見出し画像

「東京裁判」4Kデジタルリマスター版と私

1,はじめに

私の妻は会話の時、必ず、間違いなく、「主語」を省略する。だからいつも、私の返事はまず「何の話?」から始まるのである。
妻「ほんとにもうトンチンカンでやんなっちゃう」
私「何の話?」
妻「え?決まってんじゃん、ばあさんの話だよ。やばいよ、ばあさん、話した途端に忘れていくんだよ。いいや、話す前から忘れちゃってる、ここまで来るとこわいわー」
私「ごめんな、今の今まで、来週末、東京へ行くとき何着ていこうかとの服の話してたんじゃね。もう話、替わってるん?」
妻「あたりまえでしょ、話はもう変わってますって。空気、読んでよ!空気!」
主語を言わないのは、女は、概ね話の展開と転換が早いという、本来的な女性性なるものが主たる根拠で、そこに男が追いつけないのだと思うのだけど、妻は実は主語をいわないのではなく、心の中で主語を言って、述語のみ実際の声に出しているという事でもある、彼女の頭の中では、たぶんキチンと文法の整った一文がある。
そんな空気を読ませる妻なので、私は絶えず、場の空気を読まなくてはならない。察しなくてはならない。
夫婦の会話が煮詰まってくると、とうとう、、、
妻「あんたと一緒になって、すげー経っているんだから、何の事話しているのか、いちいち主語なんか言わなくたって分かるでしょ、もう-いい加減にしてよね!ほんとにぃー!」
女は、恐い。

2,「東京裁判」を見る

画像1

おいおい、4時間半の、途中10分休憩挟む、のドキュメンタリー映画、しかも太平洋戦争後のA級戦犯裁判のモノクロ映画でしょ。そして、私の住むここは、東京じゃなくて山奥の町。タイル張りトイレが特徴の、場末にひっそりと建っている映画館で、こんな映画やったって、はっきり言って誰も来ないよ。
みうらじゅんが、地方の土産物店の隅に、ホコリを被ったまま置かれた「いやげもの」を買おうと決断するときに「こんな変なもの、もし買うやつがいるとしたら、おれしかいないな」と呟くらしいが、確かに同じ勢いで、私が「こんなだるい映画みるとしたら・・・オレだけだよな」とばかり飛び込んでみた日曜日、昼の映画館。
客席の半分近くは埋まっていましたよ。これだけでもびっくり。いつもなら5,6人が精一杯の映画館だからね。帰宅後、妻に話したらば、
「あんたのような、変わり者の、ものずきおじさんが意外にたくさんいたってことね」と返してくれて、なんだか嬉しかった。
私のなかでは「ものずきおじさん」=「社会的政治的意識の高いおじさん」なので。

さてこの映画のあらすじは・・・書かない。
書きません。
自分で観てみなよ、すげえから!

まあ、それでも映画の構成を簡単に紹介すると、極東国際軍事裁判、通称「東京裁判」で、争われた多くの罪状を、その一つずつについて、そこに裏付けられた事件の顛末や事件の背景、裏に隠されたポイントや争点を、佐藤慶の解説に乗せながら、なぞるように開陳していくというものだった。開戦にむけた共同謀議が成立するのか、事後法のこの裁判への適用問題や、弁護が開戦時の国家国策に対してなのか(国家弁護)、戦犯一人一人の関わった罪状に対してなのか(個人弁護)という、いくつかの根源的な問題もあったようだ。さすがにBC級戦犯の絞首刑の様子や、市中引き回しの後の射殺などのシーンに、思わず目を覆ってしまったけれど、それが彼らが現地人を虐待殺戮した結果であると分かってはいても、私も日本人である証だからなのだろうか。とても辛(つら)かった。
またウエップ裁判長の判決「death by hanging!(絞首刑)」にも、日本人らしく一礼した何名かのいさぎよさに、頭の下がる思いであった。特に広田弘毅。

3、感想

さて、ここで裁かれていたいわゆるA級戦犯たちは、悪い奴らなのだろうか。簡単だけど、そこが主たる争点なのだ。
東京裁判に関しては、現在においても多くの研究者と多くの政治家、思想家が議論している対象であり、私のような市井にいるチンピラじじいが、議論に割って入ろうとするものではない。ただ、私が言いたいのは、これも何回かここで書いている事なのだけれど、政治家も将軍たちも将校たちも必死だったかも知れないが、つまり200万余の下級兵士にとっては地獄を見た4年間だった事実を忘れてはいけないという事だ。太平洋戦争の軍人軍属全戦死者230万人のうち約6~7割、約140万人の兵士が「餓死」または「飢餓からくる戦病死」であった事実。加えて30万の兵士が輸送途上の海没死である。年代別に見ると、敗戦濃厚となった昭和19年以降の戦死が約9割を占めるという推定もあるようだ。
つまりA級戦犯裁判を論ずる時、思い出してほしいのは、殺された現地人は除いたとしても、彼等の指示命令で死んだ同胞230万の兵士がいるのだという事実なのだ。
この記事を読んでいる若い男子諸君におかれては、改めて吉田裕著「日本軍兵士」、藤原彰「餓死した英霊たち」を読まれる事を強く推したい。

東京大学、渡邉先生のツイートからの写真。(兵隊さんの顔が見えないように私が加工しています)

画像2

太平洋マーシャル諸島で終戦直後の日本軍兵士たち。
何とか生きて終戦を迎えることができたが、この体では、敵兵とは戦えられないのは自明の理。かれらの身体を見るとき、東京裁判で裁かれた国家指導者達の責任は重いと確信できる。
勝者による裁きとしての東京裁判の存在が良い悪い、戦犯たちの戦時行為が良い悪い、とかの単純議論で終わらせない、かれら指導者たちの命令の下に、何が行われ、どんな結果が残ったのか、私たちがしっかりと本質を読み抜くことが大切なのだと、この映画を見て思った。
もうひとつ、この裁判はA級、つまり国際平和を擾乱させた罪を裁くのが主目的であった。そこを視点にして、その後から現代に至る歴史を見れば、裁いた側のアメリカやソ連など大国こそが、実は裁かれるべき戦争犯罪を重ねていった、そんな事実を私たちは十分に確認できる。平和に対する罪って何?首をかしげてしまったのも事実だった。