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やっと、アクセルを開けられる。

8年前の2010年4月、春の気持ち良い陽気とは裏腹に、私は先の見えない霧の中を歩いているような状況だった。

子供2人を連れて離婚した私は、無職で収入がなく、待った無しの支出と子供達の世話と就活に追われていた。

でも決して心身のバランスを崩すことなく、前向きに一歩づつ、自分の人生のコントロール権を取り戻せたのは、悩みを聞いてくれた友人、親戚と1冊の本のおかげだった。
 
私が経済評論家 勝間和代さんの訳書「史上最強の人生戦略マニュアル」に出会ったきっかけと、無職のシングルマザーの私が、ハローワーク通いから始まり、好きな仕事を選び続けることで、望んだ働き方と収入を手に入れられるようになったこの8年間について書こうと思う。

そもそも親が教育環境を与えてくれたこと、運やタイミングにも恵まれたことと、周りの人たちが幾度となく差し出してくれた救いの手なしでは到底できなかったことだ。

それでも小さなプラスの習慣を綿々と重ね続けてきた事が、現在の自分の状況を作り出していることは間違いない。
 
西原恵理子さんや勝間さんが幾度も言っている

「女性が自分の経済力を持つこと」

の重要性について20代−30代の私は全く分かっていなかった。

身近な女性である母は英語を学ぶのが好きで、英語教師の資格を持っていた。子供が小さい頃は育児優先にしつつ、自宅や教室で英語塾の先生として楽しみながら扶養範囲で働いていた。

両親は夫婦仲が円満だった為、娘もいい大学に入り、いい会社に入れば、きっといいご縁があって人生安泰だろうと想像していたのだと思う。

残念ながら大好きな母は、私が大学在学中に事故で急死してしまい、そこから先の生き方について語り合うこともできなくなってしまった。
 
私は母がいなくなった後は自宅の家事をしながら大学に通った。そして無事に新卒で第一希望の自動車会社にデザイナーとして就職できたことはとても幸せなことだった。

大好きなデザインの仕事を楽しみ、職級も上がり社内結婚したまでは、母の想像通りだったと思う。

不穏な空気が漂い始めたのは私が第1子出産後、育児休暇から復職して1年後。

私は一度も辞めたいと思わなかった、大好きな会社を自分の意思ではなく、退社することになった。

その時点ではもちろん将来離婚するなんて想像もしなかったけれど、それでも家族の信頼関係にヒビが入り始めたきっかけの出来事だった。
 
自動車会社の退職後も、仕事は何かしたかったので、知人のギャラリーの店番、美容でのフロントや自宅でのグラフィックデザインなど、週3回程度仕事をしていた。すでに夫とは別居期間もあり、遠くない未来に離婚するだろうと感じ始めた2008年に、正社員の職を探し始めることに。
 
「インディペンデントな生き方実践ガイド」「史上最強の人生戦略マニュアル」を始めとした自己啓発本を多々読み始めたのもこの頃。

なんとかして沈みゆく船のバランスと立て直したい、そんな一心だったと思う。

当時は現状と書かれていることのギャップが大きく、衝撃を受けながらも全てをすぐ実践することはできなかった。

でも、少しづつそれらが自分の血肉になるように、書かれている言葉を常に意識をするようにしていったのだ。

特に史上最強の戦略マニュアルが私に与えた衝撃は絶大だった。

*kindke unlimited対象なので、未読の方は是非登録してでも一読をお勧めしたい。

・問題はひとりでに解決することはない
・人生の責任は自分にある
・悪いと認めなければ変えられない
・私たちは自分の扱い方を人に教えている 

これまで誰も教えてくれなかった、自分で学ぼうとしなかった生き方が明確に言語化されていた。
 
仕事の相談をした先輩が紹介してくれた、戸建て住宅の建設・販売会社が、建築の知識もゼロの私を採用してくれ、カラースキムの仕事を任せてもらえたことはとても有難かった。

1年はパートで、1年は正社員としての収入を得られ、インテリアコーディネーターの資格を取るきっかけにもなった。

ところが、家族経営の小さな会社だった為、残業も日曜出勤もできない私に、社長は徐々に不満がたまっていたようだった。

そして2010年3月中旬に離婚。その直後の自分1人で子供たちを育てていかなければならないスタートラインで、2年勤めたその会社をパワハラに耐え切れず退職することになった。
 
調停離婚で取り決めした養育費は家賃に消え、とりあえず雨露はしのげても光熱費、食費、子供2人にかかる費用諸々は貯金を切り崩しながら仕事を探す日々が一ヶ月ほど続いた。

