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「連載小説」姉さんの遺書7

    (赤いチューリップの章)
           花言葉『始まり』


「あ〜ぁ、また太っちゃった」
ユカリこと本名 植野ゆかりは、引っ越したばかりの部屋のソファに座って、脇腹をつまみながら溜息を洩らした。
真新しい白い家具で統一されたリビングは、ゆかりが夢見た女子大生のインテリアその物だ。寝室のダブルベッドの存在感だけが、ゆかりのこれからを無言で示唆しているようだった。

高柳健三との契約を了承してから、ゆかりの生活は一変した。1DKの新しいだけが取柄だった安普請のアパートから、健三の会社が保有するマンションの一室を与えられた。

健三は用心深い男だった。
ゆかりとの契約を交わす前に、自分の会社が使っている興信所に「植野ゆかり」の身辺調査をさせた。ゆかりは学歴も家族構成も出身地も偽っては、いなかった。書類上は何の問題もなく、ゆかりは健三の思惑どおりに亮一の愛人に納まった。

健三のたった一つの誤算は企業に委託された興信所がこの年頃の若い娘に詳しくなかった事だ。ましてや、ゆかりはキャバクラに勤めていた。


ゆかりは毎日服用している白い錠剤を飲もうかどうしようか悩んでいた。
「ピル」は毎日服用しないと効果が薄れる。副作用は殆どないと言われているが、ゆかりのような体質の女は薬のせいで「太る」と信じ込んでいた。

「どうしようかな~」
ピンクのルームウェアから出る太股は、ぱんぱんに張りつめ若さを強調するには充分過ぎるほどだ。
現代では「産婦人科」に行かなくても、この手の薬はネットで簡単に手に入れることが出来る。企業を専門とする腕のいい興信所は、そこまで調べる事は出来なかった。

ゆかりの当初の計画では一年契約をして、大学の学費を出させ、生活費と小遣い稼ぎの末に健三の一人息子と別れるつもりだった。

「おじさま、出来なかったの。ごめんなさ〜い」

甘い声でしなだれ掛れば、健三もそれ以上の要求はしないだろう。そもそも「妊娠」は相性や時の運が作用する。
二千万は大学生のゆかりにとって大金だが、「出産」は女性にとって命懸けの大仕事だ。
愛してもいない男の子供を妊み、悪阻でゲロにまみれ、大きな腹を抱えて痛みに耐えるなんて幾ら貰っても割に合わないとゆかりは思っていた。

若いゆかりはビジネスライクにこの話に飛びついただけだった。
(バカなおじさま、ううん、バカな男共)
心の中で舌を出していた。


それが…

初めて亮一を紹介されたのは、老舗のフレンチレストランだった。分厚いドアを開けると歴史掛かった調度品や絵画、白い百合が生けられた大きな花瓶が、ゆかりを迎え入れた。

「いらっしゃいませ。植野さまですね。お待ちしておりました。お連れ様は既にお付きでございます」
背筋の伸びた初老の紳士が、作法ブックの手本のような会釈をした。
「こちらでございます」
穏やかな微笑みを湛えたエスコートで、個室にゆかりを案内した。毛足の長い絨毯がハイヒールの踵を弄んだ。

「おぅ!ユカリ、よく来たな」
壁に掛かるミレーのレプリカに似合わない大声で、健三が白いテーブルクロスの向こうから手を上げた。その横に静かに一人の男が座っていた。
初老の紳士は音も立てずにゆかりの為に重い椅子を引いた。ゆかりが着席するのを確認して
「では、ごゆっくりお過ごし下さい」
会釈をして部屋を出て行った。

「息子の亮一だ」
紹介された男は、ゆかりに視線を移すと優しい眼差しだけで挨拶をした。
(これが、あのガマガエルの息子?)
42歳だと聞いていた健三の息子は、整った顔立ちの中に薄っすらと青年の面影を残す清潔感の漂う男だった。仕立ての良さそうな白いワイシャツの胸元から小麦色の肌がしっとりとした艶を帯びて覗いていた。テーブルの上に両の肘を付いて組んだ手にプラチナの指輪が見えた。
お互いを紹介する健三の話は上の空に、ゆかりは亮一を観察していた。
(この人が子供を作れない男?)

「じゃあ、先ずは乾杯しよう!」
その声が届いたのか、さっきの紳士が軽いノックの後にワインリストを健三の元に届けた。
「本日のお料理には、此方が合うかと思いますが、ソムリエをお呼びしましょうか?」
「いや、それには及ばん」
健三がお祝いのシャンパンを選んでいる隙に、亮一の人差し指がコツコツとテーブルを叩いた。ゆかりと視線が合うとその瞳にそっと呟いた。

「ごめんね…」

それが最初に聞いた彼の声だった。
謝っている彼の方が切なそうだった。
ごめんねの言葉が、ゆかりの胸を締めつけた。
この人を好きになってしまうかもしれない。
その日のディナーの味は覚えていない。
額に掛かる髪をかき上げるしぐさや料理を運ぶフォークの先にある白い歯が並ぶ口の動きをちらちらとずっと覗き見していた。
(この男に抱かれてみたい、ううん、欲しいかも)


それでも、ゆかりはピルを飲み続けていた。抱かれてみたいのと「妊娠」や「出産」はゆかりの中では異次元のものだった。
健三からは「基礎体温」を計るように言われたが、ゆかりは返事だけをして無視を続けた。ゆかりの身体が排卵をおこす事はない。
亮一は連絡先を教えてくれただけで、あれきり向こうからゆかりに連絡をしてくる事はなかった。
キャバクラも辞め、大学とマンションの行き来の生活に一週間で退屈してしまったゆかりは、亮一に電話を掛けてみる事にした。

「もしもし…」
受話器の向こうから『ごめんね』と言ったあの甘く切ない声が響いた。
「ゆかりです」
「ん?どうしたの?」
「私、今夜……お逢いしたいんです」
それが何を意味するのか亮一には分かる筈だ。
暫くの沈黙の後
「分かった…」
亮一の返事がゆかりの身体を熱くした。

「二時間後なら身体が空くから待っててくれる?」
「えぇ、お待ちしています。お夕飯を一緒に食べましょうよ。私、何か簡単な物なら用意して…」
「いや、夕食は妻と家で摂るから」
その一言がゆかりの中に眠るドス黒い何かに火を点けた。
(妻とは食事をして私とは…だけ?!)
「え〜、じゃあ会わない!亮一さんが困るんじゃありません?ゆかり、亮一さんのお父様に言い付けちゃおうかなぁ〜」
スマホに向かって見えない相手に膨れてみせた。
「これ以上、妻を傷つけたくないんだ…分かってもらえないか」
(ふーん、女房は傷つけたくなくてお金で雇ったゆかりは傷つけてもいいんだ。亮一さんの奥さんだったら40くらいのオバさんでしょ、へぇ~)
幼い邪気が牙を向いた。

「奥様に会ってみたいな」
「それは…」
「あら、だってゆかりの産んだ大切な子を育てる人でしょ。どんな人か知りたいのは当然じゃない?」
子供を産むつもりはないくせにゆかりは亮一を困らせたかった。
「それは、もう少し時間をくれないか」
「じゃあ、今夜は?」
「……今から行くよ」
白いテーブルの上に活けた赤いチューリップの花弁が、春の終わりを告げていた。



つづく






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