太宰治「津軽」と、梶井基次郎「檸檬」と、可愛いやまパンちゃんの件
太宰治の傑作中の傑作、紀行小説「津軽」はこんな一節で終わっている。
多分にも脱稿が1944年(昭和19年)、太平洋戦争の末期であり、その時分の世情を彼なりに反映させた文末であったのだろうが、今の僕には、この一言が脳髄を揺さぶるに余りあるものだった。ちょっと大げさか。
命あらばまた他日、つまり生きていればまた逢える、絶望しないで元気だそう、そういうことだ。まんまだけど。で・・・
さらばやまパンよ、命あらばまた他日。元気で行こう。おまえもおれも絶望するな。では失敬。
何のこっちゃ?
第一の手記 (人間失格風)
さて、ある日僕は大好きなやまパンちゃんに、このnoteに書いている記事の中から、自分を知って貰うにふさわしいいくつかをピックアップして、一太郎に貼り付けた印刷物を渡した。
後日、ちょっとした感想をメールに書いてくれたやまパンちゃんに、noteのアカウントにあるプロフィールはこうだよ、とそれをコピペして返信した。
やま「あ、嬉しい。で、太宰治って「走れメロス」の人でしょ、でもこの梶井基次郎って知らないわぁ」
ちくわ「「檸檬」という小説が、中学か高校の国語教科書に載っていなかったっけ?果物屋で買った檸檬を爆弾にみたてて、本屋に積み上げた画集の上に置いてそのまま出てきてしまうって言う・・・」
やま「うーーん、知らない」
ちくわ「あれれ、やまパンちゃんて、国語、ちゃんと勉強したん?」
やま「ちょっと待ってよ、あたし高校の頃って、けっこう頭良かったんよ、国語の先生になりたかったんよ」
このあと、読者に鼻をつままれるような、どうでもいいイチャイチャ会話が続くのであるが、そうしてまたこんな陰気な趣味をひけらかせている根暗な僕なので、若い彼女を夢中にさせ続ける事能わず、まあそれだけじゃあなくて、中途半端な態度を続けた既婚おじさんの僕なので、直(じき)に愛想尽かされフラれてしまい、今となっては懐かしくも悲しい、イチャコラ会話の断片でもある。
ちょっとエッチなんだけど、一方で日本近代文学や民俗学で話が盛り上がる、そんな女の子は何処かにいないものだろうか(笑)
そんないきさつから私は改めて梶井基次郎「檸檬」を、人生何度目かの再読をしてみたのだ。
結論からすると「ふーん」だった。少し拍子はずれな音色を持った印象だったのだ。檸檬のなかの「私」は、神経衰弱な自我が剥き出しになっていて、馴染めない。
それは僕が、おそらくは日本近代文学の中で日本一と絶賛する、梶井の「城のある町にて」と、知らず知らずの内に比較しているからであろう。
さて僕は2、3冊の同時読みが特技。読んでいた太宰治「津軽」も数日前に読み終えた。一年中太宰治の何かしらに触れている僕だから、今現在、穂村弘も大人になって夢中になったと語る「人間失格」を、仲代達矢の朗読するCD 聞きながらも、その何回目かを読み進めている。
そして、それは昨夜なのであるが、僕はふと次の公式に気づいたのだ。ひらめいた。ビビっと来た。
檸檬=人間失格
城のある町にて=津軽
どうだろう。僕はこの法則を発見したとたん、自分の恐ろしい才能に、プルプル震えてしまった。
小林秀雄、大江健三郎!
はっきり言って「じーじー、しっこ漏らした!」(正月頃の記事参照の事)。
「城のある町にて」では、主人公は姉の嫁ぎ先である伊勢松阪を訪れ、家族の優しさに癒されていく様子をそのときの出来事に乗せて描き出していく。
また「津軽」では、自分のふるさと津軽を再訪しながら、故郷で出会った人との語らいを通して、特に最後に出会った「たけ」の優しい言葉に自らの心を寄せていく様子が描かれている。
どちらも傑作中の傑作だ。上に書いたように、露骨に自分を見せる「檸檬」も「人間失格」もあまり好きではなく、むしろこれらと対極にある叙事的な「津軽」や「城のある町にて」が好きだ。大好きだ。やまパンちゃんと同じくらい、好きだ。いいや、やまパンちゃんの方が好きだ!
やまぱーん!カムバーック!
僕は上の「檸檬=人間失格、城のある町にて=津軽」という単純な、無茶ぶりな公式については、実はこれと言った根拠はない。単にそんな気がした、だけ。ごめんね。でもわかるよね。
読者におかれてはそのままご査収願いたい。