「なぜそもそも人は倫理的であるべきなのか」と超人志向の友に問い詰められて

れいによって四リットル三千円以下の粗悪ウイスキーを飲みながら腐れ縁の馬鹿友と夜通し議論した。どっちも死ぬのを待っているだけのアル中廃人だから「生産的な話」などほとんどしない。昨夜はもっぱら「倫理」について口角泡飛ばし合った。私は、人間は、自分の所属している共同体の慣習や自分の気質に反逆してでも「倫理的に判断もしくは行動すべき」と「信じることに決めている」。私自身は極めて没倫理的な判断もしくは行動に傾きやすい人間だが、それでも「存在意識を有している能動者」は常に「倫理的であるべき」であり、そこには「個人的事情」や「集団的事情」などまったく関係が無いなのである。
ドイツ文学を専攻していたニーチェアン気取りの彼は倫理なんかどだい無根拠だと主張する。私はいつもそれに対して「まずは倫理と倫理学を区別してほしい」と応答する。倫理学は「そもそも倫理とはどのような根拠に基づいて立てうるのだろうか」といった内省・分析的観点を持っている。定立されたある倫理を相対化するこの手続きには終わりがないかも知れない。でもそれでいいのだ。「終わりがない」という事と「無根拠」という事は違う。なんかそんなふうなやりとりを八時間くらいした記憶がある。といっても途中から二人は乱酔の余り全裸になってしまい、彼なんかはバルコニーに飛び出して内側にチンカスがバターみたいにこびりついてそうなドス黒い包茎チンポをしごきながらフランク・シナトラを歌いまくる有り様だったのでまるで議論にならなかったけれども。ほんとどっちも生きているだけで酸素の無駄だからコンクリート詰めにして日本海に沈めたほうが人類のためですね。むろんそんな暴力的行為は「倫理的」に誤りなのですが。

ところで「そもそも人はなぜ倫理的であるべきなのか」といういわゆる「why be moral」問題は、プラトン時代までさかのぼることの可能な悠久な伝統を持つ設問らしい。私はほんらい、倫理もしくは倫理学という人間事象に関わり過ぎる問題にはあまり思索欲を刺激されないタチだったのだけど、暴力を暴力とも思わない無邪気で粗暴な御仁を見ているうちにイライラが気が付けばかなり募っていて、私のようなゴロツキでさえどうしても「すみません、それはさすがにやばいんじゃないっすか」と不遜にも一言たしなめたくなってきたのだ。ほんとうはもう、怒髪天を衝きつつある。

いま私はマーク・ボイルの『モロトフ・カクテルをガンディーと(平和主義者のための暴力論)』(ころから株式会社)という本を読んでいる途中だ。小粋なタイトルだけど中の論述は峻烈を極め、いちおう現代でも最大の暴力装置とされている国家をはじめ、組織的な食肉産業やグローバル巨大企業に内在する暴力性がこれでもかと手際よく剔抉されている。また、リデュース・リユース・リサイクルなんてお題目に終始する資本主義的エコロジー運動や、産業社会にすっかり飼いならされた消費者的市民、なまぬるい非暴力主義に安住する学者、サヨク的自己満足に過ぎない反体制運動などもつぎつぎ俎上に載せられていく。『ぼくはお金を使わずに生きることにした』の著者らしく、実践的でありながらも内省的で激しいプロテスト精神が行間にみなぎっていて、読んでいるだけで怒りの活力が込み上げて来るようだ。この著者が闘っている暴力はむろん私も真剣に闘わなければならない暴力だ。その点にまったく異存はない。
しかし残念ながらこの著者は「生きるために他生物を食うこと(捕食)」の暴力性は認めようとしない。ここに私は反発する。「ふざけるんじゃない」と胸倉をつかみたくなるほど。生きるためだろうが何だろうが「他者の生命活動を能動的に奪うこと」はやはり暴力に他ならない。そこにはやはり暴力的主体としての「疚しい自覚」がなければならない。「自分らは残酷な暴力主体であるから本当は一日でも早く死ぬべきなんだよな」といった痛烈な自己否定感情がそこになければならないはずだ。人間は「暴力的であっても生き伸びたい」という自己愛的欲望と「死ぬことで自分の暴力性を否定すべき」という倫理的判断の間でいつも引き裂かれていなければならない。この調子だとおそらく著者は、「子供を産み育てること」に伴う暴力については糾弾するつもりがないだろう。「人間も含めたあらゆる生物が生殖活動によって増え続けること」に伴う暴力性を直視することはないだろう。人間はもちろん、他の生物個体を食って生命維持しなければならない全ての生物を、私は暴力的だと認識している。なのにこの著者は生物にかかわるそのような「必然的暴力性」をどこか「自然正当主義的」に受容している(つまり「自然」や「本能」は「仕方がない」として倫理的判断の対象外とする観点)。著者のそうしたスタンスを知ったとき、「ブルートゥス、お前もか」的な失望は当然起こりましたが、もうこの手の失望にはすっかり慣れました。落ち込まずに進みましょう。やはりどんなに頭の切れる知識人や良心的な活動家であっても、「捕食」や「出産」のような「本源的な暴力」については、びっくりするくらい盲目的なんだよね。なんでそうなるのか。なんだかんだいって「自己否定」は難しいのかね。もうマジで反吐が出ます。

