〈失敗した人生〉の後半は凌遅刑

なんとなく、マスメディア上に出て来る連中に、「嫌な顔」が増えた。つまり「ああもういいよそいつは」とウンザリさせる面付きが増えてきた。二十代の頃はそんなことなかった。いまは始終イライラして情緒が不安定だからかしら。ユーチューブなんかの広告に出て来る「タレント」の顔もほとんどが「嫌な顔」だね。新刊の帯なんかにふてぶてしく載っている著者の顔写真も嫌だね(そもそも著者の顔写真なんかいったい誰が見たいんだ)。爛熟した商品経済のど真ん中にのほほんと居続けると人の顔付きも変わるのかも知れない。私が「愛されたい顔(インスタ顔)」と呼んで心底から嫌っている(女の)キラキラした媚び顔も、そうしたことと無関係ではないだろう。「人生は地獄だ」という内省が刻印されている顔しか、私は信用することが出来ません。さいきんはどこに出かけても人の顔を極力見ないようにしている。自分の面も嫌いだから鏡を見ない。これを私はとりあえず「ガリバー的気分」と呼んでいる。諸国をめぐり人間界に戻ったガリバーは猛烈な人間嫌悪に苦しむけれども、それは人間のなかにヤフー的な醜さをそのまま見てしまうからだった。人間を通してヤフー的なものが見えすぎると、人は自分も含め、何も愛せなくなる。ヤフー的なものについての具体的考察はまた別のときに。

目下ひじょうなる神経症的抑鬱下にあるのだけどさいわいキーボードを打つことはさして億劫ではないので精神崩壊回避策も兼ねて引き続き書きます。私のごとき下衆のなかの下衆がネットの一隅を借りて何かをおおやけに書くなど明らかに身分不相応なのだけど、まあ御寛恕いただきたい。下衆には下衆の魂があり、下衆なりの言い分があるのです(この種の廉恥心なしに人はものを書いては「いけない」という倫理意識はいちおう表明しておいたからね)。

ところで春めいて気温が上がってくるとオナニーしたばかりなのに下半身のムラムラが消えないことがよくある。やりかたが悪いのか。それとも回数が過剰なのか。あるいは(「性的資本」に恵まれた人たちがしばしば言うように)オナニーはセックスの不完全な「代用品」に過ぎないということなのか。だとするとその自覚に伴う無用な「自己憐憫」の克服は喫緊の課題となりそうだ。私は原理主義的オナニストをもって任じていて、「おのれの性的快楽を得るために他人の体を利用するなかれ」という戒律を遵守している。「夫婦関係(契約婚であれ事実婚であれ)」や「恋人関係」のなかには必然的に「強姦可能性」が入り込んでしまう。両者の完全な合意のないまま始められる性行為は、たとえそれがはたからどう見えようが、「暴力」であることには変わりない。私の終生オナニスト宣言はかような暴力否定感情に由来しているのだ。こんご追随者が増えることを望む。え、なんだって? 自慰行為も精子をむやみに殺す以上まぎれもない暴力行為だって? そう指摘したくなる気持ちはよく分かる。だからいずれじっくり探究することにしよう。まあとりあえずですね、性欲くらいは基本的に自分で処理しましょうよ。子供じゃないのだから。風俗に通う男どもよ、聞いているか。

それにしても憂鬱だとか生きるのは哀しいだと叫びながらも毎晩しっかりと自慰だけは怠らない己の獣性的律義さにはほとほと呆れます(獣「俺たちはねんじゅう自慰などしない」)。

せんじつ李琴峰の『生を祝う』という近未来フィクションを読みました。その時代では、胎児に向かって遺伝子や環境を基に計算した「生存難易度」を伝える技術が発達し、生まれるか否かを判断させることが出来る。芥川龍之介の『河童』にもそんな胎児の自由意志問題に触れる箇所があったと思うけど、李琴峰はそれをがっつりそのまま主題にしてしまった。作品の出来不出来とか「作者の意図」などこのさい糞どうでもよくて、生まれることを無条件に肯定する人々に通有の「鈍感さ」に焦点を当てただけでもう十分その役割を果たしたのである。

埴谷雄高は文学作品には「記録型」と「魂の渇望型」があるとそんなようなことをどこかで言っていたが、その分類法によれば『生を祝う』は「魂の渇望型」に属するだろう。「こんな地獄のような生はいらなかった」という数えきれない同時代的魂の叫喚なしに、こうした作品はぜったいに書かれなかった。「時代精神」なんていうといかにも大仰に響くけれど、いわゆる「豆腐メンタル」を自称するような人々がその苦しみや不安や生きにくさをあからさまに吐露したがる潮流、そしてそうした潮流に便乗したメンタルヘルス産業の勃興を見ると、こうした作品が「時代の産物」であることを疑うことが出来ない。ねんじゅうポカポカして労働も学校も病院も存在しない神話的楽園の住人の頭からは、「そもそも人は生まれてこないほうが幸せである」なんてメタ思想は永久に生まれてこないだろう。

「社会」の構成員がみな「自立的な個として自由に自己実現せよ」と陰に陽に命ぜられる現代の日本にあっては、「脱落者」はその「責任」を自分に帰するしかない。「私の生活がこれほど困窮しているのは国のせいだ」とか「俺がこんな惨めな人間になったのはぜんぶ親のせいだ」とか「僕がモテないのは自分を選んでくれない女どものせいだ」なんていくら叫んだところで虚しさ以外のなにものも残らない理由の大部分はそこにある。「何かのせいにする」という糾弾的・他責的振る舞いそのものが「惨めさの上塗り」とならざるを得ない認知習性があらかじめ「共有」されているんだね。自分が「社会的劣等者(負け組)」であることについてのいかなる「弁解」も即「痛いこと」になってしまう以上、そういう人達はいずれ精神を病むか自暴自棄になるかアル中になるか自殺するしかない。

三十を過ぎればおおよそ「自分の将来」が想像できる。冴えない未来が。いまいじょうに陰鬱な苦労に塗り固められた、のっぴきならない未来が。「俺の人生詰んでるな」というこの八方塞がり感は、今後ますます強くなるだろう。これまではなんとか眼をそらせていられたあらゆる「不都合な真実」にじわじわ復讐されるだろう。凌遅刑のように。どうしようか。

ペシミズムをこれ見よがしにもてあそんでいるようにしか映らないかもしれないが、こうした自己憐憫ごっこでもしていないとほんとうに発狂しかねないのです(いやむしろ完璧に発狂して古代のある哲人のように樽のなかで暮らしたり路上でオナニーとか出来たらな)。そんな発狂寸前気息奄々の人が世にかなり多くいると思うからこそ、いまこうして憚りながらも書いている。いつかある人がこの文章に辿りついて「ああ自分と同じことを考えている、そうだ、この世はやっぱり地獄だよな、人生なんて糞ゲーだよな」なんて心を同じくすれば、救われはしなくとも、一抹の慰めは得られるだろう。あれ、ことによると自分がものを書く動機をいささか美化してはいないかな。ちょっと臭い気がする。

みんな避難しろ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?