頭を抱えていた。今トゥカリアからあまりきつく問責が来ていないのは、恐らく裏に他の自国公子が絡んでいる可能性があるからだろう。ケルナを責め立てて、もし万一ケルナに留学させている自国の公子が裏の犯人だと分かった日には、トゥカリア自体、窮地に立たされることになる。
 だが、いずれにしても前代未聞のスキャンダルだった。ケルナの警備は比較的緩やかである。外からの侵入者に対してはそれなりの対策を取っているが、内部に対してはそれほどでもない。それでも奇跡的に安全が保たれて来たのは、ひとえにケルナに集う者たちのプライドと、ケルナに対する世界の尊崇の念故である。
 ケルナが荒れる時こそ、世界の善なる心が死する時だと言われたケルナ。しかしその安全神話に初めて亀裂が入った。
 神話は皆が信じている限りは常に「真実」であり続ける。けれども一人、二人と抜け落ち、やがて疑う者が多くなれば、それはもろくも塵と消え果てる。皆が信じることによって成り立つ真実を危難から守り抜くのは、容易なことではない。
 問題の女性はといえば、約束は果たしてもらう、約束は果たしてもらう、とぶつぶつつぶやくばかりでいかんともしがたい。一体どのような約束かと尋ねてもただかぶりを振って約束は果たしてもらう、と言うばかり。
 頭を抱える評議会に、渡り船を出したのはツツェという学生だった。おどおどとしながら、まるで病人のような生気のない顔をして、出頭してきた。自分は、第二公子バラートたちがあの女性に何かを渡しているのを見ました、と。恐怖に引きつった顔をして、言ったのがばれたら殺されてしまうとそう訴えた。渡しながら、必ず約束は守ると言っていたのだと・・・
 聞けば、他にも見た者がいるという。調べれば、更に二人、三人、目撃証言が出た。皆一様にバラートを恐れ口は重かったけれども、絶対に誰とは分からないようにする、という条件でようやく、彼らも重い口をぽつり、ぽつりと開いた。
 無論、これだけでは証拠にならない。会っていたからといって即それが事件に結びつくとは限らないのである。とはいえ、ここまで話が揃ってはバラートをそのままにおくこともできない。
 審問会が開かれ、バラートが呼び出されることになった。
「何故私がこのようなところに呼び出されなくてはならないんだ!」
これは侮辱だ、父に訴えてやる、云々、バラートが吠える。
「落ち着きたまえ。君があの女性について何か知っていることがあるなら話してもらいたいだけだ」
ケルナ評議員の一人が言う。
「知るも何もあの日見たのが初めてだ」
「本当に?彼女はそうでもなかったようだが」
「本当だ!嘘なぞつかない。これは陰謀だ。きっとティエレの奴が・・・」
「今は他の者のことはいい。質問に答えたまえ。君はあの女性を知っていたのかね、知らなかったのかね」
「知らなかった」
「おかしいね、君と彼女は知り合いだった、という情報が複数寄せられているのだが」
「冗談じゃない!」
あるはずがない、といった調子。別の評議員が言った。
「バラート公子・・・力があれば人の口はいくらでも封じられると、そう思っていたのかね?」
「封じてなどいない。私は知らない」
 どう押しても何を言ってもバラートは知らぬ、存ぜぬの一点張り。ならばよい、と部屋に帰された翌朝、バラートは中庭に倒れ、冷たくなって発見された。

