サンショウウオ feat. マルクス
1
ハケン(ロウドウシャ)は悲しんだ。
彼は彼の勤めているカイシャを思い切って辞めようとしたのであるが、貯金が底をついていて、辞めようにもそうするわけにはいかなかった。なら、貯金がある程度できたら辞めよう、とも思う。だが、彼のお給料は最低賃金すれすれで、貯金しようにも一向に貯まらない。“お先まっ暗”とは、こういうことをいうのだ。たぶん。
「なんたる搾取であることか!」
とはいえ、自ら生産手段をもたず、労働力しか売れる商品がない彼にとって、搾取されることは之すなわち、生きるために残された唯一の道であり、必然である。彼は、会社の中で、あたうかぎり“自分”というものを押し殺すことに決めた。人々は、自らの労働環境に対して希望を見失ったとき、往々にしてこんな風に“自分”を押し殺すものである。けれど、ハケンのメンタルは、“自分”を押し殺すにはあまりに弱かった。押しつぶされた“自分”は、過不足なくストレスへと転移され、そして、ストレスは彼をしてアルコールへと向かわせる。彼のなけなしのお給料も、生活費を除いた残りは、全てチューハイ代に消える。彼は、缶の底にわずかに残ったチューハイをちびちびすすりながら、あたかも一つの決心がついたかのごとくつぶやいた。
「いよいよ辞められないというならば、俺にも相当な考えがあるんだ。」
しかし、もちろん、彼に何かうまい考えがある道理はない、のである。
2
ある日の昼休み、ハケンは、同僚がビットコインの取引に興じているのを、横目でちらちら眺めていた。同僚のディスプレイには、何やらビットコインの値動きらしいチャートが映っている。別に見ようと思って見ているのではない。週刊誌の袋とじが視界に入ったときのように、ついつい目が行ってしまうだけだ。
ハケンは、ビットコインを含め、株だろうが、FXだろうが、チャートを見つめるのを好まなかった。ああ、チャートとは、なんと愚かな習性をもっていることであろう。ケインズの言う通り、人々が“美人”だと思えば上がり、人々が“ブス”だと思えば下がる。相場はまるで、ミーアキャットのようにいつも上役のご機嫌を伺っている課長のようだ。あるいは、スピンの向きが回れ右のように一斉に変わってしまう、イジングモデルの相転移のようだ。
ランチを済ませ、多くの社畜がウトウトし始める12時45分ごろ、聞こえるか聞こえないかくらいの音で、同僚が「ア゙ッ」という声を上げるのを、ハケンは耳にした。条件反射的に同僚のディスプレイをちらりと、これまた横目で見てみると、なんと、チャートが急上昇しているではないか。この上がり方だったら、官能小説の中でXXXの例えとして使えるレベルだ、とハケンは思った。そして、激しく嫉妬した。ハケンは、こうした日に飲むチューハイの味を好まなかった。胃がかえってムカムカし、気分も当然晴れない。やはり、他人の不幸をアテにしてこそ、チューハイはうまいのだ。
しかし、こんなハケンにも、チューハイがたいそうウマい日は、当然だが、やってくる。疲れに疲れ切った多くの社畜が惰眠をむさぼる12時50分ころ、今度は、聞こえるか聞こえないかくらいの声で、同僚が「ヴッ」という声を上げるのを、ハケンは聞き逃さなかった。パブロフの犬よろしく、懲りずに同僚のディスプレイを横目で見てみると、案の定、チャートが急降下している。ウッシッシッ。ハケンは、心の中で密かにつぶやく。
「チャートの上げ下げで一喜一憂しているやつはばかだよ。」
彼らは、メダカの群れと何ら変わりがない。チャート(群れ)が上によろめけば、気分もあわせて上にあがるし、チャート(群れ)が下にふらつけば、気分も一緒に下にさがる。彼らには“涅槃”というものがない。彼らのうち、ひとりだけが、他の多くの投機家=マネーゲーマーから自由に遁走してゆくことは実に困難であるらしかった。
「なんという不自由千万なやつだろう!」
ハケンは、風呂上がりにチューハイ缶のプルタブを引きながら、同僚のことを嘲笑するのが、いよいよ愉快であった。
3
春、ひとりの新入社員が入社してきた。新卒で、海老名という名の22歳、男である。聞くところによると、この海老名は、社長のいとこの、そのまた甥にあたる“期待のルーキー”なのだそう。しかも、名門のKO大学卒だという。そして、もちろん、正社員。
