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人間の実存に「生産性」も糞もあるか!

でかいペットボトルで売られている安物の「ウイスキー」をカルピスウォーターで割るとたいへん美味しい。このごろそればかり飲んでいる。ブレンドは知恵だね。

きのう学生時代の「友人」と飲んでいて何かとイラついた、そしてほとほと虚しくなってしまったので、その分けの一端をここに記して、人間学的考察の糸口にでもしようか。

私は底意地の悪い人間であり、むらっ気の強い人間であり、お愛想の言えない人間であり、ミザントロープであり、穏健な人類絶滅待望論者であり、それゆえ「友人」の少ない人間だ。

知り合いの誰かが結婚しても、私は「おめでとう」なんて絶対に言えない(こんな地獄みたいな世界に「めでたいこと」などあるはずがないからね)。「子作り」は「苦痛作り」だと差し当たり信じているので、「出産祝い」など贈ったこともない。したがって「親孝行」なんて理不尽なタワゴトにしか聞こえない。「お前らみたいなしがない夫婦のもとに生まれてやっただけでもありがたいと思いやがれ」ということでしょうか。「殺さないだけで立派な親孝行」なんて江戸川柳が確かあったけど、これぞ人情だね。

いったい世界に満ち溢れるほとんどものが私を気持ち悪くさせる。人間などいますぐ全滅しろと思わない日はない。「命の尊さ」なんて綺麗事をほざきながら一方で動物を殺して食いまくり、出生前診断を受けて胎児がダウン症と分かれば中絶し、国家が「犯罪者」を絞首刑で殺すことを黙認し、戦争中に「自国民」が別の大陸で殺しまくった膨大な人間のことを意図的に忘却しようとしている。自己憎悪が限界点を超えそうだ。人はどうしてここまで恥知らずになれるのか、教えて欲しい。もし学生時代に文学や禅や哲学に耽溺することがなかったなら、いずれ発狂して通り魔にでもなって全国紙の社会面を賑わしていたと思う。いやそんな肝っ玉ないか。でもたびたび私は凶悪な妄想に耽る。みなさんも凶悪な妄想に耽ろう。何だかんだ言って破壊したいものがいっぱいあるだろう。殺してバラバラにしたいくらいムカつく奴も幾人かはあるだろう。どうかそれは妄想のなかだけで成就させてください。「実在の他者」には攻撃を加えないで欲しい。なぜというに、私は苦痛の存在をひたすら憎むから。苦痛を憎む私が苦痛の原因となりうる暴力を肯定することは出来ない。もし「正義」なるものを想定するとするならそれは「世界の苦痛を極小化する意志」であって他ではない。なんか話が全然違う方向に逸れたじゃないか。

とまれ、私は「感性」にきょくりょく忠実でいたい人間なのです。「いまここに渦巻いている感情」に背を向けることは、したくたない。そんな鉄壁の方針を周りの誰にでも貫いているから、大体の人は呆れ果ててやがて遠ざかってしまう。確かにやけに寂しいときもある。でも体質は変えられない。「この社会」にうまく溶け込んでいるように見える「不気味なくらい素朴な人間たち」と、どうしても慣れ合うことが出来ないのだ。そんな奴らを目前にするとジャーマン・スープレックスでも食らわしたくなる。

それで、その学生時代の「友人」と飲んだ話に戻るのだけど、ごく端的にいうと、私はそのとき、もう彼と話したくはないと思った。会うのはこれが最後でいいなと強く感じた。絶交でいいや、と。

というのも、とちゅう彼が私の「格付け」をし出したから。「俺の職場にはちょっと頭の変なやつがいるんだけど、よく考えたら、お前よりは社会的生産性もあるからマシかもな」みたいな調子で。

ああ、私はその種の物言いが心の底から嫌いなのだ。私は「他人と比べられる」のが無条件に嫌いなのだ。大嫌いなのだ。はんぶん冗談のつもりでも許容できないのだ。自分が他者の本質的優劣を判断出来る主体であると思っているあの「度し難い無神経さ」を前にすると私は絶句する。

かりにも初対面から十年以上経過しているのだから、そうした類の物言いを私が極度に嫌っていることくらい知っていて「欲しかった」。いったい「友人関係」というのはそうした気遣いの上でしか維持できないのですよ。たしかに彼は以前からそんな傲慢的言辞を口にしていた。でもさほど気にならなかった。彼の口ぶりや私の機嫌も関係していたのかも知れない。ただ今回でスリーアウトチェンジだ。もう俺の前から消えろ。いや俺のほうから立ち去るよ。

「生産性」という経済用語が日常の言葉と化して久しい。それを伝家の宝刀のように振りかざす人間は今日どこにでもいる。ガキのころから既に「生産性」の「尺度」に慣らされているのだ。また時代柄なのか、「スペック」という、もともと工業製品の仕様書を指すはずの言葉がしばしば人間に向かって使われている。「路上生活者」や「生活保護受給者」をひとまとめにして「あいつらは生産的じゃないから俺よりはるかに劣等」と本気で信じている人間はそこらじゅうにいる。「高額納税者の僕ちゃんにとってあいつらの存在は無価値だし邪魔なだけ。それより僕ちゃんの納めた税金は可哀そうな猫ちゃんたちを助けるほうに使ってほしいっ!」なんてほざいたりしてね。そんな邪悪な凡庸さ全開の馬鹿はさすがに実在しないだろうけど、想像するとおぞましくて反吐が出ますわ。

人は常に他人の格付けをしていないと「自己の耐えられない曖昧さ」のために気を病んでしまうのかも知れない。人はいくばくかの優越意識を感じずには堂々と街を歩けない。まともに人と眼も合わせられない。ことによると勃起も出来ないのかも知れない。そんな相互格付けクラブ的社会のど真ん中で「そんな腐った尺度は捨てろ」なんて叫んでも無力だし、滑稽だ。「実存について優劣を云々するなんてそもそもナンセンスだ」なんて青筋立ててみても虚しい。

私がその「友人」の前で感じた虚しさは、そんな虚しさなのだ。暖簾に腕押しの虚しさなのだ。そして、「ブルータスよ、お前もか」的な、そんな虚しさなのだ。虚しいときはどうするか。虚しくて他になす術が無いときはどうするか。悪魔的に哄笑するがいい。

泣くが嫌さに笑い候、というのはユーモアの本質。その鬼っ子のブラックユーモアも例外じゃない。生きることは悲愴で、どうしようもなく痛々しいことだから、笑い飛ばすしかないのだ。気が付けば古今のブラックユーモアを収集することに余念のない私の胸にはいつも乾いた風が吹いている(感傷に耽んなボケ!)

こんど「後生鰻」という落語と、ロアルド・ダールの「豚」という短編を紹介するつもりでいます。愉快にいきましょうや。

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