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「母の日」が気持ち悪い

いわゆる「母の日」とか「父の日」に何かしらのプレゼントを買って手渡すことをかなり多く人がやっていることに、私はいつも皮肉抜きにびっくりしています。この手の感謝イベントはモノを売るサイドからすれば商業イベント以外の何ものでもなく、こういう露骨な消費者扇動作戦を大抵の人は心底から軽蔑しているに相違ないと想定していたのだけど、実はけっこう多くの人がそのイベントに合わせ購買行動を起こしているらしい(niftyの簡単なアンケートによると男性は五割、女性は七割)。仮に日本中の小売り施設がそんな押しつけがましいイベント悪臭で満ち溢れていても、十中八九の人はそんなのを意図的に無視していると確信していたのに。

この奇妙な消費現象をどう見ればよいのだろう。母親にカーネーションを渡したり父親に酒を贈ったりする人々の気持ちを私は「理解」できない。つまり情を同じく出来ない。断っておくけれど私と両親は決して「不仲」ではない(はずだ)。ものすごい暴力をふるわれたとかネグレクトされたとかそんな覚えもない。いわゆる「毒親」ではないと判断している。不満があるとすればこの両親が億万長者ではないことだけなのです。そのせいで私は一生寝て過ごせないかも知れない。今ももらえるものは何でももらうけれどお礼は一切しないという、ごく平凡な関係だ。

それでも「プレゼントを贈りたい」という欲求をこれまで一度も抱いたことはない。いったいどんな思考や感性を経ればそういう行動を起こせるのか不思議でならない。本当に分からないのだ。まして三十超えて一緒に旅行などなぜ出来るのか。勘弁してくれよ。例によって男と女の違いもあるのかも知れない。男のほうがこういうイベントには淡白だとは平生よりよく耳にするところ。それでも日本の男のマザコン率は半端じゃないのでやっぱり結構多くの人が何か手渡しているのだろうか。

ことによるとこれは地球外知的生命体の心的機構を理解するよりも難しいことなのかもしれない。あるいはそういう行動を理解できない私が変なのか。「非情」なのか。ついでに言うとはじめての給料で両親にプレゼントを買いたがる連中のこともよく分からない。当然ながら人の誕生日がなぜおめでたいのかも昔から全然分からなかった。そういう記念イベントに何気なくのっかかれるノリを、私は永遠に理解できないと思う。とまれ具体的な行動を起こす起こさないは別にして、世の大半の人は感謝イベントというものに大した違和感を持たないらしい。こういうのに気味悪さを感じぬ人と一時間以上お酒を飲むのはかなりきついだろうな。いつか必ず口論に行き着く。

いったいに私は「いまこそ感謝を伝えよう」という類の言説が鬱陶しくてしようがない。その理由や対象が何であれ、「贈り物」や「言葉」が大々的なキャンペーンのなかで推奨されていることに虫唾が走る(最近もあったよね、あれだよあれ)。私は生まれてから今まで「いつもありがとう」なんて言葉を直接他人に発したことがないし、これからも発することはないだろうけれど、それは、そんな紋切り型の芝居がかったセリフを口にできるくらい純朴ではないし、無神経でもいられないからだ。だいたい「ふだん言えない事」をイベントに乗じて言ってしまおうという、その魂胆が卑小です。俗人の嫌なところだ。

こういうセリフに特有の「言わされている感」に私は耐えられないし、どこの誰が決めたのかもハッキリしないイベントにまんまと呑み込まれてしまう愚直さにも耐えられない。「いつもありがとう」なんてセリフを口にできる神経は、「花は咲く」とかいう「キャンペーンソング」を何の羞恥もなく歌える神経とほぼ同一のものだろう。

そもそも私は「自分を育ててくれたこと」にどうしても感謝できない。人間を育てるという理不尽で悪趣味な苦労をあえて「選択」したのは向こうなのにどうしてこちらが「負目」のようなものを抱かねばならないのか、昔から素朴に疑問なのだ。むしろお前らこそ俺に感謝して金でも渡せ、という気持ちしかないのですけど、この偽らざる気持ちがわかりますか。こんなふうに感じられる人のほうがよほど正直ではありませんか。

いったいどっちがズレているのか、いずれもっと詳しく考察してみましょう。

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