見出し画像

テレビゲームはただの科学的なプログラムの羅列ではないし人間の心に即座に反応する生物でもない

こんばんは。

このタイトルは釣りでタイトル回収は後の方になる。ただ人間の精神について書きたいけど普通に書いても誰も読まないからだ。釣りでも頑張って書く。

自分は精神障害者なのだが、医学の精神科では「こころの問題を治す」派と「脳の動作不良を治す」派がいる。
前者は人間の文化的な面を信じ、幸せな人間として生きられない苦悩や人間関係やトラウマなど人生を物語的にとらえて治療するのだろうか?
対して後者はそのようなモノこそ宗教や魔女狩りのようなオカルト的なモノとして忌避しガリレオ・ガリレイ的な科学的治療が正しいと信じる。

だが僕からしたらどちらも最近の学問が産んだ迷妄にしか見えない。

前者は人間の自由さを過信してすぎてるし後者は科学的なAIが人間的になるというような数学や物理学で全てが説明できると思ってる。

僕は「脳はこころに縛られるしこころも脳によって操られる」と思っている。哲学的にいえば中動態というんだろうか。

精神障害の僕は脳に操られるように、精神病院で自分の行動が止められずドアをガンガンした、という極端な体験はしたのだけれども。

現在の社会は人間の自由という讃歌を信じすぎてるし、金と承認欲求さえ満たせればいいという虚無主義も信じすぎている。

だから男性の性欲は消せないのに、女性は自由な性的なカッコウをするのを反対する人にキレるし、日本人は芸能人になってもパパ活しても満たされない人がいるのだろう。


テレビゲームは所詮人間の作ったプログラムなので「ゲームという遊びのセーブデータが消されたりソフトを借りパクされたごときで怒るな」という人は出てくる。しかしテレビゲームを作るのは趣味嗜好や感情、目的を持った人間でそういう人に響くために作るため、ゲームをすると価値観が形成されたり感情に訴えられてなにかを大切にしたりぞんざいに扱ったり何かの技術が磨かれたりする。

だからといってゲームは人間に対して人間的な反応はできないしプログラムの域はでられない。


脳とこころ。それに優劣をつけるのは危ない。特に最近の日本社会では脳を重視する人の方が多いので酒やドラッグに溺れてく人は増え続けるだろう。

かといっても自分を主人公として物語的に動くのは厨二病で、それぞれの人間の価値は平等だ。オタクに人気の曲『シュガーソングとビターステップ』のように。

そんな中で心を大切にして生きていくには漫画『ゆるキャン』や『ぼっちざろっく』のように孤独な人達が孤独を大切にしながら、時にはチームとして社会に生きるしかない。

孤独で完結する孤独な物語。その中で脳とこころがシンクロし、その自分を客観的に見ながら社会にうまく擬態することが、社会につまはじきにされてる精神障害者に必要なことかもしれない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?