インテリアコーディネーターの仕事に応募するも、土日出勤できないと採用には至らず、ハローワークへ。

とはいえ、当時小5と4歳の子持ちで土日出勤や残業、遠方の勤務は難しい。退社して8年、同じ業界に戻れることもないと思っていた40歳。

これから子供2人育てられる収入が見込める、自分が楽しめる仕事なんてハローワークにはなかった。
 
定期的な収入がない状態。。経済的な困難をこれまでさほど味わったことがない私には就職の目処が立つまでの、たかだか1ヶ月が、とてつもなくメンタルに堪えた。

正直、夜の仕事を考えたこともあるのだけど(需要があったかどうかは別として。。笑)そこで思いとどまったのは、ともかく子供に極力寂しい思いをさせたくない思いがあったからだ。

昼間はどんなに忙しくて会えなくても、夕方保育園と学童保育にお迎えに行ったら、ご飯を作って、3人で一緒に食べて、一緒にお風呂に入って、寝る。それだけは死守しないと、きっと後で後悔する。
 
それに一時期のつもりでも、好きな自動車業界やデザインの仕事で働けない事は、1mmも経験もスキルも積みあがることがなく、時間だけが過ぎていくだけだ。。。とそんな風に逡巡しながらも貯金は減っていくし、まずは何をしてでも日銭を稼いで口に糊しなければならなかった。
 
そんな時、ハローワークのサイトで見つけた「〇〇物流 事務作業 パート募集」の案内。時給は最低額に近かったが、〇〇物流は、私が自動車会社にいた時の取引先の関連会社だった。

歴史あるクロスメーカーで、製品の品質も、営業さんのご対応もとても良く、その営業所も物流会社も同じ敷地にあるようだ。勤務地は自宅から車で10分、どうせならたとえ事務でも、慣れ親しんだ会社や業界関連のほうが良いと思い、応募することに。

まだ自動車会社にいるデザイナーの友人を通じて、親会社の営業の方に、まだ事務の募集をしているかどうかの確認の為、連絡を取ってもらうことに。

すると、なんとかつてお世話になった営業さんがまだいらっしゃり、「ええ、sannaさん??丁度この事務所のデザイナーが一人辞めたいと言っていて困っているので、よかったらうちでデザイナーとして働きませんか?」とのお誘いが!
 
青天の霹靂だった。事務所に2人しかいないデザイナーが丁度辞めるというタイミングもさることながら、8年のブランクとクロスデザインの経験値がなく、40歳(当時、転職は35くらいまで、と言われてた)という年齢や子持ちという背景もあったのにお誘い頂けるなんて!!

もちろんまずは面接させて頂くことにして、2回の面接後、無事、6月中旬から自動車のシートクロスデザイナーとして仕事を再スタートを切ることができたのだ。
 
入社後1年は契約社員、その後正社員となり、計6年そのクロスメーカーで働いた。自動車会社での経験値に加え、年齢も考慮する給与体制だった為、どうにか3人での生活が回せるようになった。

クロスデザインの仕事はとても楽しく、客先である古巣の自動車会社にはまだ多く友人知人がおり、それも強みとして活かせたかもしれない。

営業所のメンバーも人間性の素晴らしい人達ばかりで、今もずっと関係が続く、大切な出会いを得ることができた。
 
勤続5年を過ぎた頃、もう少し収入を上げたい、海外との仕事がしたい、在宅で仕事できる日があるといいな、、というぼんやりした希望を持っていた。

それから、たまに来る意義の感じられない指示の仕事や慣習で変えられない非効率な一部の仕事のやり方と、変わらない体制に辟易していた事もあり、モヤモヤした気持ちを少し抱えていた。

とはいえ、居心地が良いメンバーと仕事内容、通勤が車で10分なんてこれ以上良い条件はないだろうと思い、積極的に転職活動はしていなかった。
 
それが 2015年10月に、ヘッドハンティングの話が3件続けてあったのだ。過去5年間、これまで一度もそんなことはなかったのに。

3件とも年収UP、勤務地も2件は車で30分以内なので圏内。こんなに立て続けでお誘いを頂いたのはきっと、転職しなさいという何かのお告げに違いない。。(笑)と思い、転職しようと心が決まり、その中で一番年収条件の良い外資のメーカーから詳しくお話を聞くことに。
 
