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ブックデザイナー寄藤文平さんの「!!!」――“世の中にまだ受け皿がないもの”へ、形を与える瞬間

“自分らしい世界の見方”が、人とは違う道を切り開いていく――これは決して学問の世界に限った話ではありません。この「『!!!』に立ち止まる瞬間」インタビューでは、さまざまな世界の第一線で活躍する人たちのエピソードから、私たちが自分らしい気づき=「!!!」と出合うヒントを探っていきます

今回お話を聞いたのは、グラフィックデザインやイラストレーション、そしてブックデザインと幅広い分野で活動され、「スタディサプリ三賢人の学問探究ノート」シリーズのブックデザイン・イラストディレクションも手がけられた寄藤文平さんです。寄藤さんは書籍の企画や文章をどのように見て、装丁デザインやイラストをつくり出していくのでしょうか。

寄藤文平さん
1973年生まれ。2000年12月有限会社文平銀座を設立。R25の表紙や大人たばこ養成講座での仕事など、広告やプロジェクトのアートディレクションやグラフィックデザインの活動を行う。近年はブックデザインで数々のヒット作に携わるなど、多方面で活躍。

AIでも本の装丁はつくれる。それでも自分がつくる意味

――今回は本のデザインをありがとうございました! ブックデザインやイラストディレクションの過程で、しっかりと原稿を読まれるのが印象的でしたが、寄藤さんは、普段、どんなふうに書籍の原稿をご覧になっているのでしょうか。たとえば、寄藤さんが「うわ、おもしろい!」と心を動かされる瞬間は……。

寄藤:原稿を「おもしろい」と思うことは、あまりないですよ。たとえばお医者さんが患者さんの話を聞いて「おもしろい」とは思わないんじゃないかと思うんですけど、それと似ているかもしれません。原稿を読むときは漢字とひらがなのバランスとか、章ごとの話の進め方といった、文の性質を調べていく感じです。自分が「おもしろい」と感じることも、性質の一つの側面ではありますけど、素直な読者としての「おもしろい」とは、ちょっと違いますね。

ただ、ときどき「問われる」文章と出合うことがあります。たとえば、まだ誰もその領域について知らなくて、既存のジャンルで分類ができない内容で、今起きている切実な問題が、著者独自の目線から描かれているような……つまり、世の中にまだ受け皿のない文章です。そういう文章に出合ったとき「自分が問われているな」と感じます。

「これからの戦争の話をしよう」という本があります。戦争の話をしているんですけど、人間同士がどうやってバランスをとるかという、生々しい現実を描いてもいるんです。僕は装丁を担当したんですが、「戦争」っていう言葉があるだけで、どうしても「戦争の本」っていう既存のカテゴリーに引っ張られてしまう。だからといって「戦争の本に見えない本」にしようとすると、今度は嘘くさくなってしまう。

カテゴライズの力って、すごく強いんですよね。さらに、世の中のコミュニケーションが、カテゴライズ・ゲームみたいになっています。そのゲームに振りまわされない形で、どうやったら今、「戦争」と語りうるだろうかって考えてゆくと、自分にとっての「戦争」が問われるんですよね。

――原稿を読んで、寄藤さんはどういうところからデザインの構想を始めるのですか?

寄藤:僕が前提としているのは、デザインしてもしなくても、伝わるものは伝わる、ということです。だから、素直にタイトルと著者名を並べて、それで伝わるならそれでいい、というところからスタートします。

その上で考えるのは質感です。物質としての本の手触り感ではないですよ。人間でも、話していて「ふわふわした質感の人」「つるつるしている質感の人」って、感じることがありませんか? 話した内容は忘れてしまっても、その人の質感ってずっと覚えていたりします。

この本がどんな質感の本になっていたらいいだろうか、といったことを考えながら、書体をどうするか、紙をどうするか、タイトルはどのくらいの大きさか、といった具体的な細部を積み上げていきます。

――それって「自分だけの答え」を出さなければいけない作業ですよね? 著者も、読者も、編集者も、正解を持っていない。

寄藤:多分、今ある機械学習の技術でも「読者に伝わるブックデザイン」って、かなりの精度で作れるだろうと思います。僕がやっていることだって、けっこう機械的な側面ってあるんですね。どういう基準で造形を判断して、どういう手続きで形を整理すればいいのか、僕にもだいたい想像がつきます。
でも、それをしたとして「で、なんなの?」って思いませんか?

