「学歴コンプレックス」のどうしようもない面倒臭さ

ふつう日常の会話なんかで「学歴コンプレックス」という場合、「自分の学歴にまつわる複雑で執拗な劣等感情」のことをいっている。このコンプレックスという精神分析用語をこんにち誰もが日頃口にしているけれど、たいていそれは「インフェリオリティー・コンプレックス(劣等感)」とほぼ同義に使われている印象がある。コンプレックスの辞書的定義は「無意識の中に抑圧されている観念的複合体」だからそうした理解はあまりに単純に過ぎるのだけど、とある術語の受容と通俗化の歴史という観点から見るとたしかに興味深いものかも知れない。

私の皮膚感覚では、こんにちの日本の成人で、いわゆる「学歴コンプレックス」を免れている人はかなり少ない気がする。「俺は高卒だからこんな仕事にしか就けない」とか「自分なんて所詮地方のFラン大学だから」みたいに予め犬が腹を見せるような自虐もごくありふれたものになっている。学歴にまつわる不文律のような優劣基準がそれぐらい広く強く共有されているということでもある。「東大以外はみんな同じレベル」みたいなホリエモン的暴言にいちいち傷つく「高学歴者」もきっと沢山いるのだろう。その実、東京大学さえイギリスやアメリカの超一流名門大学に比べれば知的にも業績的にも品格的にも歴史的にもずいぶん見劣りがするわけで、国内に限ってみれば結局「団栗の背比べ」みたいな印象もぬぐえない。だからとうぜん、天下の東大生の中にも何かしらの根強い「学歴コンプレックス」はあるのだろう。ああ大変だな。

ところで、学歴にまつわる自尊心はたいてい、「否定の美学」の上に成り立っている。

たとえば偏差値の比較的高い「旧帝大出身」の人間は、「学歴なんか詰まらないものだよ」みたいな謙遜を装うかたちで、己の「衒い」を「はからずも」露呈させてしまう。当人の意図にかかわらず、ある種特別ないやらしさを滲ませた「余裕の美学」が完成してしまう。そのような「己の経歴へのこだわりの無さ」は、「己の経歴への劣等感を持つ人間」にとっては、二重に耐えがたいものになりうる。というのもそういうポーズを決め込んだ人間に向かって誰も本気では嘲笑できないだろうから。当人のそうしたさりげない「卑下」の底に見え隠れする虚栄心を剔抉するのは「野暮の骨頂」でしかない(「私なんて全然モテませんよ」と微笑する「美人」を前にした「ブス」のやるかたなさ考えよう)。いっそ己の学歴を露骨に鼻にかけて露骨に周囲を見下してくれたほうがよほど救われるのである。

そんな具合に「学歴」は、「否定の美学」を通して「自慢」されるときに最も大きな「演出価値」を付与されるわけです。「東大卒のお笑い芸人」とか「京大卒のニート」がそうした「美学」の上に成り立っていることは言うまでもない。マスメディアはこのような「学歴と職種のギャップ」を体現した人物に高い「市場価値」を見出す。しかし人によってはそうした人物からは「嫌味」以外の何ものも感じることが出来ない。「自分めっちゃいい大学出てるのに官僚とか学者にならないでこんな柔らかく生きています」という新手の自慢をずっと聞かされている感じがして早晩我慢できなくなるのだ(私がそうだ)。同年代でしかも同性であれば尚更そうだろう。ああ、学歴ごときでこんなに苦しまなくてはならない人間が可愛そうですね。劣等感情になど苛まれないで、もっと楽に生きたいよ。

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