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笠原メイと生と死と

中学三年の終わり頃に『ノルウェイの森』を読んで以来村上春樹の紡ぐ世界観の虜になってしまい、たくさんのタイトルに手を伸ばしては読み返し続けている。

村上春樹作品の魅力は私の語彙力では到底語り尽くせないほど奥深いのだが、ヒロインという私の偏愛視点からならば文章に綴ることが出来るかも知れないと思い、noteに投稿することにした。

笠原メイのヒロイン像

今回私が語るのは『ねじまき鳥クロニクル』(1994)に登場する笠原メイ
数ある村上春樹作品の中で私が最も共感できるヒロインの一人だ。

主人公が行方不明になっている飼い猫を探していた時に知り合い親しくなる近所に住む16才の少女なのだが、学校には行っておらず昼間はたいてい庭先で日光浴をして過ごしている。不良というわけではないがよく煙草を吸っていて、銘柄はショートホープというのがバリ渋い。

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彼女の髪はいつもポニーテールに束ねられていて、袖なしTシャツにショートパンツなどこざっぱりとしたボーイッシュな格好をしている。

この物語の舞台となっている1984年の初夏、といえば中森明菜がポニーテールヘアでサザンウインドを歌っていた頃だ。

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クールなメイはきっと明菜のようなふわふわとした華やかなポニーテールではなく、ひっつめ髪と称した方が適しているようなラフな雰囲気を想定して読んでいたが、ひそかに好意を寄せるねじまき鳥(メイは主人公のことをこう称する)に会う時はカイガイしく、こんな風にくるくるドライヤー片手にめかしこんでいたかもしれない。


ちょっとばかり生意気な喋り方やねじまき鳥曰くペシミスティック(世の中に冷めた視線を投げている様)でニヒルな雰囲気は高校時代の自分を重ねてしまう。
16、7才というのはアナーキストを気取りたい年頃なのだ。
その実繊細で人並み以上の感受性を持ち合わせており、学校や家庭でも窮屈な思いをしていたよう。

もし私がペシミスティックだとしたら、ペシミスティックじゃない世の中の大人はみんな馬鹿よ
ー第一部 泥棒かささぎ編 P.211より

ティーンエイジャーの生死観

メイは物語の登場人物の中で最も若く、年齢という観点で見れば言わずもがな "死"というものから一番遠い場所にいる存在だ。
だからこそ彼女は絶対的存在である"死"を想起し、そのイデアを求めてパンドラの箱を開けてしまった。
その罪を償うには彼女はあまりに若く、どうすることもできず外界を全て遮断し、殻に閉じこもっていたのだ。

人が死ぬのって、素敵よね
ー第一部 泥棒かささぎ編 P.39より
そういうのをメスで切り開いてみたいって思うの。死体をじゃないわよ。死のかたまりみたいなものをよ。
ー上記と同じ


彼女のように直接的に死という領域に踏み込んだことはなくても、その未知に恐怖したり、間接的に奇妙な憧れを抱いた経験は私にもある。

私が幼い頃、「人はいつか死ぬ」という事実を初めて目の当たりにした時、今まで感じたことのない恐怖に心が支配された感覚を今でも覚えている。
今思えばそれは、メイのいう死のかたまりというものを生まれて初めて自分や他人の中に認知した瞬間だったのだろう。

それから何年ものち、メイと同じぐらいの年頃になってからはやはり、死という事柄に対しては好奇心という感情が大きく作用していたように思う。
人がたくさん死ぬ物語を積極的に選んで読んだり、臨死体験や死後の世界についての文献を調べてみたり、思い当たるところはたくさんある。

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↑同じく村上春樹のノルウェイの森も若者の生死観が主題となった作品だ

それはまだティーンエイジャーとはいえど歳を重ねることにより、生と死は対局でなく、人間は生の中に死をも内紛し得るのだということに気付き始めていたからではないだろうか。

それでもまだ不確かな"死"という存在に対し思いをめぐらせることにより、
「自分は生きている」という確証が欲しい、そしてその意味を知りたいという逆説的で矛盾した気持ちが生まれるのだと私は思う。

自分がいつか死んでしまうとわかっているからこそ、人は自分がここにこうして生きていることの意味について真剣に考えないわけにはいかないんじゃないのかな。
ー第二部 予言する鳥編 P.192より


ねじまき鳥とメイ

主人公ねじまき鳥はそんなメイと正面から向き合い、対等な立場で彼女の自問への答えを一緒に見つけ出していく。
彼との出会いで自分を見つめ直し、前を向いて歩いていくメイの姿にはとても心を打たれた。

そして何よりも十代の少女の微妙な心の動きや物事に対する感じ方をここまでリアルに描くことができる村上春樹の力量は本当に底が知れない。
かつてサリンジャー著『ライ麦畑でつかまえて』の主人公ホールデンに激しく共感し熱狂した若者たちのように私はメイを自分の分身ように感じるのだ。

「たった一人、心の内を明かすことができる大人がいるだけで若者はこんなにも成長するものなのだ。次にこの世界でねじまき鳥の役割ができるのはあなたかもしれない。」
天の声はそう言っている気がする。



またねじまき鳥は物語の本筋の中で、ある種普通ではない人物と多く関わり常軌を逸した体験をすることになるのだが、メイは所謂現実世界と繋がる唯一の扉のような存在となる。

メイは途中で実家から遠く離れた場所で暮らすことになり、そこで彼へ向けて書いた手紙(本人に届くことはないのだが)も笠原メイの視点として物語の中で重要な役割を果たしていく。
彼自身の成長にもまたメイは絶対不可欠な存在だったのだ。

守り守られて

ねじまき鳥さん、何かがあったら大きな声で私を呼びなさいね。私と、それからアヒルのヒトたちをね
ー第三部 鳥刺し男編 ラストシーンより
さよなら、笠原メイ、僕は君が何かにしっかりと守られることを祈っている。
ー上記と同じ



すっかり頼もしくなったメイとねじまき鳥の再会と別れでラストは締め括られる。

それを見た時、「彼女たちはもう大丈夫。」と思うのと同時に私自身も彼女たちと一緒に何かと戦い、ある答えを導き出してきたような充実感とこの作品に守られているような安堵感をおぼえるのだった。

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