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好きなことを仕事にして休職するまでの話#5 倦怠期終了、就活|高専後編

今回初めて読んでくれた方、はじめましてサノツキミです。
#5まで来ました。ずいぶん長くなったなあ。あと2回くらいで終わりたいなあ。
今回は「建築倦怠期」を克服して建築大好きマンに戻り、就活で現職に内定をもらうまでを振り返ります。

憧れの先輩

3年生後期に倦怠期に入ってしまい、建築愛が少し冷めた私だったが、設計以外の授業やコンペ参加を経て、熱意を徐々に取り戻した。そして4年生になったとき、建築大好きマンに復活した。おめでとう、私。

熱意復活のきっかけは研究室活動だった。
私が通っていた高専の建築学科では、4年生から希望の研究室に所属し、先輩方と一緒に研究活動を行うのだ。

私の所属はもちろん恩師S先生の研究室だった。
(もちろん、の理由は#2~4を読んでね)

S先生の研究は「町屋」という古い住宅に関する調査だったが、研究室での活動は調査に限らず、多種多様で幅広かった。
地域イベントへの参加、家具づくり、建築記事の解読、コンペ参加…
あらゆる方向から「建築」に触れることで、「建築」という世界の広さを知った。

研究室に入って最もよかったこと。
それは、上の学年と交流を持てることだった。私が4年生のときに同じ研究室にいた先輩方はとにかくすごかった。
人柄のクセもなかなかに強かったが、何より建築に対する知識や意識が高く、一緒にいて話しているだけで意欲が引っ張り上げられた。
(先輩たちはいっつも麻雀と人狼をしてたなぁ…)

4年生になってからは専門授業が増え、設計以外にも建築史や構造計算、建築材料やデザイン論など、建築に関わる幅広い知識を得る機会が増えた。
研究活動で何か創作を行うとき、先輩方は授業で得たあらゆる知識を組み合わせて、より美しくより機能的なデザインの提案をして、私たち後輩を引っ張ってくれた。

建築から多くの学びを吸収し、柔軟に様々な形で表現する姿は、当時の私にはすごく自由で楽しそうに見えた。博識で自由な先輩に憧れを持った。

先輩のように建築を楽しみたい!
研究室での活動は、私にそんな思いを抱かせてくれた。

大好きな先輩が撮ってくれたビス打ち中の私。
先輩の作品に工具でビス打ってるところ。
傷つけちゃダメだ…ってめっちゃ緊張してた。


建築大好きマン、研究室に居座る

ちょっとクセありの大好きな先輩方は一足先に卒業し、私は5年生になった。5年生は大学に近い授業スタイルとなり、選択授業が多く、空き時間が増えた。少しだけ時間に余裕ができたことで、心のゆとりが生まれ、同時に建築意欲向上に拍車がかかった。

建築意欲が沸々と湧いていた私は、建築に関わる色々なものを見てみたい!と思い、あらゆる展示会や見学に行きまくった。
木製建具展、椅子の美術館、住宅内覧会…
バイトを終えた後に、その日が期間限定イベント最終日であることを知り、走って電車に乗って会場に向かい、閉館10分前に滑り込んだこともあった。

4年後期から5年生はとにかく建築に夢中だった。
寮生活だったため、放課後から夕飯までは研究室に篭ってコンペと卒業設計に没頭し、夕飯時刻になったら寮に戻って夕飯とお風呂を済ませる。その後もう一度研究室に戻って夜通しPCに齧り付き、朝になったら寮に戻って化粧・着替えを済ませて授業に出る。
夜に寮へ戻れそうにない時は学校内でカップ麺を食べて寝泊まりした。

多分、建築学生って大体そんなもんだ。
椅子を並べて寝るのも、どこかの研究室に夜食を隠すのもお手のもの。
寝食環境が異常に整った研究室が、必ず1つはあるのである。
ゴミ袋と寝袋がある景色も、懐かしい情景のひとつだ。

仲間と一緒に締切に追われながら必死に課題に取り組んだり、達成した時に安堵と感動で「終わった〜〜!!」と手を合わせたり。
なんだかんだ苦しくても辛くても、何度も味わう大きな達成感と自作品への誇りが幸せで、建築に関わることがクセになっていた。
もはや心理麻薬だ。

