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無責任の優位、そしてその終焉

会社の経営幹部は営業目標を現場に課したり、商品の値上げや従業員の削減を決めたりする。
それに対して、実際に顧客や従業員との接点に立つ現場は「お偉いさんは現場のことが全くわかってないなあ」とぼやきながらも、指示されたタスクを従順に遂行する。

この一見不合理に思われる仕組みは、実は人間の知恵でもあるのかもしれない。

もちろん、決定と実行の主体が異なるというのは無責任の蔓延を生む元ではあり得る。
指示を出す側はあくまでも大局や理念に鑑みて必要だと思われる決定を下し、それを達成するための手立てや努力については実行側に丸投げする。その結果生じる従業員や顧客の苦労、苦悩には責任を持たない。
他方、実行する側は上からの指示だからと割り切り、懐疑を脇に置いてその達成に全力を注ぐ。それが経営面で十分に合理的と言えるのか、社会的・倫理的に正当化され得るのかについては責任を指導者側に丸投げする。
互いの領分における当事者意識の希薄さ……この構図は、特に企業ぐるみあるいは組織ぐるみの犯罪で見られがちだ。

けれども、逆に決定と実行の主体が一致していればどうなるだろうか。
従業員や顧客の生々しい苦悩を知ることで、痛みを伴うが必要な決定への躊躇が生まれるかもしれない。あるいは、一度方針を定めたとしても手心が加わって遂行が徹底されず、中途半端な結果しか出せないかもしれない。
指示を出す側も実行する側も、ある意味では自身の領分から外れる事柄に責任を負わないからこそ、全力で自身のパフォーマンスを引き上げられるという側面はないだろうか。
軍隊において上官命令への絶対的服従が厳命されるのも、おそらくはそこに理由がある。戦争というのは人が必ず死ぬものだ。100人「しか」死者を出さずに済むことが「大いなる成功」と称賛されることだってあり得る。仮に、10,000人が50%の確率で命を落とす可能性のある作戦と、100人は100%生還できない代わりに他の9,900人の生存確率が90%保証される作戦とがあれば、指揮官は後者を選ばなければならないだろう。そのとき、生きて帰ることが期待できない100人に深い思い入れを持つほど、作戦の選択は苦しいものになる。
また、戦争を遂行する兵士は敵を殺すという非人道的行為に手を染めなければならない。戦場において「自分の戦いに理はあるのか、上官の命令によって人を殺すことに道義的な責任はないのか」と逡巡することは、即座に自らの、あるいは戦友の生命を危機に晒すことを意味する。指揮官の言葉に盲従し、自らを冷酷な殺戮機械と化してしまう方が精神的にも楽であるし、おそらくは戦果も、自身の生存確率も引き上げられる。

残念ながら、合理的であることは必ずしも人道的ではない。その逆が世の常であるのと同じように。
だから、人は即物的な成果と引き換えに精神的な苦しみをも負うことになる。望んでもいないことに手を染めなくてはならない葛藤、そして罪の意識。決定と実行の分業は、時にこうした苦悩をもたらし、繊細で共感力の高い人間をこそ追い込んでいく。社会の発展と共に寛容さや共感性の後退という現象が見られるのだとすればそれは、競争社会においては無責任であることに対する自覚が強いる苦痛への感応性が強い人の方が成功や生存の可能性が低く、淘汰されやすいことの帰結なのかもしれない。



倫理や道義の話からは逸れるが、教育にも同じような側面がある。
学習者が教師を、競技者がコーチをそれぞれ必要とするのは、好意的に言えば「何を為すべきか」の決定を他者に委ねることによって自身の認知的リソースを勉強や練習に集中させることができるからだ。
他方、指導者は理論や必要性に基づき、実践者に及ぶ負荷をある程度黙殺して課題を与える。そうして本人が自分の力では無理だと思い込んでいる限界を突破させることで、より大きな力と成果を引き出すのが指導者の役割だ。教え子の心理を慮って「今出来ること」しかやらせないのでは、指導者の存在意義は薄れてしまう。

もちろん、ここにも裏返しの副作用は存在する。
指導者が生徒や選手の能力や状況を考慮せずに過重な負荷をかけることにより、身体的あるいは精神的な失調を引き起こしてしまう可能性。そして、指導を受ける側が指導者の言葉を全面的に信頼することで思考停止に陥り、不適切な練習に明け暮れたり、自身で課題を見つけ解決する力が育たなかったりする可能性といったものが考えられる。