何をいまさらと鬱陶しがられることを恐れずに述べるけれど、子供(意識のある他者個体)を産み落とすことは「苦痛を経験する可能性に満ちた一定期間の生存を一方的に押しつけること」であり、つまり他者への断わりなしに行使される「明白な暴力」であるから、倫理的にそれは最大限回避すべきである。こんなふうに言えば、たぶん大抵の人は「納得」できると思う。それなりに成熟してそれなりに落ち着いた感性を持つ人なら「そりゃそうだろ、そんなこと言われなくても分かってるさ」となるだろう。他者への避けられる危害を避けるというのは、当たり前のことだ。こんなとき、「生殖は自然の本能だ」とか「でも結構みんなやってるじゃん」あるいは「でも子供いないと人間社会が持続しないよ」なんて言う人がたまにいるのだけど、そんな「自然正当主義的かつ共同体論理に基づいた理由」によって「他者に危害を加えること」を正当化できるはずがない。「避けられるはずの暴力を肯定する理由」などがそんなところにはあるはずがない。かりにも「自律的」な思考力を持つとされている「大人」なのだから、「それは絶対によくないことなのだからたとえ自分以外の全ての人間に非難されることがあってもそれは絶対によくないことだと言い続けよう」という気構えを持つべきだろう。「周りの人間」もしくは「過去の人間」のほとんど全員がその無意識的な暴力を行使しているからといって、自分までその暴力を行使していいわけではない。「みんながやっているから」という「複数他者」を拠り所とする曖昧な論理は、自分個人の暴力行使を正当化する理由には絶対にならない(アウシュヴィッツのことを想起しよう)。そして「それはよくないことだ」という倫理判断を下した以上、可能な範囲内で「それはよくないことだ」と人々に直言するよう努めなければならない。というのも自分が「明らかに良くない」と判断した暴力行使を黙認することは、間接的な暴力行使に他ならないからである。
クズ人間の私も出来るだけそうあるように努めます。私よりもクズではないし頭も優れたあなたに出来ないはずはないのだ。

そういえば、「倫理」と同じような意味合いで使われることの多い「道徳」という言葉を、私は「思索において」は出来るだけ使わないようにしています。私の大雑把な受け止め方では、道徳はどちらかというと、村落共同体のような「ハイコンテクストな相互扶助的人間集団」の秩序を維持するための暗黙の取り決めなのだ。だからたとえば、「皆のものを一人で独占してはならぬ」といったような「規範(掟)」はひとえにその共同体の存立基盤を揺るがしかねない行為を戒めるためのものであり、「人類全てに普遍的に適用されるべき禁止」とか「定言命法」といった絶対性を持つものではない。そうした「普遍性」を前提とした規範を私は原則として、倫理と呼ぶ。

酒の席の議論なんかでこんな定義問題をはじめると瞬く間に異論百出してまったく手に負えなくなるのだけど、おうおうにして私はこの「定義」というやつには心底ウンザリしている。嫌いだ。「厳密な思考」をするのに好きも嫌いもあるか、と叱られそうだけど、何かの定義をめぐるごちゃごちゃした枝葉末節への拘泥のために「本筋」を忘れてはどうにもならないような気がする(逆説的に聞こえるだろうが、私の思う「厳密な思考」とは、「言語使用や論理展開の精確さに執着すること」に伴う堂々巡りに方法上「適切」な見切りを付けることでもある)。定義問題はいったん始まると、最終的にほとんどの場合、同語反復(トートロジー)の空転運動あるいは不毛で些末な語意論争という袋小路に行き着いてしまう。「生き物とは何か」を定義しようとなるとおおむね「細胞という単位からなり云々」「生命を備えて自らの意志で活動する云々」なんてことになるが、すると、「では細胞とは何か」「生命とは何か」「風や地球も自ら活動しているんじゃないのか」なんてそんな「無限追究的」な方向に誘導しようとする発想が活気を帯びて来て、そもそもほんらい何を定義しようとしていたかということを忘れてしまう。なにかについて「本源的」に思索しようと試みたことのある人なら誰でもこうした挫折を経験しているだろう。「存在」「時間」といった根本概念の「定義」をめぐってこのようにいきなり紛糾を来してしまうことを私は、「定義問題」と呼んでいる。このようなことが起こるのも定義の手続きが「言語」に全面依存しているからだ。思考が「言語の営み」である以上、言語を蔑ろにすることは出来ない。日常においてはほとんど無色透明に感じられている言語の「指示的曖昧さ」「表象性」にいちいち躓かざるを得ないことこそ、思考の途方もない難しさを成しているのだ。

