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ときには自文自賛したいのよわた

メフィストーフェレス 私はね、もし自分が悪魔でなかったなら、
いっそ悪魔に身を売っちまいたい位の気持ちでさ。

(ゲーテ『ファウスト』高橋義孝・訳)

こんにちは。あなた変わりはないですか、日毎寒さがつのりますが、僕はというと着てはもらえぬセーターを寒さこらえて編んでいる日々です。
年の暮れ近く、頼まれてもいないのに一年の総括をし出すアホどもがぞくぞく湧き出て来る時分ですが、僕は一年通して「良い事」なんてほとんど無かった上に、「読書・散歩・オナニー・酒」とほぼ判で押したような日課をひたすらこなすだけの日々しか送っていないので、そんな野暮なことはしません。
ただ今年このnoteでどんな下らなことを書きなぐったかをちょっとくらい振り返ってもいいですかね。分量としては今年けっこう書きましたよ。書いている間は酒を飲んでいる間と同じような悦楽に浸れたね。ひたすらおのれを慰撫し奮い立たせるためだけに書いているので当然なんだけど。いま通して読んでみると、精神悪化ならびに生活堕落の道程がよく分かってすこぶる面白い。本当いうとnoteのエディターで「埋め込み」を一回利用したかったのだ。

今年つまり二〇二二年最初の記事は「あまりに地獄的な」という明らかに芥川を意識したようなエセ文学的タイトルで、さっき羞恥心を押さえながら久し振りに読み返してみましたが、あいもかわらず怨嗟と悔恨の雑言が濃縮的に滞留しており、こんな禍々しいものをいったい誰が読むんだと慨嘆しました。もしまいかい僕の文を最初から最後まで読んでおられるかたがあるとすれば、そのひとは僕同様かなり「病んでいる」可能性がありますよ。
冒頭の「カリスマ予備校講師」というのは具体的には林修だろうか。さいきんもサントリーのサプリかなにかの広告で見かけた。いったい予備校講師とサプリの間に何の繋がりがあるのか、問うだけ虚しい。
いわゆる学歴コンプレックスの呪縛をいまだに逃れられないいばかりか、年を重ねるごとにますますその呪縛の強さを実感せざるをえない今の私にとって、河合塾だの東進ハイスクールだのの「夢にあふれた」広告は目に毒過ぎて見るのが苦しい。将来を見据えていそうな凛とした受験生を視界にいれるのも辛いことがある。「敗残者意識」がますます募る。じつはそんな人、口に出さないだけで結構多いのかもね(さいきんの私は文のリズムを重視するため、このように助詞を好んで省きます。将来的に「日本語」からテニオハが消失してもいいと思っている)。

そのちょっとあとに「フェティシズム」について書かれた記事があった。なかなかいい。さすが俺。俺のツボがよく分かってるね。俺の言いたいことを的確に言い当ててくれる。なんか自動的に年齢制限がかかっていたのは性器の名前とかが出て来るからか。判断基準が小学生低学年か。
このころたしかフェミニズム系の本を立て続けに読んでいたから、ジェンダーとかセクシュアリティについての記述がけっこう目立ちます。僕は「同性愛」という自己規定が強いからか、男たちつまりホモソーシャルで盛んに展開される「猥談」にはむかしから辟易していた。男子たるもの「女好き」なくらいがちょうどいい、みたいな「マッチョな価値観」にぜんぜん馴染めなかった。小学生のころなんか、いじめられてよく泣いていたからね。そんなときむしろ僕は女たちに守られていた。そうした「情けない経験」とも相俟ってか、私には「男らしさ」についての複雑に歪んだ「憧憬」もある。「中性的で優しい男」に性愛的親近感を覚えながら、いっぽうで「強くて逞しい男」に抱かれる夢も見る。やさしい男に抱かれながらも強い男に惹かれてくという「矛盾」はなにもジュディ・オングに限ったことではないのだ。『魅せられて』を知らないなら、あとでユーチューブで聴いてください。ともあれこんご僕は、内なるミソジニー(女性嫌悪)と内なるミサンドリー(男性嫌悪)の相互力学を、どれくらい仔細に分析できるだろうか。「自分の性愛」というのは「自己欺瞞」を回避しながら論じることが極めて困難な領域なのだ。だって父親とか母親とか兄弟との関係が絡んでくるからね。踏み込み過ぎると「気持ち悪い」わけだよ。この「不快」に身をさらしたくない人は性愛の研究には向いていないかも知れない。

