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【試し読み】福岡伸一先生「生命とは何か?」②(『生命を究める』より)

3月15日発売の『表現を究める』『生活を究める』の刊行を記念して、好評発売中の「スタディサプリ三賢人の学問探究ノート」シリーズをnote限定で一部公開していきます。引き続き『生命を究める』より、生物学を研究している福岡伸一先生の「!!!」をめぐる物語です。

福岡伸一先生
1959年東京都生まれ。京都大学農学部卒業。米国ハーバード大学医学部博士研究員、京都大学助教授などを経て、現在は青山学院大学教授、米国ロックフェラー大学客員教授を務める。専門は生物学。

ジグソーパズルのピースは、こっそり交換されている

毎日「私」を捨てて、新しい「私」になる

 時間の経過に注目すると、人間の体には、あるおもしろい現象が起きていることに気づきました。人間は毎日、時間の経過と共に、自分を形づくっている細胞をどんどん入れ替えているのです。
 気づかないうちに、あなたは体の外から入ってきた新しいものと、今のあなたを構成している細胞の中身とを交換しています。例えば、胃や小腸、大腸などの細胞は、たった2、3日で入れ替わります。筋肉の細胞は、2週間くらいで約半数が入れ替わっています。あなた自身の細胞はウンチなどでどんどん捨てられていく一方で、食事や外の環境からやってくる新しいものが取り入れられているのです。だから1年もすれば、あなたを形づくっていた細胞は、あなたの中からほとんどなくなってしまいます。いわば、今のあなたは、1年前のあなたとは物質的に「別人」なのです。
 それでも見かけ上は、あなたはあなたであるように見えます。ジグソーパズルでたとえるなら、全部のピースが一度に入れ替わるのではなく、他のピースとの関係性を保ちながらピースが一つひとつ入れ替わっているのです。ピースをひとつ抜いても、全体の絵柄はそう変わりません。
 おもしろいのは、新しいものを入れる前に、体は自分で自分のことを分解し、古いピースを捨てていることです。自分の一部を壊し、捨てては入れて、また捨てては入れてと、体は絶えず動きながら「あなたであること」のバランスを取っています。
 私はそのことに「動的平衡」という名前をつけました。「動的」は動いていること、「平衡」はバランスのこと。絶えず変化し、動きながらバランスを取る姿そのものを表現する言葉をつくったのです。
 生命とは、遺伝子のことでもなければ細胞のことでもない。自分で細胞をどんどん壊す。壊し続けることで安定する。そう、生命は動的平衡である——これが私の見つけた、「生命とは何か?」への私なりの答えでした。

どんなに片づけても散らかるし、熱烈な恋もやがて冷める

 ところで、なぜ私たち生命は、わざわざ壊してまで、自分の一部を入れ替え続けているのでしょうか。その背景には、すべての生き物が抱えている運命がありました。
 宇宙には、あらゆるものは「整った状態」から「散らかった状態」の方向へと動く、という大原則があります。ちょっと難しいので、身近な例で説明しましょう。
 例えば、あなたが部屋の片づけを終えたばかりだとします。きれいに整理整頓した部屋は、もう二度と散らかることがないように見えるでしょう。ところが、何もしなければ、1か月もすると散らかってしまいます。また、あなたが恋をしたとします。どんなに「あなたを愛し続けます」と誓っても、「恋をしたばかりの気持ちのままずっと変わらない」なんてことはないのです。
 どちらも、あなたのせいではありません。形あるものは崩れ、光っているものは錆びる。宇宙にあるものはすべて、何もせずにそのままでいたら、ただ悪いほうへと転がり落ちていく運命にあるのです。
 植物や生き物も同じです。リンゴを切って置いておくと茶色に変色するように、人間の体も時間が経つと酸化して、肌にシミができたり、血液がドロドロになったりします。
 生き物は常に、劣化する脅威にさらされています。だから、できるだけ長く生き続けるために、自分自身をどんどん壊し、入れ替えて、変化していくことが必要なのです。古くなったものや悪いもの、ごみのようなものを捨て続けながら、変わることで生きていく。だから、生命は「動的平衡」なのです。

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 この「動的平衡」の考え方は、生き物だけではなく、世界のあらゆるものの見方までをも変えていきます。

