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『コクリコ坂から』の食事風景から考えたこと

「そうだ、コクリコ坂からをみよう。」あの懐かしい日本の情景や希望に満ち溢れた学生たちの姿をもう一度見たくなり、少し前再鑑賞することにした。

数年前テレビで放映された時に一度観たものの、途中でうとうとしてしまいぼんやりとした記憶しか残っていなかったのだが、学校にある古い建物の大掃除をしていたことと主人公の作る料理がどれも美味しそうだったことは鮮明に覚えていた。


「こんなにいい映画だったなんて。」鑑賞直後の素直な感想はそれに尽きた。主軸になるのは主人公のメル(松崎海)と同じ学校に通う一つ年上の風間俊との恋模様なのだが、抜群のストーリー構成といい、それ彩る東京オリンピック前夜の昭和30年代という時代背景といい、本当に素晴らしかった。

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そんなたくさんの魅力の中で特に惹きつけられたのが私のおぼろげな記憶にもあった食事風景だ。
というのも映画の冒頭は朝ごはんを作るシーンに始まり、その後もたびたび食事シーンが挟まれるのだが、その度になぜだか清々しく、懐かしい気持ちになるのだ。


メルは誰よりも早起きして、家族と家業である下宿所の住人のために朝ごはんを作る。
「お鍋はグラグラ お釜はシュウシュウ まな板はトントトン」手嶌葵の歌う『朝ごはんの歌』に合わせてテキパキと支度する姿には惚れ惚れしてしまう。

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その日のメニューはハムエッグに納豆、ご飯とお味噌汁。どこの家庭でも出てくる定番の朝食メニューなのだが、それがこの上なく美味しそうでなぜかすごく特別なものに見えてくる。

そしてみんな揃ったらいただきます。

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「お姉ちゃん弁当ギュッと詰めてよ。」「まあたそんなにお醤油入れて!」その間に交わされる会話もほのぼのとしていてまさに平和そのものだ。

学校のお昼休みにはメル特製のお弁当が登場する。

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おかずは卵焼き、青菜の和物とおかか、そして抜群の焼き加減のたらこがぽってりと日の丸ご飯に載っている。アルミ製のお弁当箱というのがまた粋だ。朝ごはんを作る合間にこんなに完璧なお弁当が作れるなんて、中高校のお弁当は母に頼りきりだった私はメルを大いに見習わなくては。

夕食にはカラッとあがったアジフライ、背徳のオヤツにはお肉屋さんのコロッケ(10円!)と至高の飯テロが連発なので、空腹時にはご注意を。

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『コクリコ坂から』の日本の古き良き食事風景は、対面ありきの食の重要性を教えてくれる気がする。

馴染みの店で食材を買って食べる人を思いながら丁寧に調理し、みんなで食事の時間を楽しむ。この作品になんとも言えない懐かしさと憧れの気持ちを抱くのは、今そのようなかつて”当たり前”だった日常風景が失われつつあるからなのだろう。

確かに時代は変わり便利になった。しかし全てを簡略化しようとするあまり人と人とのふれあいや繋がりまで希薄になっていっているのもまた事実なのだ。

古いもの壊すことは過去の記憶を捨てることと同じじゃないのか!?
<中略> 新しいものばかりに飛びついて歴史を顧みない君たちに未来などあるものか!! 
ー作中 風間俊のセリフより


例えば朝はギリギリに起きて朝食は抜き、昼食といえばコンビニで買ったものを仕事の片手間にとり、夕飯は遅くまでやっているチェーン店ですます、というのが現代人の食生活のルーティンではないだろうか。

だが言い換えるなら簡略化された食事を前途に記した対面ありきの食事に見直すことが出来れば、この作品が切り取るような愛すべき日常を取り戻していくことができるのではないかと私は考えている。

誰かと食の喜びを分かち合えるのがベストかもしれないが、その対象が自分だっていい。今の自分の食べたいものを考え、食材を揃えて自分で丁寧に作って食べる。これもまた人と(自分と)対面する(向き合う)時間だ。
きっとしっかり食事と向き合うことは人と向き合うことなのだ。



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