自分の醜悪な過去記事を掘り返しつつ一言二言並べるのはあんがいに楽しい。こんなオナニーみたいなこと許されるのか。まあいいや。

この記事はなかなか読後感が良かった。男子学生への僕の偏愛ぶりが露骨に過ぎる点をのぞけばだけど。良心的労働拒否のオナニートとして、就活糞喰らえ精神はいまの私にも根強くある。いまさら新卒一括採用だとか集団リクルートスーツの気味悪さなんて言い古されたことを飽きずに言い立てるつもりはない。就職活動への私の嫌悪はそんな表層的な苦言と見合うようなものじゃない。
そもそも私は「雇用関係」の従属性を呪っている。賃金労働そのものを拒絶している。自分の「労働力商品」として何ものにも売り渡すことに我慢できない。あえて宮台真司流にいうなら、「社会という荒野を仲間たちとアナーキーに生きて行きたい」という願望を持っている。「金がないと食っていけない」といった世に遍在する「自己脅迫」を一度爆砕したくてならない。限られた椅子を巡って「就活生」を互いに競わせる、「財界による分割統治策」にはもう心底ウンザリしている。「偏差値」だとか「社会的信用」だとか「経歴」だとかいう腐れチンポみたいな尺度で「俺という唯一者」をかってに「査定」するな。人材派遣会社も労働市場もぜんぶまとめて爆発しろ。
まあアジテーションとして腹蔵ないところを叫ぶなら、こんなところです。「お前の話は非現実的(unrealistic)だ」とおっしゃるか? 「国」の隅々にまで浸透した社会経済システムにすっかり飼い慣らされている〈善良な市民〉にとっては、そうかも知れない。デヴィッド・グルーバー『官僚制のユートピア』(以文社)でも論じられていたが、レアル・マドリードのレアルでもある〈real〉という語は「王室の、国王の」という意味でもあり、つまり一般的に口にされる「リアリズム」とはごく粗っぽくにいうなら、「国家の基礎的な権威機能を根拠にしている」ということなのだ。そうした権威機能はほとんどたいてい「軍隊」や「警察」といった暴力装置によって保持されている。してみると「お前のビジョンはリアルじゃない」とは即ち「お前のビジョンには暴力装置を背景にした実行性が見込めない」ということなのだ。まあこのへんのことを詳しく知りたい人はデヴィッド・グルーバーの本を読んでください。

もうそろそろこんなオナニー的追想に区切りを付けないといけないね。自分だけが盛り上がってるいちばん寒いパターンじゃん、これ。


このタイトルを僕はたぶんに気に入っている。
ひとえにこの「シン・ニート」という言葉を使いたかった。それまでずっと機会をうかがっていたのだ。いってしまえばこれはタイトルだけで書く欲望のほとんどが充足された記事といっていい。いやもちろん中身もヤブレカブレでそれなりに面白いよ。おうおうにして人は表題で「全て」を語りおおせた気になれる。パトリシア・ハイスミスの中篇に『頭のなかで小説を書いた男』というのがあるけど、タイトルだけ発案しそこから想像をたくましくしているうち実際に書き出すことなどどうでもよくなることもある。

それにしてもやはりおのれの文章を読むのは愉快だな。自文自賛は痛いって? いいじゃないですか。どうせ誰も褒めてくれないんだから。自分にくらい褒めさせてくれ。俺くらいストイックにクズ道を究めると世間のいろんな嘘と欺瞞がありありと見えるんだ。失うものもほとんどないから誰だろうが糞味噌に罵倒できるし嘲笑できる。「存在の惨めさ」を悪口雑言のマグマ的炸裂でかりそめに充足させ続けているのさ。私が「言論の自由」や「表現の自由」を重んずるのは、そのためなのです。なんかきょうは「正義の社会派」みたいで、かっこよくないですか。こんなアル中オナニートでもいちおう「人権を守れ」とか言いたくなることがあるのです。むろんエゴイスティックな理由でだけど。

じゃあね。

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