その会社だけは勤務地が遠く、自宅最寄駅から電車で1時間半かかる都内。家事育児を誰かに頼れる状況でないので、通勤は到底無理ですとご説明したところ、日本オフィスのダイレクターが、「在宅勤務でも良いですよ」と伝えてくれたのだ。

週1回、10:30~の社内ミーティングに出てもらって、あとは客先の自動車会社との打ち合わせに直行直帰して、やるべきことだけやってもらえればそれで良いです、と。

そんな働き方があるのかと思ったし、丸々私を信用してくれているから言えることだ。また、何度か面接を通じてダイレクターとお話ししていく中で、「北米の副社長が候補者が複数いないと納得しないので、他に2人候補の方がいますが、私はsannaさんとお仕事したいと思います」と言って頂けた時は本当に嬉しかった。
 
そう見込んでくれたダイレクターの気持ちと、私を推薦してくれた知人の期待に応えたい、何よりこんなチャンスを逃したくない一心で自分を信じ、経験のない英語も頑張ることができた。

何度かの面接の後、無事OKをもらうことができ、2016年3月に今の会社に転職、現在に至っている。
 
好きな自動車関連のデザインの仕事、在宅勤務、自由な時間の増加、海外との業務、海外出張、収入UPと、以前理想として思い描いていた全てが今、手元にある。

本当にストレスゼロだ。

自分が経済的にも、時間的にもゆとりを持てた今になって初めて、いろいろな過去のネガティブな思いが消えていった気がする。
 
ただ、今も会社に依存しているリスクはあるし、常に自分自身を向上させないといけないという緊張感もある。この会社に入って1年は慣れるのに必死だったけれど、やっと、業務外に学びたいという気持ちが芽生えてきた。

そこで久しぶりに2017年7月に勝間さんの書籍を検索し、「勝間塾」というコミュニティを知った。勉強会にも参加し、勝間さんに直接お礼を伝えることもでき、2017年は私にとって区切りの年だったのだ。
 
紆余曲折を重ねながらも、精神的、経済的に自立できたのは、間違いなく前出の本を読み込み、迷った時は羅針盤のように読み返して、極力それに沿った行動を取ろうと努力してきたからだと思う。
 
勝間さんが「史上最強の人生戦略マニュアル」の帯に書かれていたこと

「仕事においても、家庭においても、自分の意にそぐわない、不都合なことがいろいろ起きていた。そういった問題に対して、自分が正しければ、問題は自然と解決するはずといった誤った思い込みを持っていたことを今でも忘れない。」

「しかし、そんな誤った思い込みをこの本は強烈に砕いてくれた。この本を読んだことで、私も現実に立ち向かうことができ、それから数年間かけて、自分の人生のコントロール権を取り戻すことができたのである」
 
まさしく、私もそう感じていたのだ。

でも、ものさしにするべき「正しいかどうかではなく、上手くいっているかどうか」ということが解っておらず、上手くいってないことは「自分の責任ではない」と思い込んでいた。

いつまでたっても解決しない問題に長い長い間苦しんで苦しんで、6年かかってやっと自分の人生のコントロール権を取り戻した実感があり、働き方はほぼ生き方にもつながる、ということを身を持って実感している。

そして、人生100年と言われる時代。

子育てで、例え10年、15年仕事から遠ざかっていたとしても、自分がその気になれば、何かしら仕事は始められる。

大人になっても自転車の乗り方は忘れていないように、仕事のやり方も始めてみれば、ふっと思いだすものなのだ。

私も自分自身で勝手にブロックをかけていた。何度も何度も転び、ブレーキをかけて遠回りをしたのかもしれないけど、きっとそれも私にとって必要なことだったのだろう。

それでもどうにか立ち上がることができ、より良い生き方を得ることができたたのだから。
 
そして今、仕事以外にやりたいことが見つかり、同じ志を持つ仲間も少しづつ増えてきた。一人で悩んでいても何も動かなかったことが、外に発信することで私自身も少しづつ変わってきている。

今でも死ぬほど好きなバイクに、随分と長いこと乗っていない。私に何かあったら、子ども達に迷惑をかけてしまうと思うからだ。

それでも今は、気持ちよくバイクのアクセルを開け、暇さえあれば峠を走っていた、学生時代の頃の攻めていた自分をやっと取り戻せた気がする。

私ができることなんて、本当にちっぽけかもしれない。それでも、僅かでも、誰かが幸せになれるら、私ももっと幸せになれる。

今でもバイクに乗りたい気持ちに変わりはないけれど、まだしばらくは自分のミッションだと思えることに自分の時間とエネルギーを使っていこうと思う。

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