年度初めから1か月経ったGW明け、ハケンはミスをやらしかた。まだ公開前で社内秘であったPPT資料を、課長にメールで転送する際、誤ってCCに社外の取引先の人まで入れてしまったのだ。これには、課長も激怒した。
「何やってんだ、オイ!お前に情報セキュリティ意識ってもんはあんのか、え゙え゙?メールを送る前は、“必ず”宛先をチェックしろ、と毎回、口酸っぱく言っとるだろが。辞めたかったら、いつでも辞めていいんだぞ。お前の代わりなぞ、いくらでもいるんだからな。わかったか、このボケッ!」
これに対するハケンの返事は、もちろん、一言「申し訳ございませんでした」だった。
その明くる日、今度は海老名がミスをやらかした。取引先から来たメールだと勘違いして、間違ってウイルスの入った添付ファイルを開いてしまったのである。これにより、社内のネットワークが、ところどころウイルスに感染してしまい、社内がてんやわんやの状況に陥ってしまった。情報システム部門の努力により、このウイルスの1件は、なんとか数日で収束したものの、完全に事態が収まるまでには、さらになお1週間程度要してしまった。
日常業務が再び滞りなく出来るようになった5月某日、朝礼での課長のあいさつは、ハケンの耳を疑うような内容だった。
「ええ、今回のウイルスの1件は、ホントみなさん一苦労しましたね。しかし、まあ無事収束してよかった。被害も最小限に抑えられたようですし。あと、本件は、海老名君にとっても大変貴重な経験になったと思う。海老名君は多少おっちょこちょいなところもあるが、これからもミスを恐れず業務に励んでいただきたい。いや、というより私は、いつも失敗覚悟で業務に臨んでいる海老名君のその姿勢を、みんなに見習ってもらいたい、とさえ思うのだ。」
その日の朝礼中、海老名の顔はニヤニヤしっぱなしだった。ハケンは内心こう思った。
「仕事中もニヤニヤしているヤツはバカだよ。」
しかし、そういうハケンも実のところ、課長の前ではいつもニヤニヤ、笑顔を崩さないのである。とはいえ、これは表向きの話。光あれば影あり。心の中では、笑顔なんてそんな生易しいもの、あるわけがない。代わりに自分のことを失笑するので精一杯だった。ああ、亦むなしからずや。
ハケンは、どうしてもカイシャの外に脱出せねばならぬ、と決心した。そして、カイシャを出ていったあとの生きるアテを探すため、全力で脳みそをふり絞った。しかし、それは再び徒労に終わった。なにせ、錙銖ほどのアイディアさえ思い浮かばない。また、このとき、彼の預金口座の残高をすべて足し合わせてみても、34,050円しかなかった。もちろん、この足し算に使用した計算機は壊れてなんかいない。
彼の目からは涙があふれた。
「ああ、資本主義様!あなたは情けないことをなさいます。私が資本の本源的蓄積に気づかず、うっかりしていた、という、ただそれだけの理由で、一生涯私をこのような非正規雇用の身分に閉じ込めてしまうとは横暴であります。私は今にも気が狂いそうです。」
諸君は、発狂したハケン労働者を見たことはないだろうが、このハケンにいくらかその傾向がなかったとは誰が言えよう。諸君は、このハケンを嘲笑してはいけない。すでに彼が、腐りに腐りきった“令和ニッポン”という高度資本主義社会につかりすぎて、もはや我慢がならないでいるのを、了解してやらなければならない。
「ああ、資本主義様!どうして私はいつまでも非正規雇用から抜け出せないのです?」
ところが、翌6月、ハケンの努力が実った、かのようにみえた、ことがあった。ハケンの考案による、あるツイートを会社の公式ツイッターに投稿したところ、これが予想外にバズったのである。1万“いいね”がつき、ツイッターのトレンドにも上った。おかげで、会社の6月の売り上げも、前年同月比で30%延びた。
しかし、浮世はそう甘くはない。この件で社長表彰を受けたのは、なんとハケンではなく海老名の方だった。なぜなら、名目上は海老名こそ、この度新たに会社公式ツイッターを立ち上げた、SNS運用プロジェクトリーダーで、“責任者”であったからだ。おいしいところは、海老名が一滴残らず吸い尽くす。ハイエナのように。そして、ハケンの眼前には、ハイエナによって食い尽くされた、シマウマの骨が残るばかり。
とはいえ、ハケンもこの度、社長表彰に1社員として、1観衆として、そして1脇役として出席せざるをえなかった。ハケンは、海老名が社長から賞状を受け取る姿を、うつろな瞳で眺めていたが、やがて彼はむしろこの茶番から目をそむけたほうがいい、という結論に達した。