現在の状況をビッグデータが解析して、多くの人が必要としている内容をとりだして、ちょうどよく仕立てて、狙い通りに手にとってもらうことが可能だとしても、そういう本の質感って、「そうやってできた本」の質感だと思うんですよ。

デザインを「最適解」の発見方法みたいに考えるのは嫌いです。関わっている人たちが「こんな本にしたい」「急いでるからこの工程はカットしよう」「金がないからここはあきらめよう」なんて、それぞれの事情が交錯しながら生まれてくる方法や造形のほうが面白いですね。

だからこそ、自分が感じていることや判断に間違いや偏りがあることを当然として、でも、これで行きたいんだって飛び込んでいいと思っています


本には、正しい絵よりも「おや?」が生まれる絵を

――具体的に「三賢人の学問探究ノート」シリーズの装丁がどのようにされていったのか、お聞きしたいです。当初、この本の原稿をどのようにご覧になって、デザインをされていったのでしょうか?

図1

寄藤:専門家や研究者が、自分の知見を若い人たちに伝える場合、ふつうは「知っている人」が「知らない人」に向かって、高いところから低いところに水を流すみたいな構図になりがちです。体系立てられた学術書だったり、要点をまとめたレシピ集だったり、語り口は違っても、構図は同じだと思うんですよ。このシリーズはそこが逆で、「知らない人」が「知っている人」になっていく紆余曲折が描かれています。その道筋として学問を描いているんですね。僕にはそこが魅力的でした。

若い人って今、すごい忙しいんですよね。情報も多いですし。そういう人のための「学問探究ノート」ってどんなだろうか。そんなふうに考えて全体の設計をしました。抽象的な表現になりますけど、まずこれが「速い本」に見えている必要があると思ったんですよね。内容はひとりひとりの物語なんですけど、仕立てはあくまで機能的で、「スタディサプリのノート」に見えてほしい。

明快で早くて役に立つ。そういう仕立ての本なのに、いざ読んだ時に「あれ?この本、役に立つとかそういうレベルの話をしてないぞ?」っていう、気分良くだまされる感じはいいなと思いました。

――「三賢人の学問探究ノート」シリーズのイラストについてもお伺いします。原稿を読んだ寄藤さんのディレクションで、イラストの大まかな方向性が決まり、イラストレーターのはしゃさんがそこに大きな解釈を加えてイラストをつくり上げてくださいました。原稿から「絵」をつくるときには、どのように考えていますか?

寄藤:僕は、絵や図は「厳密に正確でなくてもいい」と思っています。もちろん、あまりにも複雑な文章の場合、その内容をシンプルに図とすることもありますが、文章を読めば大体わかることを、そのままの絵に置き換えられても「わかってるよ、うるさいな」と思いませんか? それよりも、絵を見て「おや? これってどういうことだろう?」と関心を持ってくれたり、頭にその絵を思い浮かべることで、テキストが活きいきと感じられたりしたほうがいい。
絵が存在することで、読む人と書かれた世界の間に対話が生まれていくというか、そうなっていれば、おおむねオッケーだと思っています。

今回の「三賢人の学問探究ノート」シリーズのイラストは、僕が図的な意味の構造を考えて、それを土台としながら、はしゃさんがひとつ上の絵にしてくださいました。はしゃさんの絵によって図に物語が加わって、先ほどお伝えしたような対話的なものになっていると思います。ぜひ注目してほしいです。

中面02_生活を究める


問いは、答えを出すより置いておきたい

――今日、お話を伺いながら、「三賢人の学問探究ノート」シリーズの研究者たちの物語を思い出していました。研究者たちはささいなことに“自分で”気づくことから、自分の研究テーマや問いを発見していくわけですが、その過程に心を打たれるのは、ひょっとしたら今、自分自身の見方や判断になかなか自信を持てず、外側の基準に飲まれているからかもしれません。

寄藤:今はだいたいの答えが手に入りますよね。自分の中に「問いが生まれる」瞬間って、なかなかないと思うんです。ちょっと話がズレますけど、人間って、初めて何かを知った二秒後には「でもまあ、そんなこと知っていたけどね」って思うようにできていると思う。逆に「すごく新しいことを聞いた!」と思う場合は、そう思わされている可能性があるから、怪しい(笑)。

問いって、もうすこし置きどころのないものだと思うんですよね。答えを出してしまうより、とりあえず受け皿を用意して、そこに置いておきたい感じもあります。僕はデザインとか表現物を通して、そういう置きどころないものに受け皿を用意していくことに、たぶんおもしろさを感じているんだと思います。

――ブックデザインの話を超えて、寄藤さんのお考えを伺い知ることができました。本日はありがとうございました!

■あなただけの「!」を見つけるために
ブックデザインをするとき、寄藤さんは企画書だけでなく、必ず原稿にも目を通すそうです。その中でも、世の中にまだ受け皿がない原稿と出合うとき、「“自分”が問われる」と感じるといいます。自分がどのようにそれを見て、どんな発見を得るのか。どんな形を与えるのか……。“自分”が問われる瞬間――それは、偽りのない自分自身の感想や批評を起点にして、自分の答えをつくり出そうとしている人だけに訪れる感覚なのかもしれません。
 
! あなたには「今、“自分”が問われている」と感じる瞬間はありますか?

取材・文・構成:塚田智恵美


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