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深田久弥さんと魚沼三山山行(「山桜通信」52号)

学習院大学山岳部 昭和35年卒 古屋勝彦

卒業前年の昭和三十四年(一九五九年)の秋だと思います。既に部活動は卒業。加藤泰安(*1)氏より突然電話があり、深田久弥(*2)氏が山行に御小姓を探しているので、行って来いと言われました。

上野駅で深田さんに会いました。当時は「日本百名山」は未だなく、深田さんはヒマラヤ文献に詳しい人という感じでした。後に2006年9月、福島県土湯峠の北野温泉相模屋旅館に日本山岳会ヒマラヤ研究会の大きな色紙が飾ってあり、サインがしてあり泰安が上、深田さんが中、川崎巌(*3)が下段にありました。

上野駅は夜行で、駅の食堂で深田さんはビール、古屋は学生なのでコーヒーをおごってくれました。

翌朝、小出駅に着きますと地元山岳会の会長と地元の人2名(ボッカ役)に迎えられ、深田・古屋は私物のみ、テント食糧は地元の人が背負ってくれ、全部自分で背負っていた学習院山岳部と大違いで大変な厚遇でした。ただし、行動を始めてから地元の一名が調子悪くなり下山。彼の荷物をみなで背負いました。

なにぶん六十年前の話なので、記録はなく、ただ写真がありました。おそらく深田さんが撮影したもので、裏面に説明があります。写真によりますと雪が相当にあり、十一月くらいの山行と思われます。駒ケ岳~中岳~八海山の縦走と思われます。

深田さんの「日本百名山 25 魚沼駒ケ岳(2003m)」もこの時期、このルートを縦走しておられ、この山行と一致するのかも知れません。「百名山」刊行は一九六四年ですので、一九五九年の山行は、時期的に合うかもしれません。

山行はあまり記憶に残っていません。当時の学習院の山行に比べれば、楽だったと言えます。(1)テント場探しに苦労したこと、(2)八海山の鎖り場のトラバースが結構険しく、「ああ、ここにも険しい岩場があったんだ。」と記憶が残っています。(3)下山後、八海山社務所で深田さんが熱心に質問していたことも覚えています
写真を見て今考えても、深田氏と地元の人との具体的な山の話し以外は、あまり雑談はなく、古屋が話し相手との間に立っている感じでした。

左、深田久弥、右、古屋勝彦

(*1)加藤泰安(かとうやすさだ)1911(明治44)年生
学習院中高等科山岳部OB、京都帝国大学卒。戦前、戦中と蒙古、満州、朝鮮の山々を制覇。戦後は活躍の場はヒマラヤ・ニューギニアに移る。日本山岳会の重鎮を務めた。
(*2) 深田久弥(ふかだきゅうや)1903(明治36)年生
東京帝国大学卒。日本山岳会会員として活躍。著書「日本百名山」(1964(昭和39)年初版)が有名。
(*3)川崎巌(かわさきいわお)1936(昭和11)年生
学習院大学山岳部OB、元山桜会会長。学習院山岳部初の海外遠征であるローガン峰遠征の隊長。第五次、第九次南極観測隊(越冬)に参加。1968(昭和43)年12月19日に南極点に到達。

駒の小屋、左が深田久弥、右が古屋勝彦

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