彼は目を閉じてみた。悲しかった。彼は彼自身のことを、例えば、マルクスの『資本論』にでてくる、イギリスの工業プロレタリアートであると思ったのである。ハケンは閉じたまぶたを開こうとしなかった。すると、遠くの方から課長の叱責が飛んできた。
「おい、そこのハケン、式典中に居眠りなんかすんじゃねえ!この模範的で、しかも凛々しい海老名君を見習わんか!しかと刮目せよ!」
どうやら、ハケンには、まぶたを開いたり閉じたりする自由すら、この社内では与えられていないようだ。その結果、ハケンの心の中では、精神科医でなくても分かる当たり前の現象が起きたのだ。彼の心はブラックアウトした。いやはや、やはり私の筆力では、このときハケンの心に生じた暗闇の暗さを描写しきれない。誰しもこの深淵の深さ・広さを言い当てることはできないであろう。その暗闇は際限もなく広がる深淵であった。
どうかみなさんに再びお願いがある。ハケンが取り憑かれたようにマルクスの『資本論』に没頭していたことを、軽蔑したり、あるいは“アカ”だとか“ダサい”だとか、はたまた“時代遅れ”だとか“20世紀の遺物”だとか、言わないでいただきたい。精神的によっぽど追い詰められた人間でない限り、誰が本屋に行って、何千ページもある、しかも長ったらしくて、わけのわからない『資本論』を手にとったりするだろうか。
「ああ、痛いほどプロレタリアートだ!」
ハケンは早朝、チューハイの空き缶をゴミ置き場の資源ごみのスペースに置きながら、そうひとりごちた。
その年の夏、海老名は早速ボーナスを手にしていた。もちろん、非正規社員たるハケンにはボーナスは支給されなかった。地獄耳の持ち主であるならば、ハケンのすすり泣きの声が、オフィスの外までもれているのを聞き逃しはしなかったであろう。
4
貧乏に陥っているのを、いつまでもその状態に置いておくのは、絶対悪である。昔から「赤貧洗うがごとし」とか「貧すれば鈍する」とかいうではないか。というわけで、ハケンも好ましくない性質を帯びてきたらしかった。そして、ある日のこと、ツイッターのタイムラインに映し出された1行のニュースに、ハケンは理性を失うほどの怒りを覚えた。
「おれは、こんなにもがんばっているのに...しかも、働かずに金までもらって、しかも、その金でギャンブルに手を出すなんて...」
ハケンは、むしゃくしゃした。だから、このツイートに対してこうコメントした。
ハケンは、このニュースで取り上げられている人物を自分よりも下に置くことで、爽快感を覚えていた。
「ツイッターで正論を言うのも、なかなか気持ちいいものだな。」
一分の寸暇が過ぎた。
先ほどのハケンのコメントに対して、早速リプライがきた。サヨク系とおぼしきアカウントからのリプライである。
そうして、彼らは自ずとツイッター上で口論を始めたのである。
彼らはかかる言葉を幾度となく繰り返した、翌日も、その翌日も、同じ言葉で自分を主張し通していたわけである。
やがて1年の月日が過ぎた。
ある日、ハケンが、チューハイをゴクゴク飲みながら、ツイッターのタイムラインに目を通していると、トレンドに見覚えのあるアカウントが。あのとき、ハケンの生活保護バッシングに反論してきた、例のサヨク系アカウント @UupaaruupaaDaisuki だった。そこには、こう綴られていた。
ハケンは、なぜこのツイートが10万リツイートされている(1リツイート=1円だったら、ハケンの預金残高より多い!!)のか、わけがわからなかった。自分は今、1917年のロシア革命の渦中にでもいるのだろうか。頬をつねってみた。痛かった。冷静に考えれば、そんな時代にツイッターなんて代物、あるわけがない。やっぱし頬が痛む。スマホのカレンダーを見てみた。2021年だった。
が、ハケンがこのツイートを見逃す道理はなかった。彼は、スマホの発するブルーライトに照らされた瞳に友情をこめて、こうリプライした。
ハケンは答える。
ハケンは続けてリプライを送る。
相手の派遣労働者は極めて遠慮がちに答えた。
おわりに
こんなくだらない文章、最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。
参考文献
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?