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メッセージ疲労(JES通信【vol.170】2023.9.12.ドクター米沢のミニコラムより)


▼コロナの概況

 今回は冒頭にコロナの状況を簡単にまとめました。天気予報ならぬ「コロナ概況」です。

〇流行状況

 コロナの流行状況についてマスコミがほとんど報じなくなったので、「コロナは落ち着いている」「コロナは終わった」と思っている方もいらっしゃるようなのですが、身近で感染する方が増えていませんか?今年の5月以降、新規感染者数は増え続けており、9月初旬の現在、まだピークが見えない状況です(資料1)。電車やバスの運転手の体調不良による運休、インフルエンザの流行、各地での学級閉鎖などが起きています。引き続きご注意ください。

〇流行株

 東京都の報告によると(資料2のゲノム解析)、現在主流の変異株はXBB1.16などのXBB系統ですが、XBB1.9.2から分かれたEG.5(XBB1.9.2.5。通称エリス)の動向に注意を要すると言われています。今のところ感染力や毒性に大きな変化はないようです。

〇ワクチン

 9月20日からワクチンの追加接種が始まります。XBB対応の1価ワクチンと呼ばれるもので、生後6ヶ月以上のすべての方が対象です(資料3)。詳細はお住まいの自治体にお問合せください。最終接種から時間が経った人が感染すると肺炎を起こしているという情報もありますので、最終接種から1年近く経った方は早めの接種をお勧めします。今春に6回目を接種された方は今冬の流行前のタイミングでいいように思います。

▼メッセージ疲労 (Message Fatigue)

 この3年、当コラムではコロナのことを書き続けました。「もうコロナの文字なんて見たくない!」と思われた方も少なくないのではと案じます。同じことを言われ続けたら誰だって嫌になりますよね。私も毎回、「今回もコロナでいいのか?」と自問しながら、しかし起きている現実を見ると、伝えないわけにはいかないと思い直し、キーボードを叩いてきました。
 健康に関する同じようなメッセージに繰り返し、長期間曝されることで起こる心理的な抵抗感を「メッセージ疲労 (Soら、2017)」と呼ぶそうです(資料4)。このメッセージ疲労をめぐって、東京大学の奥原剛氏が詳しく論じている論文(資料5)をご紹介します。

〇知識偏重のコミュニケーション

 今回のコロナ禍では、ディスタンス、マスク、アルコール消毒、外出自粛などの対策が強調されましたが、人は自由を制限されると抵抗感を抱き、自由を回復しようとして、推奨に反する行動をとることがあります(ブーメラン効果と呼びます)。人はメッセージ疲労を感じると、メッセージを避ける、無視するといった消極的抵抗のみならず、反論などの積極的抵抗を行い、結果的にメッセージの効果が低下することが起こりえます。
 これは公衆衛生の専門家のコミュニケーションが「知識偏重」のために引き起こされると奥原氏は考えています。専門家は正しい情報を伝えれば望ましい行動が促せると考えるわけです。私がコラムで書き続けたことも、その時点で正しいと思われる情報でした。

〇知の呪縛

 なぜ専門家は知識偏重になってしまうのでしょうか。それは知識があるがゆえに、「知識がない状態を想像できない」からだと奥原氏は述べます。これを「知の呪縛」と呼びます。
 知の呪縛のため、市民の頭の中を想像できず、市民が直面する困難(専門用語や数字の意味がわからない等)を過小評価し、正しい知識を与えたら正しい行動をしてくれるだろうと思ってしまうのです。クラスター、オーバーシュート、ロックダウン、ロードマップ、ウィズコロナなど、特に初期にはよくわからない横文字が飛び交いました。これでは一般市民は理解をあきらめてしまうのではないか。相手が受け取れるメッセージを送らなければ効果が薄れるのではないか、と私も過去に論じました(資料6資料7)。