 こんな屈辱は耐えられない、そう叫んでいたのだという。どうやら、中庭を囲む建物の屋上から飛び降りたらしかった。
 早朝呼び出され駆けつけたティエレは、変わり果てた弟の姿に声もない風だった。
「馬鹿・・・な・・・」
細い震える指を弟に伸ばす。信じられない、というようにかぶりを振って。
 自殺のようだ、という言葉にそれこそ信じられない、といった様子で目を見開いた。
「そんな馬鹿な!ああ、いえ、失礼・・・。弟は、バラートは、自殺するような弱い人間ではありません」
 強い調子で言ってから、不意に顔を覆った。
「ファルムに続いてバラートまで・・・父はどれほど嘆くでしょうか」
死ぬなら、私が死ぬ方がよかったに違いありません。つぶやくように言ったティエレに、そのようなことはないよと教師の一人が言った。気を確かに持ちなさい、こういう時こそ、どっしりと構えていなくては。
 後味の悪い幕引きだった。ファルムが殺され、バラートが疑惑を背負って死んだ。トゥカリアは二人の亡骸を黙って引き取り、何も言わなかった。ケルナの方もあえて何も言わなかった。あまり白黒決着をつけてしまわない方がいいこともある----そう判断してのことである。
 ケルナの側から見れば、バラートは限りなく黒に近かった。トゥカリアから見てどうであったかは、定かではない。
 が、いずれにせよ、ケルナにまた平穏な日常がゆるゆると戻りつつあった。
「グレン」
エリファスは最近ひどく険しい表情をしていることの多い友人に、そう声をかけた。
「ルチェがよい酒が手に入ったので今夜にでもこっそりやらないかと言っている。よければそなたもどうだ」
公の集まりは嫌いでも小さな集まりなら、参加するかもしれない。それにグレンはアルコール類はかなりいける口である。けれども、グレンの答えはそっけないものだった。小さくエリファスがため息をつく。
「そなた最近おかしいぞ」
「別に私は普通だ。おかしく見えるなら、お前の方がおかしくなったのではないか」
こういう口の悪いところは相変わらずである。が、そこに含まれる棘は心なしか強くなったようだった。
 グレンが立ち去った後で、取り巻きをどこぞに置いてきたルチェが歩み寄ってくる。
「どうだった」
「玉砕」
エリファスは言って両手を上げて見せた。
「とりつく島もない」
「エリファス・・・」
考えたくはないが、ルチェが言いかけるのをエリファスは片手で制した。
「ただ様子がおかしいというだけで決めつけるわけには行かない」
「君が信じたいのは分かるが」
ルチェはなおも言いつのりかけて、けれどもそうだな、とそれ以上は言わなかった。
 二人の心に同じくしてあるうっすらとした疑念----
 ファルムとバラートの死、それにグレンが関わっているのではないかと、それがどうしても払いのけられずにいた。ずっと第一公子ティエレのところに入り浸っていたグレン、バラートが死んでからは近づきもしない。
 かつてに比べ、ティエレのところはにぎにぎしい。ティエレ自身は大人しく、あまりこれといって口を利かないけれども、かえって周囲にはそれが好ましいらしかった。ファルムのようにわがままでなく、バラートのように押しつけがましくない。むしろ控えめで慎ましい態度は皆にとって新鮮に映るらしかった。
 けれど・・・
 花の溢れる中庭。バラートの倒れていたところを見つめ、どうしてもエリファスは割り切れない思いに捕らわれていた。
「久しぶりですね、シュレム公子」
声に振り返れば、ティエレが立っていた。どこに置いてきたのか、取り巻き連中の姿は見えない。
「あ・・・ティエレ殿」
「どうぞ、そのままで」
立ち上がろうとするエリファスを手で制し、持ってきた花をバラートの倒れていたところへと置く。振り返れば、ファルムが殺された場所にも花が置かれていた。ずっと枯れることなく置かれる花束。どうやらティエレが日々取り替え、取り替え、置いていたものらしい。
「死んでしまえば良いと、思っていました・・・」
静かにティエレが言った。
「二人とも。いいえ、二人だけでない、他の公子も、父も、父の愛する者たちも、全て死んでしまえば良いと・・・」
波一つ見せない告白。
「ですが、」
ティエレはエリファスの隣に座ると言葉を継いだ。
「こうしていざ死なれてみると、本当にそんなことを望んでいたのかどうか、分かりません・・・」
ついと先刻自らの置いた花に目をやる。
「貴方がうらやましい。貴方のところでは、このようなことは無縁でしょう?」
「ええ、まあ・・・」
「私の母は・・・」
思い出に胸が痛むのだろう、ティエレは微かに眉をひそめた。
「全てを奪って行く父とその愛人たちに、いつも涙を流していました。決して来ることのない父を待ち続け、父を連れ去り奪い去った者への憎しみに心身を蝕まれ・・・」
エリファスは何も言わない。ティエレは言葉を継いだ。
「ですが、いちばん私が辛かったのはそのことではありません」
少しばかり意外な言葉に、エリファスがティエレを振り返る。ティエレはそんなエリファスにも気づかぬ風でひとりごちるように先を続けた。
「私が最も辛かったのは、」
つと空に目をやる。
「どんなにしても私では駄目だということでした」
ティエレは言って軽く唇を噛んだ。
「私だけが全てだと母は言いました、私だけが全てだと。けれど・・・寂しさに泣く母をどれほど私が慰めても、どれほど私が努力をしても、何をしても、結局私では、駄目だったのです。私は父の代わりでした。否・・・代わりにすらなれなかったのです・・・」
 少しずつ、私は母が狂って行くのをただ見続けていました。最後の最後まで、父は母の元には来ませんでした・・・
 つぶやくようにティエレが言う。
 長い時間をおいて、エリファスが言った。
「辛いのは自分だけだと思うのは間違いです」
ついと緑の瞳を向ける。ティエレが振り返り、刹那、火花が散ったかのようだった。
「貴方は、結局、自分のことしか見ていない。慰めが欲しいなら、他を当たって下さい。言いたいことがあるなら、お父上に直接ぶつければよいでしょう」
貴方がうらやましい、言われた言葉がエリファスの心に引っかかっていた。いつもならこんなことは、言わない。
 緩めたのはティエレの方が先だった。そうでしたね、つまらない話をお聞かせしました。言って立ち上がる。立ち去るティエレの後ろ姿に、エリファスは目を向けもしなかった。

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トップ画像:Stefan Keller氏によるもの(感謝)

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