Fumiaki MIYOSHI (Sankichi)
フォルクローレの名曲にしてサイモン&ガーファンクルによるカバーでも知られる「コンドルは飛んでいく」。ジャンルや楽器、言語の垣根を越えて幅広く愛されカバーされる同曲の様々なアレンジを紹介し、その奥深さについて語る記事を特集。 フォルクローレ好きも初心者も、サイモン&ガーファンクル好きもそうでない人も、ぜひこの「コンドル沼」の深みを一度ご覧あれ。
「文章を読む」というテーマについて、気まぐれに連載。「読解力の低下」が叫ばれている今だからこそ、考えておきたいこと。入試で点数を上げたいと考えている受験生には役に立たないので、期待しないように。
2023年3月28日、唐突に思い立ち「山手線一周ウォーキング」を単独決行。途中で見かけた印象深い風景の写真とともに、その記録を公開。山手線歩き、特に同じく山手線一周を考えている人の参考になればと。
以前、「直接法による日本語指導を再考する」という記事で日本語教育における直接法偏重への批判を行った。 上記投稿では言語習得面での効果よりもコミュニケーションのあり方という側面から、教室における媒介語使用の禁止について懐疑的に論じている。 では、言語習得の効率面ではどうなのだろうか。 一般に、目標言語での思考や即時応答が可能になるなど、流暢な言語運用能力の獲得を重視するならば媒介語を使用しない学習、すなわち直接法が望ましいとされることが多い。他方、直接法の短所としては媒介語
たとえば、こんな場面を想像してみてほしい。 あなたはあるレストランで友人と待ち合わせをしている。連れが遅れてくる旨を店員に伝えて席に着き店内で待つのだが、暫く待っても友人は姿を見せない。 すると、店員が水のおかわりを注ぎながら言う。「お連れ様、お見えになりませんね。何か飲み物をお持ちしましょうか」と。 さて、こんな時はどうしたものだろう? 店の経営を慮って何か注文するという人もいれば、「あ、大丈夫です」と躱して水だけで粘ろうとする人もいるだろう。 別に正解というものはない
剣は剣に過ぎない。 銃は銃に過ぎない。 ミサイルはミサイルに過ぎない。 どれも求められる本質は変わらない。 物理的構造の破壊。特に生命体の骨肉を抉り取り、寸断し、粉砕すること。 これらの道具の「適切な」使用においては、それらの目的が達成されなければならない。 だから勇者は魔物に対して剣を振るう。その肉を切り裂いて屠ろうとする。腕利きのスナイパーは戦場で、密林で、あるいは都会のビル群の中で、標的の脳髄を撃ち抜こうとする。英雄的指導者はミサイルの発射を命じ、テロリストの巣窟を叩
「今は日本語の授業ですから、日本語を使ってください」 日本語学校の教室ではお馴染みの指導だ。フィリピンやネパールなど英語を公用語とする国の出身者であったり、母国で大学まで出ていて英語に堪能であったりする留学生は、新出の語彙や文法について意味を確認したいとき、あるいは日本語で自分の意思を表現するのが難しいと感じたとき、すぐ英語に頼ろうとする。 「先生、『いつも』の意味は"always"ですか」 「私の国の人口はだいたいtwenty millionです」 意味を英語で確認
「$${x}$$の値が$${5}$$増加すると$${y}$$の値が$${3}$$減少し、直線のグラフが点$${(3, 9)}$$を通る一次関数の式を求めよ」 生徒の手が止まる。 俺は問う。 「与えられている情報から求められるものは何だろう?出題者は、まず何を考えろと言ってるんだと思う?」 答えはない。ただ、固まっている。 虚空を見つめて焦れる気持ちをやり過ごし、問いを変えてみる。 「『$${x}$$の値が$${5}$$増加すると$${y}$$の値が$${3}$$減少す
午前中、ジムへ運動しに行っての帰り道。 近所の商店街を歩いていると、道端に倒れている初老の男性がいた。身につけている衣服は薄汚れてはいたけれど、路上生活者といった風でもない。 行き交う人々は、気付いてはいるのだろうが気には留めない。俺も最初は路傍で寝ているだけなら放っておけばいいかと思ったのだけど、姿勢が妙に不自然だったのと、まるで動きが感じられなかったのとで、どうも気に懸かってしまった。万が一のことでもあればと考えたなら、それを見過ごしてしまうのも何だか寝覚めが悪そうだ。そ
近頃とみに目にする機会が増えた「老害」という語。 そもそも「害」という字が穏やかじゃない。何せ、同じ人間を「災害」や「害虫」に類する存在として喩えるわけで、この言葉を投げつけるということは、その相手に対して「もはやあなたを人間とは認めません」と宣告しているに等しい。 もちろん、そこには相手もまた自分を一個の「人間」として扱ってくれていないという不満や抗議の気持ちが含まれていることもあるだろう。意趣返しとしての「老害」呼ばわりの背後にある心情や事情を全く黙殺してしまうことも適当