そんな生活のなかでふと「建築に出会えて、高専に入って本当によかった」と感じていたのを覚えている。

あつ森で再現した建築学科の研究室
ゴミ袋と寝袋、充実した水回りがポイントである。

添書き
寮には点呼があり、23時から7時は原則寮に居なければならなかったのだが、寮の管理人さんに「学校じゃないとできないんです泣」と申告して、規則破りをやんわり見逃してもらってた。管理人さん、あの時はありがとう…。 
※寮は学校の敷地内なので防犯自体は問題なかったんだと思う。

就活!会社との出会い

私が就活で目指したのは設計事務所だった。
中でも、鉄道やITなどの大手インフラ系直下の設計事務所に狙いを定めた。インフラ系の事務所を目指したのには、私なりの理由が2つあった。

1つ、インフラという大きな基盤があれば、より大きな建築に関われると思ったから。
もう1つ、より沢山の人の生活に関わる仕事がしたかったから。

就活には3月から挑み、3つの設計事務所を受けた。
結果は全敗だった。だが、健闘はした方だ。悔いはない。

学校宛に求人がきていない会社や、募集要件の学歴に高専卒が載っていない会社にも、直接メールや電話でアポイントを取って飛び込んでみた。
最終面接目前まではいけても、より熱意を持って濃い経験を積んだ大学生や院生のライバルたちには勝てなかった。

その後、再度将来やりたいことを見つめ直し、「もっと建築設計に直接的に関わりたい」と思うようになった。インフラ系の設計事務所は、鉄道や電気などのインフラ現場を管理する部署になる可能性もあり、設計職としての採用は一か八かだったのだ。

そして私は、志望先を建築設計に特化した設計事務所へ変更した。
だが、その決断をしたのは6月頃。設計事務所は求人締切が早く、学校に来ていた求人はほとんど3月頃で募集が終了していた。

そんななか、唯一6月末まで募集をしていた設計事務所があった。
その会社は、大きなグループ会社に属する建築設計専門の子会社だった。

そして私はこの会社に入社することになる。
だからこのあとの就活エピソードは安心して読んでほしい。

エントリーとSPI試験は先の就活経験が生きて、すんなり通過。その後すぐ面接試験だった。

面接当日、その日までメールや電話で連絡を取っていた人事担当の女性と、初めて顔を合わせて挨拶をした。とても優しく気さくな方で少し安心した。
面接の説明を受け、呼ばれるまで暫く待機するよう言われた。
人事担当の女性は去り際に「これ、最終面接だから」と、さらっと強めの一言を言い残して部屋を去っていった。

この一言、かなりの衝撃を受けたのを覚えている。
あの場で言わなくてもよかったんじゃないか?
緊張をほぐすためだったのか?ならもっと早く言ってくれ。

あの場であの一言を放った真意はいまだに謎である。

面接試験は、それまでに受けた他社と同じように、自己PRや志望理由、そしてポートフォリオ(作品集)の説明をした。特段記憶に残るような出来事はなかった。
面接官の中に現在の部長もいたらしいが、正直私は全く覚えていない。
(部長スミマセン)
面接官の皆さんは、私のお父さんと似た世代だったのか、かなり優しく対応してもらった記憶がある。
目の前の席には恰幅の良い当時の常務が座っていた。終始ニッコニコだったのでよく覚えている。

面接を終え、応接室前の椅子に座って待っていると、中から軽い評価を終えたらしい面接官の方々がぞろぞろと出てきた。
ニッコニコの常務が親指を立てて、私に目配せを送ってきた。
意味はわからなかったが、受かったんかな?と思った。

そのあと人事担当者に呼ばれて「採用!このあと他の内定者と懇談会あるから参加してくれる?」と言われて、別室へ。
展開が早すぎてついて行けず、「あ、はい」しか言えなかった。

1時間ほど別室で待機したのち、4月頃までに受かっていた内定者たちが集められた懇談会に急遽参加し、そこで現在の同期たちと初対面した。
自己紹介では、各々自分の経歴や入りたい部署等を話していたが、採用通知を受けて間もない私は混乱が落ち着かず、「1時間ほど前に内定が決まった者です。よろしくお願いします」と挨拶し、同期たちへの強烈な印象づけを果たしたのだった。

終盤はかなりの急展開となったが、これが私と現会社との出会いであり、人生初の就活体験である。

あとがき

今回もここまで読んでいただきありがとうございます。
入社式当日、同期に「内定者懇談会の日に内定決まった子でしょ?(笑)これからよろしくね」と言われました。かなりの急展開で戸惑った就活体験でしたが、今思えば同期と仲良くなるきっかけにもなったし、結果的にいい形だったかなと思います。
次回最終回(たぶん)、休職理由と現在について語ります。

サノツキミ


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