「そもそも~とは」という定義をめぐる言語循環のなかに留まる限り、「哲学」的思考は衰弱の一途を辿ることになるだろう。「無矛盾的体系」にみえる数学でさえ「公理」によってすべてを説明できるわけではない「らしい」。六畳一間でオナニーと乱読に耽っていた二十歳ごろの孤独な私は、「疑うことの出来ない明証性」に立脚した段階的論理思考こそ「哲学の正しさ」を保証するものだと素朴に信じていたが、論理記号であれ自然言語であれ、そこに「定義問題に伴う曖昧さ」が介在しないことはありえないと気づいたとき、そう信じることを止めた。言語が言語である限り、「これだけは疑えない」という「直観」に対応しうる「哲学言語」は存在しないのである。先に触れた「存在は存在する」式の空疎なトートロジーがその命題的装いを捨てるとき、換言すれば、「直観的前提までを言語によって語ろうとする意志」をやめるとき、「哲学」はようやくその足場を得る。「哲学言語」ではない足場を。
いまにして思うと、「哲学言語」に固執していた当時の私が、「言語化不可能の明証性を即今ここで認識せよ」と喝破する「禅」に吸引されたのは、「必然」だった。まともな禅文献は、言語は言語で認識は認識だ、という一事をあらゆる手段方便を駆使しながら説きまくる。言語をあれだけ駆使しながら言語を過信しない。地面にしっかり足が着いている。「禅」のそうした「認識への性急さ」を通して私は、「言語病(全てを言語化しなければならないという拘り)」を脱することが出来たのだ。

「言語」とは何か。さしあたり言い得るのは、言語とは「意味の感触」である、ということだ。ある「文字列」がそのまま言語なのではない。その文字列は文字列として知覚されない限り言語とはならない。その形態にかかわらず、言語にはかならず「他者の発語意志」の痕跡がある。その痕跡を感触的に受容する「誰かの意識内容」においてのみ「言語は存在する」。「他者の声」でもそうだ。それがただの「音」としか知覚されない限り、それは「言語ではない」。そこに「発語意志」つまり何らかの対他的方向性を感じ取る「誰か」においてのみ、「言語は存在する」。

私は、「倫理」という「他者の発語意志」の痕跡に触れることで、「本来は誰もがこのように振る舞うべきだ」という無条件の実践的原則の存在を感じる。そんな原則など虚構であってどこにもありえない、と反論をしたくなる衝動は「よく分かるつもり」だ。虚構というパワーワードを駆使しつつ「倫理的原則」や「社会理念」の歴史性・社会構築性をあらゆる論拠を動員しながら指摘し、突き崩そうとすることは、学問的に大変有意義なことだし、痛快この上ないことだ。私も「人権」や「平等」や「自由」などと言った古臭くて押しつけがましい観念群には常に「懐疑的」なのだけれど、だからとって「あらゆる暴力は許される」「世界は弱肉強食でいいのだ」「他人の苦痛などと向き合わねばならぬ根拠はない」といった反動的な没倫理的言明を肯定する人々には、やはりどうしても与することが出来ません。なぜか。いつもそう問われるとたいてい「苦痛は悪だという直観があるから」と逃げていました。すると向こうは、「なるほど苦痛は悪かもしれないが、ではなぜ悪は存在してはいけないのか」とすかさず問うて来る。間髪を容れず私は「悪は悪であるがゆえに存在してはいけないのだ」と答える。さしあたり言語でしか答えられない以上、そう答えることしか出来ない。やはりまたトートロジー。命題論理でいうところの恒真命題。「この真偽を判断しようとしてはいけない」とされている第一前提。肝心な「それ(這箇)」を表示したいとき、哲学者は禅者のように猫を斬り殺したり相手を蹴倒すわけにはいかないのだ。
「明証性」を示すために最初に立てられる「~だから~である」といったトートロジカルな判断内容(命題)にとって、「照合されるべき外部」は存在しない。「なぜ人を殺してはいけないの」という子供の問いに対して「いけないことはいけないんだ」と咄嗟に答える大人たちを私は笑うことが出来ない。人間の愚かさを「人間だもの」の一言で肯定的に片づけてしまう「みつを的マインド」を退けることだって出来ない。

倫理的設問の可能性についてはまだ思うところが多くあるので、続きはまた別の稿で。

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