〇動物的な心と分析的な心

 ではどうすればそのようなコミュニケーションを避けられるのか。奥原氏は認知機能の二重過程理論を紹介しています。人は「動物的な心」と「分析的な心」の2つの異なるタイプの心を持っていて、動物的な心は、進化的に古く様々な生物に備わっていて,反射的で迅速・自動的・強制的に作動するのに対し、分析的な心は進化的に新しく、人に固有で、内省的だというのです。これはノーベル経済学賞を受賞したカーネマンの、「速い脳・遅い脳」に対応します。動物的な心は、以前ご紹介した行動経済学用語のヒューリスティック(直観的)に相当します。
 動物的な心と分析的な心の違いについて、奥原氏が極めてわかりやすい、秀逸な例を挙げていたのでご紹介します。ちょっと汚い例なので、心してこの後を読んでください。いいですか?いきます。「コップに吐き出した唾を再度口に入れて飲み込んでください」。たぶんほとんどの人が、「そんなの気持ち悪くてできない!」と思うのではないでしょうか。私ももちろん嫌です。でも、さっきまで何の抵抗もなく自分の唾は飲み込んでいたんですよ。科学的に言えば何も問題ありません。分析的な心で考えれば飲み込めるのです!でも動物的な心は拒否するのです。
 分析的な心よりも動物的な心の方が、はるかに力が強いのです。ですから、人に行動変容を呼びかける際は動物的な心にも働きかける必要があり、奥原氏は、「感じさせるコミュニケーション」も重要であると述べています。たとえば、「ワクチンは安全で効果的な予防法です」という分析的な心へのアプローチだけでなく、「ワクチンを接種して、自分と周囲の人を守ることに誇りを感じましょう」といった、人の「誇りの感情」(動物的な心)に働きかけることが重要というわけです。

〇ナッジ(Nudge)

 この論文を読んで頭に浮かんだのがナッジでした。ナッジとは、「肘で軽くつつく」「そっと後押しする」といった意味で使われる行動経済学の用語で、「選択の自由を確保しつつ、強制力や金銭的インセンティブを使わずに行動を促す手法」などと説明されます。
 ナッジは2017年にノーベル経済学賞を受賞したリチャード・セイラーが提唱したもので、近年注目を集めています。ナッジとして有名なのが、タバコのポイ捨て問題に対するイギリスのNPO団体「Hubbub」の試みです。サッカー好きのロンドン市民に、「クリスティアーノ・ロナウドとリオネル・メッシ、どっちが世界最高のプレーヤー?」と、吸い殻で投票を求め、ポイ捨てを減らすことに成功しました(資料8)。市民の遊び心(動物的な心)を刺激した、素晴らしい取り組みですね。
 今年7月に東京で行われた日本健康教育学会で、ナッジの「伝道者」として有名な竹林直樹氏の講演を聴く機会がありました(資料9)。実は自治体ではナッジの活用が研究され、いろいろと試されているのです。
 今回のコロナは100年に一度と言われる危機で、正しい情報をいかに早く市民に伝えるかが最優先されました。しかしその情報発信の仕方にナッジのアイデアが生かされれば、情報の混乱や世間の分断が、もっと回避できたのではないかと思ってしまいます。9月から内閣感染症危機管理統括庁が稼働しました。ぜひこういったリスクコミュニケーションの研究も進めてほしいと願っております。

資料

1) https://moderna-epi-report.jp/
2)https://www.hokeniryo.metro.tokyo.lg.jp/kansen/corona_portal/info/past_monitoring.html
3) https://www.mhlw.go.jp/content/001133311.pdf
4) https://www.tandfonline.com/doi/full/10.1080/03637751.2016.1250429
5) https://www.jstage.jst.go.jp/article/kenkokyoiku/30/2/30_300204/_pdf/-char/ja
6) https://note.com/sangyo_dialogue/n/n82c92e15d202
7) https://note.com/sangyo_dialogue/n/n6197ee02186e
8) https://predge.jp/96607/
9) https://note.com/sangyo_dialogue/n/n45ff7c68e62b 

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