見出し画像

子どもを育てるのは母性だけじゃない、人間性だ。

虐待の痛ましい事件を見聞きするたびに思うこと。

子どもの虐待はひとり親、あるいは子連れ再婚し、実親ではないパートナーと住んでいるケースが多いように感じる。

もしくは両親が一緒に住んでいても、家庭が機能不全で両親の関係のバランスが取れていないケース。

年間350人の子どもが虐待と疑われる死因で亡くなっている裏に、虐待され、命はあっても厳しい環境におかれている子どもたちが今現在数多くいるはず。

そして、往々にしてあるのは、血の繋がっていない幼い連れ子が新しい父親に虐待され、母親が自分を守るためにそれに迎合してしまい、重大な事件に発展してしまうこと。

今回の結愛ちゃんの事件もそうだ。

母親も以前は結愛ちゃんを可愛がっていたはず。報道されている写真の、愛らしい笑顔の結愛ちゃんを見れば十分にそれは伝わってくる。

両親からの愛情を受け、無邪気に遊んでいた結愛ちゃんが、たった数年後、どうしてあんなつらすぎる手紙を書くことになってしまったのだろう、と思う。

子どもは何があっても社会で守り、心身の健康を守って育てなければいけないと思うし、親が子どもに危害を与えようとする危険性があれば、ドイツレベルに親権停止を執行すべきだ。

今日も虐待でいのちの危険にさらされている子どもがいる。子どもの命を救う制度の確立は急務だから、1日でも早く政治に動いて欲しい。

そしてその後にでもいい、虐待をした親が自分を救うために、虐待を選ぶ状況に陥った根本的原因を見て欲しいと思う。

子どもを見殺しした親を庇うわけではない。それでも私は、母親の育ってきた環境、そして選んだ環境がそうさせてしまったように思えてならない。

そして疑問に思うのは、環境や人間関係の変化の中で、子どもを一人で育てることを選んだ親、あるいは取り残されてしまった側だけがなぜ責められるのか、と。

状況はそれぞれ異なるけれど、とっくの昔に子どもとパートナーから逃げた、あるいは逃げ出されるような状況を作りながら、何も問われない側のとの矛盾。

残された側の親が苦しみ、生き抜こうとして子どもすら排除しようとするようになってしまった気持ちを、誰かが想像し、寄り添っていかないと根本的解決につながらない。

私も虐待には至らなかったけれど、一人きりの育児で精神的に追い詰められて、育児から逃げ出したくなったことが何度かある。

子どもはもちろん可愛い。何があっても守りたいと今は思える。

でも、それは私が満たされているからだ。そして、自分が健康でなければ彼らを守れないから、自分も大事にするという気持ちは今も変わらない。

自分が満たされていないのに、子どもといえども、他者に思いやりを持てるだろうか。私はそれができるほどの人間性は持ち合わせていない。

今の社会が、母親も時間の自由、経済的な自由、心身の健康、安全な環境があって初めて、豊かな育児の時間と向き合えるということを、どれだけ理解しているだろうか?

すべての女性にデフォルトで母性が備わっているとでも思っているのだろうか?

母性は女性のデフォルトではない。

母親の尊厳が保たれて初めて、安心して子どもに向き合うことができ、愛情に繋がり、母性が育まれる。

聖母子像は美しい。でも、その裏で母親もきちんと労られていなければ、あのような柔らかい表情は生まれない。

母親だけに育児をさせようとする、あるいは子どものためなら母親はなんでも耐えられるだろう、という価値観の人がまだいて、都合のいい論調に使われる言葉としての「母性」だとしたら、そんな言葉はいらない。

父親が満たされた環境で子どもと向き合い、愛情を注げば、母性と同じように、父性も立派に育つのだ。

あるいは両親でなくても、あたたかい人間性とリソースがあれば、目の前のやわらかな、小さな命にミルクをあげ、オムツを替え、抱っこして育むことができる。

守り、育むべき存在である子ども全てに、大人が愛情を注げるような教育と環境、経済力を持てるような社会にしたいと心から思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?