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指示待ちな人について


指示待ち人間ってゆうと、あんまりいいイメージではつかわれないけど、なんか最近指示待ち人間になっちゃう人はそれはそれで仕方がないんじゃ無いかとゆう気がしている。

指示待ち人間も、かつては気を利かした経験があるはずなのだけれど、それを上手く有難がって活力にしてくれる相手だったかどうかでも、さらなる「やる気」みたいなものにつながらない場合があるからだ。

何故こうしないのかな?

という疑問って何をしていても発生するけれど、何故そうしないのかの経緯を説明し、深く理解に至る迄、現代は何一つ待ってはくれない。

大体が忙殺されて終わる事だらけだから。

昔なら上司と呑みに行ったりした先で、そこら変の理解を深め合ったりして、信頼関係を築く工程があったりしたのだけど、現代では時間は価値だからとかゆう理由で、仕事が終わると各々がさっさと帰る時代だ。

だから、こうゆう事が求められているとゆう確信が、持てないまま余計な事をしてしまうくらいなら、相手の指示を待って効果的に動いた方が無駄が無いとゆう理由で、気を効かせず指示待ちになるんだと思う。

堀江貴文さんが書いた本に、いつだが「僕はその人の失敗も含めて信用する」とゆう趣旨の事が書いてあった事があるのだけど、任せられる人を育てるとゆうのはそうゆうことで、その人の振り幅を認めてあげて、その結果得られた事が大筋で自分の目的と合致していれば良いのではないかとゆう気がする。

やり方の違いを執拗に否定したり、相手が感じる違和感に耳を貸さなかったりしていると、カチンコチンの指示待ち人間は直ぐに出来上がってしまうから。

これは、子育てにも言える事で、子供の全てをコントロールしようとして、何も出来ない子が育つのと一緒だと思う。

どうゆう風に乗り越え、目的を達成したのか。そこがその人のセンスなのだから。

指示待ち人間をやたら責め立てる人に限って、肝心の目的を明確にしてなかったり、指示が恐ろしく曖昧でしんどいのはつきものだと、最近そう感じる事がある。








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