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あの夜の無力感を、わたしは生涯忘れることができないと思う。

2011年3月14日月曜日

朝のホームルームで担任が出した新聞の一面を見たわたしは、ポロポロと涙をこぼした。わたしの生まれ育った、見知った街並みが津波で流されていくその様子を写した、大きな写真だった。

***

あの日、あの時間。
わたしは、何をしていただろうか。

当時父の転勤で福岡に住んでいたわたしは、いつも通り学校を終え、塾へ行った。

「sanmariちゃん、宮城出身よね。なんか、すっごく大きな地震があったみたいよ。おうちに連絡してみな」

塾へつくやいなや、先生からそう言われ電話を渡された。
(仙台は、3年に1度くらいの頻度で、震度5くらいの地震が起こるしな。騒ぎすぎでしょう)
そう思いつつ、電話を渡されたからには母へと電話をかけた。

「ねぇ。仙台で地震があったって聞いたんだけど」

そう呟いたわたしへ母は

「そうなのよー。でもみんな無事だから。今日はいつも通り勉強してから帰ってらっしゃい」

と、何事もなかったかのように返してきた。

なんだ、何事もなかったのか。
そう呑気に構えたわたしは、いつも通り塾で勉強をして帰路に着いた。

帰宅すると、母の目が腫れていた。
家の空気が、どんよりしている。

何が起こったのかわからないままリビングに入ったわたしは、テレビに映る地元の様子を見て立ちすくんだ。
気がつくと、目から涙が溢れていた。

「宮城に帰ってきた」と上空からウキウキ眺めていたあの景色。
小学校の社会科見学で潮干狩りに行った海岸。
幼稚園の頃から一緒に習い事をしていた友人たちの住む町。

それらが、濁流に飲み込まれていく映像が、繰り返し繰り返し流れていた。

制服を脱ぐことも、夕食を食べることもすっかり忘れて、ただテレビの前に座り込んであの映像を眺め続けた夜。

寒い寒い3月のあの日。
怖い思いをしながら震えているであろう友人を想いながら、わたしはただ涙を流すことしかできなかった。

そう。あの日。
2011年3月11日金曜日。
東日本大震災が起こった。

翌日から、親戚や友人たちの安否確認が始まった。東日本同士ではなかなか電話やメールがつながらない。九州に住む我が家を中継地点に、あちこちへ電話やメールをする日々がはじまった。

わたしと同い年の親戚のいる家は、火事で燃えた。
仲良しだった友達の家は、津波で流された。
妹の友達は、ランドセルをはじめとした学用品のすべてが流された。

週末の間に、電話やメール、はたまた避難所の様子が流れるテレビ中継の中から、大方の親戚や友人の安否が確認されていった。

それでも。
母の小学生時代からの幼馴染との連絡が依然つながらなかった。
彼女の家のあたりは、報道によると津波の被害を受けていた。
NHKの災害伝言板にも投稿して、ひたすらその安否を願い続ける中での、月曜日。

クラスの友達は、平然とした顔で学校にやってきた。「日本史のテスト勉強、やった?範囲、広すぎるよね」なんて言いながら、談笑している。

信じられなかった。

あの映像を見てなお、この人たちは他人事なんだ、と。
そんな中始まったホームルームであの新聞の一面を見せられたときのわたしは、おかしくなりそうだった。

これは、わたしの大切な地元であって、見世物なんかじゃない。
「かわいそう」「大変」なんてそんな簡単な一言で済ませないでほしい。

そんなことがぐるんぐるんと頭を駆け巡って、気付いたらポロポロと涙を流していた。


今思えば、地震にも気付かなかった福岡の片隅の小さな町の高校生が、あの震災を「自分ごと」に捉えるなんてことができないのは当然だ。
わたしだって、テレビを眺めながらただ泣くことしかできなかったのだから。

あれから9年。
毎年SNSで「3.11 検索は応援になる」の画像が回ってくる。
あの日あの教室で共に学んだ友達が、画像を共有する様子も、毎年タイムラインに流れてくる。

あんなに泣いたわたしも、普段の生活の中で、あの日を思い出さない日が増えてきた。9年を経ても、今日がやってくるとみんながあの日を思い出してくれている。
そう思うと、きっとあの新聞の一面を「見世物にされた」なんて思ったわたしは、とんだ卑屈の被害妄想だったのかもしれない。

それでも。

わたしはあの無力感に襲われたあの夜と、孤独を感じたあの教室の空気を一生忘れることはないんだろう。そう思っている。


追記
母の友人とは、月曜日の夕方に連絡が取れた。避難所でやっと携帯を充電することができたとのこと。その連絡を受けたときも、やっぱり、泣いた。嬉しくて。



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