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コカの葉

南米旅行中に入手したコカの葉を生徒に見せたことで懲戒免職処分を受けた小学校教諭のニュースを見た。

教師本人の言によれば、「世界の国々の理解を深めたいという気持ちで紹介した」とのこと。
警察はおそらく悪質性が認められなかったことから起訴猶予処分とした一方、教育委員会は麻薬の原料を児童の目に触れさせたことを重大視し最も厳しい処分を課した。
それぞれの判断に対し様々な意見があるだろうけど、警察、教育委員会は裁量された権限を行使したに過ぎない。違法性の不認識から生じる善意の犯罪については、どう処分したって異論は起こる。ならば、最終的な判断の権限を持つ主体が、自身のポリシーに則って処理し、社会はその結果を受け入れるよりほかない。

一方で、この事件に対するコメントで気になったことが幾つかある。

まず、この教師がコカの葉の国内持ち込みが不法行為であることを知らなかったことについて「無知」と断罪し、ゆえに懲戒免職は当然だとする意見が多いことだ。

先に述べた通り警察が起訴していない以上、教諭を懲戒免職に処すかどうかは刑法上の措置から離れ、完全に教育委員会の裁量の問題だ。そして、いくら異文化の理解を促すという教育上の目的が意図されていたとはいえ、麻薬原料を児童の目に触れさせる行為は教職者にあるまじき行為であると判断するのは、異論もあるだろうけど理解できない措置でもない。仮にもっと寛容な処分であったらあったで、やっぱり批判は起こっただろう。
問題は、「無知なる者は教職にふさわしくない」という短絡的な批判をもって当該教師を糾弾する声の多さだ。
確かに、知識には事実上すべての人に共有されているような「常識」という領域が存在する。ただ、それは教育や社会生活、経験などを通じて獲得されるもので、たまたま多くの人が見聞し経験するような事柄だから結果的に遍く共有されるに至った知識であるに過ぎない。逆に言えば、ごく低い確率かもしれないが、社会の大多数が経験するような知識の獲得機会に出遭うことなく生きている人も一定数存在し得る。だから、「常識」は社会の成員である以上持っていることが当然期待されるものである一方、偶然それを持ち合わせていないことを「無知」と断罪するのはいかがなものかと思うのだ。逆に、「この社会で想定される全ての常識を持ち合わせている自信があるか?」と訊かれて「もちろん」と答えられる人がどれほどいるだろうか?

コカの葉に関しては、それが単なる教養の問題ではなく法律に抵触する類の無知だから問題なのだと主張する向きもあるだろう。ただ、これも一般的な常識についての話と同様、「あなたは刑法のすべての条項を把握しているのか?」という問いを考えれば、そうした批判が無理筋であるとわかるはずだ。
そもそも、南米に関して一定の興味や知識がなければ現地で栽培されているコカの葉なるものがコカインの原料として存在することを日常生活で意識する機会は無いだろうし、あまつさえ「コカの葉の国内持ち込みは違法行為である」という「知識」など持ち合わせていない方が普通だろう。というより、そうした事態を考えようともしないはずだ。
何が言いたいかというと、この教員を「無知だ」として叩いている人のほとんどは今回の報道で初めて「コカの葉の所持」が違法であることを知り、「言われてみれば当たり前のことだよなあ」と感得したうえで、事後的に得られた「知識」とやらに基づいて批判を行っているのではないかということだ。
「薬物の原料の所持が違法だなんて、考えたらわかるじゃないか」と思うかもしれない。けれども、俺達の認知にはかなり適当なところがあって、一度「正解」を示されて納得すると、まるで自分が以前から当たり前のようにそれが「正解」だとわかっていたかのような気になりがちだ。
コカの葉というのは現地では嗜好品として日常的に消費され、茶や薬として供されている。それがそのまま麻薬として作用するわけではなく、コカの葉に含まれる成分を工業的に抽出し精製しなければコカインは作れない。たとえばコーヒーに含まれるカフェインやビタミンCという通り名を持つアスコルビン酸だって、精製して投与すれば普通にラットを殺せてしまう。
そうした情報を与えられたうえで、「国内においてコカの葉の所持は違法である。○か☓か」という問いを提示されたとき、今回の報道以前の段階で正しく「○」と答えられた人がどれほどいただろうかと思うのだ。

もちろん、禁止薬物の原料である以上教員としてはきちんと法律を確認すべきであったという意見はもっともだし、何の疑いもなく「コカの葉の所持なんて違法に決まっているだろう」と100%の自信を持って答えられるような人もいるかもしれない。
ただ、問題はそこじゃない。
自分が無知であるかもしれないという(実際には無知である可能性の方がはるかに高い)可能性に思い及ばず、あるいは自分の無知を棚に上げて、他人の無知を糾弾して恥じない精神性にこそ問題はないだろうかと思うのだ。
言うまでもなく、無知は改められるべきものだ。だが、知の獲得あるいは修正は人間が死ぬまで繰り返していかなければならない業であり、無知は人間の本性でもある。だから、教師が無知であったこと自体を指摘するのは構わないとして、「教師として恥ずかしい」だとか、その人間性を疑うような言説にまで発展させてしまうのは傲慢に過ぎる。俺達だって、自分が違法性を気にかけすらしなかった行為によって法に抵触してしまう可能性はあるわけだから。