会社の経営幹部は営業目標を現場に課したり、商品の値上げや従業員の削減を決めたりする。 それに対して、実際に顧客や従業員との接点に立つ現場は「お偉いさんは現場のことが全くわかってないなあ」とぼやきながらも、指示されたタスクを従順に遂行する。 この一見不合理に思われる仕組みは、実は人間の知恵でもあるのかもしれない。 もちろん、決定と実行の主体が異なるというのは無責任の蔓延を生む元ではあり得る。 指示を出す側はあくまでも大局や理念に鑑みて必要だと思われる決定を下し、それを達成す
路上にて、衝撃的な会話を耳にした。 小さな女の子を連れた母親が言う。 「さっき、臭い人いたでしょう?」 平凡な駅前の音風景に突如投げ込まれた、あまりに直截な言葉。 すれ違う耳が拾い上げた声に、思わずゾクリとする。 衝撃はそこで終わらない。母親は娘にこう言い含める。 「臭い人がいたら、危ないから逃げてね」 何と、母親はまだ幼い娘に「臭い人=危ない人」という定式を刷り込もうとしているのだった。ためらいや後ろめたさはおろか、不快さも蔑みさえも感じさせない、色のない声。それ
お盆期間中に近所を歩いていたときのこと。 たまに訪れる中華料理店の前を通ると、下ろされたシャッターにこんな張り紙が。 「8月16日、17日、18日休みします」 本来「お休みします」と書くべきところを間違えたのだろう。 実は、「休み」という言葉は外国人にとって習得が難しい言葉だ。「休む」という動詞としての使い方と「休み」という名詞としての使い方があって、しかも意味が微妙に異なる。 「休みます」と言えば、そこには話者の意志や選択が含意される。「今日は熱があるから休みます」とか
英語が話せないことは恥ずかしい。 外国人に突然道を訊かれてあたふたすれば、それを見た相手は「こんな先進国でどうして英語が通じないんだ」といった呆れ顔をあからさまにする。 テレビやインターネットでは英語圏への留学を経験した著名人やバイリンガルタレントが流麗な英語でのコミュニケーションを披露する一方、英語が全くわからなかったり、いわゆる「教科書英語」や「日本語を直訳しただけの英語」しか使えなかったりするタレントや一般人を物笑いの種にする。 「グローバル経営」や「グローバル人材」
失言や人為的ミスが報じられる度に巻き起こる批判の嵐。 そうした炎上に群がる誹謗中傷への非難と警告。時には、命を賭した自死という名の抗議。 そして、「誹謗中傷は良くないが批判は認められるべき」と自己弁護する声。 このひと続きの流れはもはや、現代のネット社会において演じられる定型的な戯曲のようだ。 一連の炎上劇は皮肉にも「誹謗中傷」という概念が「批判」から切り出されたことによって完成の極致に達したと言ってもいいだろう。 それは「批判」の持つ建設的な面に光を当てることで生まれた
高校で学んだ知識の大部分は実社会で使われない。 多くの人は難しい数学の問題を解かされる機会も無いし、科学や歴史に関する知識もWeb上を検索すれば概ね知ることができる。 「こんなこと勉強して将来何の役に立つの?」という疑問を直感的に抱く子供の感性は実に真っ当だ。 この問いに対し、以前ならこう答えることができた。 「役に立つかどうかはともかく、受験で出題されるのだから勉強するしかない」 「公平かつ努力次第で何とでもなるテストに合格しさえすれば、学歴やその先の安定した職が手に
俺達は思いつきで物を言う。 意見やら、見識やら、教訓やらをしたり顔で述べたりするのだけど、それが本当に妥当なのか、真実なのかを大して気にもしない。ただ、その時には正しいと思うから口にする。「それってあなたの感想ですよね」という言葉が人口に膾炙するのは、客観的な根拠や主張の普遍性を顧慮することなく物を言うという俺達の性向を鋭く抉るからだろう。 この言葉の持つ鋭利な矛先を逃れられる者など誰もいない。もちろん、それを口にする当人も含めて。この言葉が人気なのは、ある意味で言った者勝
梅雨も明け、暑い日が続く。 朝夕に吹く風にまだ涼しさの痕跡を感じることができたのも、もう暫く前のこと。逃げ切れなかった昼間の熱気が、澱のように街の底に沈む。 そしてまた、日が昇る。 夏、東京に住んでいて辟易するのはアスファルトからの強烈な照り返し、そしてそこかしこのビルが吐き出す空調排熱だ。都会化が進行すれば街全体にこもる熱は増える。それを避けて俺達は空調の効いた屋内に閉じ込もり、生活空間においては快適な温度を実現する一方で、部屋の冷却に伴って生じる熱エネルギーをせっせと
不幸なことに、言い争いというものと生涯無縁でいることは難しい。 誰かを貶したりやり込めたりする意図が無くても、時には自分の主張を通したり、押し付けられる不条理な要求に抗ったりしなければならないときは必ず訪れる。 そして、ほとんどの人は論争に勝ちたいと思う。勝てないまでも、負けたくはない。自身が負う傷は最小限に留めたい。 そのために備えるべき武器というものがある。 それは論理力でも、弁舌の巧みさでもない。 礼節だ。 俺達が誰かに言い争いを挑むとき、ほとんどの場合は自らの正