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「雨の音が聞こえたから窓の外を見る」ことと「激しく降る雨をみて初めて、その雨音が聴こえてくる」ことの狭間で。

「雨の音、すごいね。分かる?」

わたしの肩をトンっとたたいて、彼女はそう言った。窓の外を眺めると、雨の線がくっきりと見えるような豪雨だった。自分の目でしかとその様子を確認したのとほぼ同時に、わたしの耳に「ザーザー」と激しい雨が降りはじめた。

「……わかった。これは、すごいね。」

一度音として認識できると、そこから先は、わたしの世界にも雨の音が流れ始める。その雨はさらに強く地面に打ちつけた後、30分ほどで止んだ。


GWに地元に帰省したときのこと。大学時代からよく集まる友人たちと、焼き鳥屋さんに集合した。仙台は、とにかく美味しい焼き鳥屋さんが多い。そして、どこも安い。

砂肝、もも、ネギ間、つくね……と一通り食べると、ちょっと口休めに焼き銀杏が食べたくなる。これがまた、美味しい。小さい頃は茶碗蒸しに入っている銀杏でさえ「変な味」と思って避けていたけれど、いつの間にか大好物に変わってしまったから不思議なもんだ。そういえば母が「銀杏が美味しく感じられるようになったら、オトナの仲間入りよ」なんて言ってたっけな。わたしは、オトナになっちゃったのかしら。

なーんてぼんやりしながら、銀杏を頬張っていたら、友人が突然こんなことを言い出した。

sanmariがもし私たちみたいに普通に聴こえるようになったとしても、音には鈍感なことには変わらないよねぇ。きっと。だって、「聞こえる」っていう感覚は大人になってから急に身につくもんじゃないもん。

と。それを聞いたもう一人が「あー、それめっちゃ分かる!」と言ってニヤッと笑った。

ちなみに彼女たちは2人とも健聴者だけれども、大学で手話を覚えて、わたしとの会話では手話も使ってくれる。彼女たちふたりだけの会話でも、わたしに見えるように絶対に手話をつけてくれるスーパーウーマンたち。ライブやミュージカルにも聴こえる友達を誘うような感覚でわたしを誘ってくれて、必要に応じて台本の事前貸し出しを確認したりMCを手話通訳したりしてくれる。

だから、彼女たちと一緒にいるときのわたしは「話が分からなくて置いてけぼりになっちゃった……」みたいな経験をした事がほとんどない。それもこれも、「店員さんがきたよ」「〇〇って言っているよ」と聞こえる情報を視覚情報に変換してくれているからだ。

そんなふたりが、久しぶりに会ったわたしを見て「やっぱり、sanmariって視る世界線の人だよねぇ。補聴器の性能が良くなっていろんな音がきこえるようになったって、みないと聴こえてないよねぇ」と指摘してきたのだ。

それは、待ち合わせのときのこと。わたしは地元の慣れ親しんだ街だというのに、路地を一歩間違えて迷子。待ち合わせ場所を通り過ぎてしまった。わたしを見つけた彼女たちが慌てて「おーい!」と大声で呼んでも全くの無反応。手を振る二人が視界に入ってやっと「あれ。呼んでた?」なんて呑気に答えたわけだ。

ご存知のとおりわたしは聴覚障害者で、耳が聞こえにくい。だからこのときも、本当に聞こえていなかったことを、二人はよく知っている。その一方で、それなりに補聴器を活用して音楽を聴いたりライブに行ったりミュージカルに行ったりするわけで。

そして彼女たちは、わたしとライブにだってミュージカルにだって一緒に行くし、それらを楽しむわたしをよく見ているのだ。

特に、一年ほど前に補聴器を新調してからは、きこえる音の幅がぐんとひろがったような気がしている。実際周りからも「新しい補聴器にしてから、聞き返しが減ったよね」と言われることも多い。

それでもやっぱり、わたしが反応する音はわたしの視界に入っている音だけで。それは例えば、降りしきる雨を見て雨音がきこえてきたり、わたしに手を振る友人の顔を見て声がきこえてきたりすることなんだろう、というわけだ。

音情報を楽しむわたしも、日本語で思考することも喋るわたしも、もちろん存在する。それでもやっぱり「みる人だよね」と面白がる2人を見て「よい居場所を持ったなぁ」とニヤニヤできるのは、この会話が手話でわたしの目にちゃんと見えるからで。

帰り道。酔いを覚まそうとまだ肌寒い帰路を歩きながら、これからもわたしは「激しく降る雨をみて初めてやっと、その雨音が聴こえてくる」という感覚の中で生き続けていくんだろうな、なんてじんわり考えていた。




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