もう一点、「麻薬原料を見せることで子供たちが興味を持ち、薬物使用への道を開いてしまうのではないか」という批判について。

おそらくかの教師が子供たちに伝えたかったのは、現地の生活で嗜好品として愛用されているコカの葉が麻薬原料としても用いられるという二面性、もっと言えば文化というものが普遍的に持つ複層性ではなかったかと思う。
「コカイン=悪」という図式からその原料である「コカの葉=悪」という認識を導き、ゆえにコカの葉のようなものはこの世から根絶すべきだという理屈は、そこだけ見れば真っ当に思われるかもしれない。だが、コカの葉というのは現地ではるか昔から、支配者によって課された苦役のつらさを耐え凌ぐための「気つけ薬」として用いられるなど、南米の文化や歴史に深く根ざした嗜好品であり、欧米諸国の植民地支配を受けた先住民族の苦難の象徴として歌われたりもするようなものだ(「グルーポ・コカ」なんてフォルクローレグループもあったりする)。さらに、そこから麻薬成分を抽出することでコカインを作ることを始めたのはアメリカ人である。そして、嗜好品としてであれ、麻薬原料としてであれ、コカの葉の栽培によって生計を立てている農家というのが少なからず存在する。
見た目には何の変哲もない「葉っぱ」を実際に見せることは、そうした日常性や文化との結びつきをより深く意識させるうえで、やはり有用だとは思うのだ。もちろん、写真などにその役割を代替させることはある程度可能なのだけど、現物が突きつける日常性のリアリティには敵わない。大事なのは「コカの葉から麻薬が作られる」という知識だけでなく、それが俺達の身の回りにもありそうな、生活に根ざした植物から作られているという体感なのだから。
もちろん、コカの葉の栽培がコカインの生産に用いられ、それが世界中に麻薬中毒者を生むような現実は無くなってしまうのが望ましい。ただ、そこにあるのは単純な「コカの葉=悪」で片付けられない現実である。仮にコカの栽培を廃絶するにしても、それは現地の文化を根底から変えるような所業になるのだとは理解しておく必要がある。

「コカの葉が子供たちに薬物への興味を開く」という見解は正しいだろう。ただ、物事に多面性があることを知ろうと思えば、それは興味無しには成し得ないのも確かだ。単に「コカの葉はコカインの原料となるので、興味を持ってはならないものだ」と教えるだけでは、「じゃあ、無くしてしまえばいいじゃん」という一面的な見方しか生みはしない。
事はコカの葉に限らない。これまで日本の教育は「臭いものには蓋」という姿勢で、社会的に非道徳的あるいは禁忌とされる事柄について「正しく教える」のではなく、「教えない」「興味を持たせない」という指針を徹底してきた。
ただ、それが必ずしも人々をそうした悪や罪から遠ざけることになりはしない。人はそれまで興味を持たなかったものについて、その魅力的な面のみを突然提示されると無防備に惹きつけられてしまうところがある。薬物ならば、それが実は身近な存在であり、容易に入手できてたやすく人生を破滅させることへのリアリティを示すことの方が、若年者の薬物被害を抑止するためには重要なのではないか。
(ただ、この点に関しては完全に俺の主観であって、研究や調査による定量的な評価には基づいていないことは付記しておく)

また、社会で悪とされる行為を抽象的に悪としか教えないことにも問題がある。人間、そしてそれが構成する社会というのは単純な善悪の二項対立で捉えがたい複雑で微妙なものだ。
様々な事件や悪行に触れ、俺達は当事者との関係や事件への関心が薄ければ薄いほど、大して実情を知ろうともせず無責任に悪を断罪する。けれども、「悪」なるものが最初に存在するわけではない。ある現実があり、それを特定の文脈の中に位置づけることで評価のベクトルが定まったとき、初めてそれは「悪」と判断されるのだ。
一つの文脈で成立する定式をもってある行為を「悪」とみなすことは、なるほど、同じ文脈を共有できない者を排斥することによって社会の秩序を安定させるという点では一定の役割を果たすだろう。社会というものを成立させるうえで、そうした「悪の図式化」が必要悪であることも認めざるを得ない。
ただ、その図式の定式化を進めれば進めるほど、社会は様々な文脈への理解を欠いた息苦しいものになっていくだろう。それは爪弾きに遭った者の怨嗟を積もらせ、やがてはその暴発を招くことで却って社会を不安定なものにしてしまいかねない。世界中で移民の増加による治安の不安定化が取り沙汰されるのは、こうした社会の不寛容さにも一因があるはずだ。
俺達が「悪」と定めるものの全てを排除しようと思うなら、対象への関心はむしろ邪魔になる。それはたとえば戦争で相手の人格や生い立ちを慮っていては効率的に敵を殺せないのと同じことだ。翻って、絡まった糸を一気に断ち切るように「悪」を文字通り断罪するのではなく、その糸を根気よく解きほぐしながら様々な立場の者にとって少しでもマシな選択を重ねていこうと思うなら、「悪」への興味・関心もまた不可欠なものになる。


かの教員がどのようにコカの葉を用いたのか、その見せ方が小学生に対してふさわしいものであったのかは知る由もない。ただ、コカの葉の所持が違法であるという「知識」のみを振りかざして「無知」だと謗ること、コカの葉がコカインの原料であることをもって「コカの葉に興味を持たせるような教育はけしからん」と批判することは、「教育」という営みの視座に立てば「いかがなものだろう」と思わざるを得ないのは確かだ。
少なくとも、「知」というものにたいするこうした狭隘な姿勢が、「間違えることを恐れて物事を無難にこなそうとする」人間の再生産に繋がっているのではないかと思うのだ。

でもまあ、小学生には早かったかもね。

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