『天国の祖父へ。』私は、あなたに会いたかった。
桜の花が咲く季節。春。
私はこの季節になると、会えなかった祖父のことを想う。
祖父は、桜の美しいところの出身だ。祖父の住むところには、いつも桜の木があった。桜が好きだったのだろう。
そして、祖母も桜の木が大好きだった。
たぶん、二人が好きだった桜は、『八重桜』。
私の母方の祖父は、2月の冬の寒い日に、駅で列車を待っている時に倒れてそのまま亡くなった、と聞いている。
私が生まれる、約1か月前のこと。
生きていたら、4人であの家に住んでいただろう。
祖父の誕生日は、私の誕生日の前の日だ。
私が生まれる時、母と祖母は「この子が、お祖父ちゃんと同じ日に生まれますように。」と願ったらしい。
しかし、翌日に生まれた私。
きっと祖父が、同じ誕生日にならぬようにしてくれたのだと、私は勝手に解釈している。
だって、私の誕生日が来る度に、母と祖母は『祖父のことを思い出すから。』
私の『生誕の日』どころじゃなくなって、『祖父を思い出す日』になってしまうから。
祖父について母から聞いていたのは、寡黙で努力家で、真面目で、賢明で、いつも母の兄たちと討論をして、怒るとテーブルをひっくり返すくらい恐かった、仕事は公務員
という話だった。
「なんだ、頑固ジジイか。」
と思いながら、伯父の家にある仏壇の上に掛けられていた、祖父の遺影の写真。
眼鏡をかけて、こっちを向いて睨んでいた。
「じいちゃん、こえー。」
といつも思っていた。
「何故、あの写真にしたの?」
と尋ねると、母は「だって、まともに写っているの、誰かの葬儀の時の写真しかなかったの。」と答えた。
けれど、私が誕生するのを、とても楽しみにしていたらしく、ベビー用品をたくさん買っていたらしい。
それなのに、私の顔を見ることなく亡くなってしまった祖父。
母は3人兄弟だ。
上に兄が二人いるが、母は遅くに生まれた子供らしく、二人とはとても歳が離れている。
そういうこともあり、母は祖父にとても可愛がられていた。怒られることもあったらしいけど。
可愛い娘の子供が生まれることが、嬉しくてしょうがなかったのだ。
祖父が亡くなり葬儀を終え、しばらくしてから、母と祖母は庭に桜の木を2本植樹した。
『ソメイヨシノ』と『八重桜』。
庭といっても、後々家主である伯父が住むことになる。
結局『ソメイヨシノ』は腐ってしまい、『八重桜』だけが残った。
春になり、八重桜が咲く季節になると、涙が出るくらいに見事な姿を見せてくれていた。まるで、その木に祖父の命が宿っているように感じる。
「生命力の強さ」という言葉がしっくりくる。
ちょっと破天荒な部分もあった祖父。
祖父のエピソードを母から聞く度に、
「なんか、私に似てない?」
と思うと同時に、
母が「あんた、じいちゃんに似てるのかも。」と言うのだ。
なんとなく、祖父に縁を感じ続けていたのだが、決定的だったのは、私の家族の転勤先だった。
なんと!
祖父が幼少時に住んでいた、小さな場所に行くことになったのだ。
私は鳥肌が立ったし、両親も妹も親戚中が驚いたのは言うまでもない。
私と祖父の縁が凄すぎやしないか。
あそこに行くなんてどんな確率で、という話になったのだ。
母と伯父たちは喜んでいた。いつでも行けるね、と。
私からしたら、観光ではなく住むわけですから、みんなとはかなり温度差があった。
「遊びで行くんじゃないんだよ!仕事なんだよ!」」
そして私は、祖父が幼少時に暮らしていた場所に行った。
何にもないところだけれど、自然に囲まれ、海と空がとてつもなく美しい。
祖父は、家族と離れて進学するまで、こういう場所で暮らしていたのか、と時間が出来ると散策していた。
山の中に入ると、とても美しい滝がある。空気も美味しく、夜は星が綺麗な場所だ。
私は、
「祖父はこの場所で、どんな少年時代を過ごしたのだろう。」と何度も想像した。
しかし、私のそこでの生活は約1年半で終わってしまう。
病気になったからだ。
家族を残し、私は実家にお世話になることになる。
★このことについては、改めて書こうと思う。
それから数年経ち、その間家族は2年ごとの転勤。
『私は』というと、実は一昨年、某テレビ局の「とある番組」にメールを送ったのである。
有名人のルーツを探る番組だ。
その番組で、「一般の方のルーツを募集します。」旨の企画があり、祖父のルーツを探ってほしいとメールをしたのだった。
返事は来なかった。当たり前だ。情報が少なすぎるし、私が勝手に祖父との縁を感じているだけだもの。
すると2ヶ月経った頃、メールをしたことすら忘れてしまった頃、某テレビ局の担当者から、メールの返信がきたのだ。
要約すると
あなたのメールを読みました。文章から、おじいさまへの強い想いに心を動かされ、込み上げてくるものがありました。あなたの想いを何とか形にしたいので、取材させて頂きたくメール致しました。
というものだった。私の祖父への想いが、第三者に伝わったのだ。
すぐに、取材日時を決めて、私の体のことを気遣ってくれ、通院日に病院で祖父について話をした。祖父のことでわかること全てを話し、母も取材に協力してくれた。
何度かメールでやり取りしたり、会って進捗状況を教えてもらった。
膨大な資料の数であった。調べてもらっているだけでなく、今まで接したことのない職種の方と話をしていると、
「こういう時は、このように物事を進めたほうがいいんだ。」
とか、
「そういう、ものの見方があったか。」
と学ぶこともたくさんあった。