選手を入れ替えても「阪神タイガース」は続く

新入生が入っても、部活の伝統は変わらない

 自分自身を壊し、パーツを入れ替えて、絶えず動きながらバランスを取っている。そんな「動的平衡」という考え方で世の中を見てみると、気づいたことがありました。それは、生命以外にも「動的平衡」なものがある、ということです
 例えば、プロ野球チームの阪神タイガースは、長年応援を続けている熱狂的なファンが多い球団です。熱狂的な阪神ファンの中でも年配の人に阪神タイガースについて聞いてみると、うれしそうにこんな話をしてくれる人がいるかもしれません。
「やっぱりバックスクリーン3連発はすごかった」
 バックスクリーン3連発とは、阪神タイガース対読売ジャイアンツ(巨人)戦で、ランディ・バース、掛布雅之、岡田彰布の看板3選手が、3者連続でバックスクリーンにホームランを打ったというできごとです。歴史的な瞬間として、今もなお、「阪神タイガースといえばバックスクリーン3連発」と語り、熱心に応援している人がたくさんいるのだそうです。
 でも、これは少し不思議な話です。バースも掛布も岡田も、今の阪神タイガースの選手ではありません。実は、バックスクリーン3連発は1985年のできごと。30年以上前の話です。かつて活躍した選手はもうとっくに引退していて、「その人の好きだった阪神タイガース」と「今の阪神タイガース」はまるで別物なのに、一体なぜ、今も阪神タイガースを応援しているのでしょうか。
 それは、阪神タイガースが「動的平衡」だからです。
 常に古い選手が卒業し、新しい選手が入ってくるけれど、そこにあったブランドやチームの文化、他の球団との違いは継承されていく。そして、選手や監督の単位で見ればまったくの別物になりながら、阪神タイガースというものが続いているのです
 阪神タイガース以外でも、長く続いている組織では同じようなことが起きています。
 あなたの学校にも、長く続く伝統のある部活がありませんか?
 一見変わらないように見えても、毎年先輩が卒業し、新入生が入部し、長い期間で見ると常にメンバーが変化しています。人や時代が変わるたびに、部活の決まりごとや成果も変わっているかもしれません。それでも「〇〇部の伝統」と言われるようなものが、なぜか変わらず続いていく。
 これは、細かい部分を少しずつ入れ替えながら、同じものであり続けるためにバランスを取っているからです。むしろ、ずっと同じ人たちだけで何年も続けていたら、そのうちマンネリ化したり、弱体化したりすることもあるでしょう。
 常に動いて変化し、変化することでバランスを取る。この「生命っぽい」ふるまいは、何もせずにいたら劣化する運命の中で、何かを長続きさせていくヒケツです

法隆寺と伊勢神宮、どちらが生命っぽい?

 ある建築家と話していたとき、ふとこんな問いが浮かびました。法隆寺と伊勢神宮、一体どちらが生命の動的平衡なふるまいに似ているだろう?
 法隆寺も伊勢神宮も長い歴史を持つ、日本を代表する著名な建築物です。さて、あなたなら、どちらの建物のほうが動的平衡、生命っぽいと思いますか?
 この問いを投げかけると、多くの人が「伊勢神宮」と答えます。なぜなら、伊勢神宮は20年ごとに神体がまつってある正殿などの建て替えを行い、神様に新しい建物へ移ってもらう「遷宮」を行っているからです。建物を定期的に新しくしているのだから、生命の動的平衡のようではないか、と思う人も多いのでしょう。
 しかし、私の考えは違います。法隆寺のほうが生命っぽいと思うのです。
 世界最古の木造建築といわれながら、現代まで法隆寺がその姿を残しているのは、建物のさまざまな部材が常に少しずつ入れ替えられ、更新されているからです。
 いろいろなところが柔軟に動き、一部分を抜いても崩れないような構造になっているため、部分ごとに新しい部材と入れ替えられる。だから、設計図がなくても、何度も全体を解体して修理しなくても、現代までその姿を残し続けてきたのです。
 遷宮のたびに一新して建て替える伊勢神宮よりも、ちょっとずつ入れ替えていく法隆寺のほうが生命っぽい。私はそう考えています。

 さて、建築の次は、文学です。文学の中に「生命っぽさ」を探してみましょう。鴨長明の『方丈記』は鎌倉時代に書かれた随筆ですが、冒頭にこんな文があります。

ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとゞまりたるためしなし。
『新訂 方丈記』岩波文庫より

 まず冒頭の一文は、「行く川の流れは絶えることがなく、その上、もとの水と同じではない」という意味です。絶えず流れていて、もとの水と同じではない——何だか生命っぽいでしょう。
 さらに、「かつ消えかつ結びて、久しくとゞまりたるためしなし」。つまり、「一方では消えてなくなり、一方では形ができて、そのままの状態で止まっているということはない」ということ。一方では壊され、分解され、捨てられていく。一方では新しいものが来て合成される。これはまさに動的平衡を表した一文ではありませんか。
 何百年も前から、この世の中には、生命っぽいものや生命っぽい現象を描いたものがたくさんありました。私がそのことに気づいたのは、「長続きするためにバランスを取り続ける現象」に「動的平衡」という名前をつけたからです。名づけることで新たな発見をすることがあるのです。

ゆるゆる、やわやわで持続可能にしよう

 私たちの体が自分を壊し、部品を交換し続けられるのは、生命がそもそも壊しやすいしくみになっているからです。いろいろなところが柔軟に動き、一部分を抜いても崩れないような構造になっていたから、法隆寺が部材を交換し続けられたように、生命や、生命っぽいものは、自分自身をあえてゆるく、やわらかくつくることによって、部分的に壊して入れ替え続けることを可能にしています。
 私たちは、この生命の姿から何を学べるでしょうか。
 今、世界では「持続可能な社会をつくろう」という言葉が共通の標語として唱えられています。持続可能とは、簡単にいえば長続きすることです。
 もし生命から学ぶべきことがあるとするなら、長続きするために大事なのは、頑丈にすることでも、完璧な設計図を引くことでもありません。大事なのは、部分的に壊して入れ替えながら、変化し続けられるようにしておくことです。あらかじめ壊すことを念頭に置いて、始めからゆるく、やわらかくつくっておく。生命の姿からは、私たちが抱える社会課題へのヒントももらえるはずです。

<続く>

『生命を究める』では、福岡伸一先生の他に、篠田謙一先生(自然人類学)、柴田正良先生(現代哲学)が登場します。ぜひそれぞれ異なる「問い」から生命を究める三者三様の物語をお楽しみください。

※この作品は、note内での閲覧に限り認められています。その他の方法で作品の全部または一部を利用することは、著作権法で特別に認められている場合を除き、すべて禁止されています。

イラスト:はしゃ
©Recruit 2021

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