旧来の日本的教育は決定と実行の分業をその肯定的側面に鑑みて是とし、徹底に努めてきた側面を持つ。生徒は未熟で無知な存在であるから、何をどのように為すべきかについては経験豊富な年長者の決定に従うのが望ましいとする。生徒が教師の指導方針に疑問を呈せば不快感を抱かれたり、叱責を受けたりすることもあるだろう。半面、教師に従順で教えられたことに対して忠実に取り組む生徒は模範的であるとみなされ、内申書などでも高く評価される。
そうした、主体性を欠くとも見える姿勢が重視されるのは、単純にそうした方が良い結果が出る場合が多いからだ。昨今は報道で指導者の不祥事を目にする機会が増えたため、教師のイメージは悪化し、不信感を抱くようになった人も少なくはないだろう。ただ、それは一部の極端な事例が悪目立ちしているに過ぎず、ほとんどの指導者は少なくとも教えることに関して高いモラルを保ち、真摯に取り組もうとしている。生徒が自分で考えるよりも適切な学習を教師がデザインできるなら、それに従っておいた方が高い成果を手にする可能性は高くなる。あくまでも可能性の話ではあるが。
また、「長い物には巻かれろ」式の教育が成果を出しやすかったのはそれが日本社会の縮図であったからでもある。発展期の日本では、学校の外、すなわち企業などの組織においても経験と見識の豊かな上司が方略を決定し、未熟な部下はその遂行に徹するというやり方が功を奏した。そうした社会では、人材には独創性よりも忠実さや再現性の高さが要求される。高い評価を受けるのは自然とそうした人間ということになり、評価軸もそのような観点から定められる。つまり、上位の人間の言うことを素直に聞き、言われた通りの作業が正確に行えるかどうかが評価において重要になるということだ。

言うまでもなく、この図式の成功は上位者の決定が的確であることを前提にしている。為すべきことが正しければ、その遂行の効率を最大化することが成果の最大化にも繋がることになる。翻って、「何を為すべきか」の判断が誤っていれば、その遂行の徹底は蹉跌や転落を早めることにしかならない。たとえて言えば、誤ったフォームで練習を繰り返すことで却って上達が妨げられるようなものだ。
このような場合、指導者には当然自身の決定の不適切さを省み、方針を修正する責任が存在する。けれども不幸なことに、多くの場合そうした反省は行われない。特に、外部環境の変化によって従来の成功モデルが機能不全に陥りつつあるような場合にその傾向は顕著だ。既に「ある程度」うまく行くことが保証されているやり方や成功体験を手放すのは難しい。ゆえに、経験と実績の豊富な人ほど自身の判断に固執してしまい、このジレンマを解決するのが難しくなってしまう。
そうなれば、決定者と実行者の無責任は悲劇的な結果しかもたらさない。それを回避するためには現場を知る実行者が現状に鑑みて上位者の決定に疑義を呈し、方略の再考を促していくほかない。また、上位者側もそうした提言を理解し変化に対応するためにも、現場の実状を知る努力をしなければならない。つまり、すべての人が決定にも実行にも責任を持つ必要があるということだ。
当然ながら、そうした組織では決断が鈍り、時間をかけて決定された方略の遂行もまた歩みの遅いものになるだろう。けれども、それは仕方のないことだ。真っ暗な険しい道で急いだところで、怪我をする可能性が高まるだけなのだから。



今、人類は大きな転換点に直面し、あらゆる答えを喪失した状態にある。

地球温暖化などの環境変動は、生産効率の最大化や生活の利便性向上を至上命題とした経済活動が限界を迎えつつあることを俺達に告げている。

人工知能技術や生命工学技術の爆発的な発達は、俺達の働き方や生活のあり方を変容させると同時に、そもそもそれらの科学技術を手放しで発展させるべきなのか、倫理的な問いを人類に投げ掛けている。

性別を対立する二項としてではなく連続性や流動性を持つスペクトラムとして捉える視座が生まれたことにより、男女の区分を前提としていた規範、社会制度や公共空間のゾーニングは再考を迫られている。

こうした移ろいゆく世界において、旧来の規範や価値観への盲目的な固執は無意味であり、時に害悪ともなり得る。もちろん、受け継がれてきたものを何でもかんでも否定するのが良いわけではない。ただ、今あるものを保持するにしても、時代の変化に即してその意義を再定義する必要がある。
つまり、絶対的な安心を与えてくれる答えはもはや存在しない。俺達一人ひとりが自分で問いに向き合い、暫定的な仮説を打ち立てそれを検証するという過程を繰り返していくしかない。
そんな中、教師や指導者が為すべきこともまた変わっていくはずだ。現代の大人は内省や価値の再定義を経ることなく、自身の規範意識や成功体験を絶対化して語る資格をもはや有しない。壇上から降り、今の時代に何かを為すということがどのようなものであるのか、自ら知ろうとしなければならない。
また、生徒や部下も自らの学びや経営に無責任ではいられない。誰かに「何を為すべきか」という問いへの答えを求め、下された言葉を盲信してその遂行に励むだけでは、時代遅れの大人と共に泥舟に乗ることになってしまう可能性がある。

無責任を動力とする疾駆が優位性をもたらす時代は終わってしまった。
教育、経営、科学研究、政治といったあらゆる領域において、あらゆる立場の人間が指針の決定とその実行に責任を持たなければならない。
そして、教育はその責任に耐え得る精神と思考力を持った人間を育てなければならない。

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