だんだんと、私と祖父の接点のようなものが見えてきそうな、想いが形になるような気がした。
あとは、遺影以外の祖父の写真であったり、家族の写真であったり、祖父の友人の話、祖父に関係するもの等が必要になってくる。
祖父の友人のことや、母の証言以外の祖父のことを、伯父に電話で聞いてみた。(母の長兄は亡くなっているため次兄に。)
問題は、長兄の長男であった。
何しろ、祖父と祖母の物は、長兄宅の仏壇の下の物入れのようなところに保管してあったからだ。
写真や昔のフィルム等、伯父が生きていた頃は、私が「見たい」と言うと、伯父は見せてくれて、思い出話に花が咲いた。
しかし伯父が亡くなってからは、その家に行くことはなくなり、仏壇の下の物入れを開ける機会もない。
そこで、伯父の長男夫婦に事情を話し、協力を求めたが、やんわりと断られたのだった。
★このことについては、改めて違うタイトルで書きます。
この話を、テレビ局の担当者に伝えたところ、
「たぶん、あなたの話のとおり、仏壇の下にお祖父様のものがあると思う。たいていはそこなんだ。」と。
だって、私はそこに、祖父や祖母に関するもの、思い出の品たちが「保管されている」ことを、小さな頃から知っているから。
結局、テレビ局の担当者と私も、出来る限りのことはやり尽くした。
だが、伯父の長男が首を縦に振らないのだから、「私の祖父への、熱い想いが形になる」
ことは、叶えられることなく終わってしまった。
亡くなった伯父が生きていたら、協力してくれただろう。何故なら伯父は、私にとっての祖母(伯父の母)のルーツを探っていたからだ。自分で調べて、祖母の出身地まで足を運んだが、伯父の願いも叶うことはなかった。(母曰く、祖父と伯父と私って、似ているみたい。)
テレビ局の担当者から
「こちらの力不足で、想いを形にすることが出来なくて、申し訳ありませんでした。
今回は、チームみんなで何としてでも、あなたとお祖父様の物語を作りたい想いでした。
場合によっては、違う枠を作って放送したかったのです。
でも、あなたの想いは天国のお祖父様には、伝わっているのではないでしょうか。
お祖父様は、こんなにも自分のことを想われて、喜んでいると思います。」
旨のメールがきたのだった。
こちらこそ、祖父に関係のあるあらゆる場所に足を運んでもらって、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
形に出来なかったのは、寧ろ私のせいである。私の力不足だ。
でも、私は頑張ったと思う。動ける範囲内で、私も情報収集をした。
母の話では、祖父は、自分の人生を後悔しているところがあったと言う。
私は、そんな祖父を、苦労してきた祖父を、「光の当たる場所」に出してあげたかったのかもしれない。
母も伯父(母の次兄)も、祖父について、知らなかったことがあったようで、今回の件で初めて知ることもあったようで、喜んでくれたのは嬉しい。
【しかし、私はここで諦める人間ではない。】
【Aの方法がダメなら、Bの方法に変更だ】
そんな思いを胸に抱き、ある日実家の母の部屋で過ごしていた。
すると、いつもの勘のようなものが働き、
母の、一番右端に置いてあるタンス→どこだよっ!
の前に立ち、一番上の小さな戸を開けた。
そこには、整理されていない写真やら、アルバムが存在していた。
やっぱり、ここだったか!
このタンスの戸、いつだったか開けたような気がする、学生の頃。
ごそごそしてみると、
赤色の、表紙に大きな犬のアップリケが付いたアルバム
を見つけたのだった。
母や祖母が好きそうな、色とキャラクターである。
もしかして、これは母のアルバムでは?
開いてみた。
するとそこには、母の幼少時の写真、祖父、祖母、伯父たちの写真が丁寧に貼られていて、一枚一枚に説明書きがしてあった。
私は、ページをめくっていった。
あった!祖父の写真が!
ひとりで、畑を耕している写真。
伯父たちと、居間で談笑している写真。
家族5人で、仲良く笑顔で写っている写真。
伯父たちが、母を可愛がっている写真。
アルバムの中は、幸せで溢れていた。
そこにいたのは、「私の理想の家族像」だった。
そして、アルバムの中の祖父は、全ていい顔をしている。
祖父の、本当の姿を見たのだった。
あんなに写真を探していたのに、ここにあったんかい!
私は大号泣した。やっと祖父を見つけた喜びと、アルバムの中の幸せな家族の写真に、自分の中で物語が完結した、という達成感だろうか。
涙が止まらなかった。
そのアルバムだけではない。
祖父が生前用意してくれていた、ベビー用品を使っている私のアルバムも出てきたのだった。
『祖父を探す旅』は、本当に長かった。『祖父と私と、桜』のような物語は、残念ながら出来なかったけれど、アルバムが出てきたことにより、私は『家族想い』であった祖父の姿を見ることが出来たし、「光の当たる場所」に出してあげることが出来たと思う。
でも、不思議。
祖父が、アルバムのある場所に導いてくれたんだろうか。
アルバムでは祖父に会えたけれど、祖父にも長生きをしてもらいたかった。
私は、『生きている祖父』に会いたかった。たくさん話をしたかった。
八重桜の咲く季節になると、私は必ず祖父のことを想う。
とても、とても会いたかった祖父のことを。
今年は、桜を堪能する状況ではないが、来年はゆっくりと見ることが出来たらいいなあ。
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